古墳(こふん)時代からすでに蝶結(ちょうむす)びがあったことがこの埴輪(はにわ)からうかがえます。
蝶結びは全部で10か所、挂甲は前部分は向かって左を前に引き合わせて結び、後ろのすね当ても、ひもで結んでいることがわかります。
甲(よろい)にあるのと同じように小さな線が入っており、足も小さな鉄を組ひもでつづって作られた甲(よろい)でおおわれています。細部にもこだわって製作(せいさく)されたことがうかがえます。
もう一つは、台座があることで全体をより大きく見せるためで、王の権力(けんりょく)をアピールするねらいもあったと言えるでしょう。
これは埴輪(はにわ)に色がついていたことがわかる貴重な痕跡(こんせき)です。この赤の顔料はベンガラと言い、比較的(ひかくてき)身近で手に入りやすい物を使って着色していました。
国宝に指定された理由
東京国立博物館蔵
出典:ColBase
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冑(かぶと)をよく見てみると、頬(ほお)には顔を守る頬当てもついています。実際(じっさい)に古墳時代の武人たちはこのような冑を身にまとって戦(たたか)いや儀式(ぎしき)に参加(さんか)したと考えられています。古墳時代の甲(よろい)を精巧(せいこう)に表した全身像(ぞう)の埴輪(はにわ)は非常に稀(まれ)です。日本で初めての国宝埴輪として著名です。
戦い方を変えた挂甲
東京国立博物館蔵
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東京国立博物館蔵
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挂甲が生まれる以前、日本では短甲(たんこう)と呼ばれる、さまざまな形の鉄板を鋲(びょう)や革(かわ)ひもでつなぎ合わせた甲(よろい)がありました。大きな鉄板をつなぎ合わせており、動きにくかったと考えられています。一方、挂甲は、ひもでいくつもの小さな鉄板を横につなぎ合わせ、横に長くのびた鉄を上下に伸縮性(しんしゅくせい)を持たせつつつなぐので、短甲に比べてとても動きやすいというのが最大の特徴(とくちょう)です。この挂甲が生まれたことで、それ以前は歩兵(ほへい)中心でしたが、馬に乗った騎馬(きば)での戦いが可能になりました。挂甲は画期的(かっきてき)に戦力(せんりょく)を向上させる甲だったのです。
秦始皇帝陵博物院蔵
挂甲のルーツは古代中国にあります。紀元前3世紀に初めて中国を統一(とういつ)した始皇帝(しこうてい)は、古代中国にすでにあった機動性(きどうせい)の高い挂甲を積極的(せっきょくてき)に取り入れ、全土統一(ぜんどとういつ)を果(は)たしたと考えられています。始皇帝が眠(ねむ)る墓の近くにつくられた「兵馬俑坑(へいばようこう)」には挂甲を身にまとった兵士(へいし)たちの像(ぞう)が置(お)かれています。
挂甲は、その後、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)に渡(わた)りました。4世紀以降、半島では鉄の資源(しげん)をめぐって、高句麗(こうくり)という国が領土拡大(りょうどかくだい)を狙(ねら)っていました。当時の日本(倭)は百済(くだら)と手を組み、高句麗と相対することに。そのような緊張の中で目にしたのが、この挂甲をまとった騎馬(きば)の兵士たちでした。当時の日本はまだ短甲(たんこう)を身に着けており、歩兵と騎馬、その戦力の違(ちが)いに大きな驚(おどろ)きと恐(おそ)ろしさを感じたことでしょう。その後、積極的に挂甲とともに騎馬という新たな文化を取り入れていったのです。
矢の先を見せているのはなぜ?
東京国立博物館蔵
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矢筒(やづつ)に入った”矢”に注目してみましょう。先がとがっているのがわかります。これは矢じりを上にしているからです。
刃物(はもの)の先を上に向けるのは、強さのアピールのためだと考えられ、するどい矢を出すことで邪悪(じゃあく)なものを払(はら)う意味があったのでしょう。
なぜ顔を赤色に?
熊本県立装飾古墳館蔵
京丹後市教育委員会蔵
赤は古代から”魔(ま)よけ”の色として使用されていたことがわかっています。
お墓(はか)に赤色で模様(もよう)を描(えが)いたり、死者に顔料を振(ふ)りまき、悪霊(あくりょう)になるのを防(ふせ)ごうとした、という考えもあります。
埴輪(はにわ)とは?
東京国立博物館蔵
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東京国立博物館蔵
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東京国立博物館蔵
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埴輪(はにわ)とは、今からおよそ1500年前の古墳時代(3世紀半ば~7世紀)に多く作られた焼(や)き物のこと。古墳(こふん)とは王などの偉(えら)い人たちのお墓(はか)で、埴輪は古墳の上や周囲(しゅうい)に並(なら)べられていました。
最初(さいしょ)に作られた埴輪は円筒埴輪(えんとうはにわ)と言います。古墳を囲(かこ)むようにぐるっと周囲に置(お)かれ、古墳を聖域化(せいいきか)する目的で作られました。その後、家や船、動物など、生前の王に関(かか)わりのある埴輪が生まれていきます。家は王の立派(りっぱ)な住まい、船は王の水運力、動物は王が取り仕切った狩猟(しゅりょう)を表しています。これらの埴輪が作られたのは、生前の王の力をビジュアル化し、よりわかりやすく後世に残すためだとする説もあります。
挂甲の武人が作られたのも、王の力の強さをアピールするため、と考えられています。
どこで出土した?
東京国立博物館蔵
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挂甲の武人は群馬県太田市で出土しました。太田市周辺(しゅうへん)では、小さな鉄板を綴(と)じあわせた挂甲という武具を身にまとった武人の埴輪(はにわ)が数体出土しており、この地域(ちいき)にすぐれた埴輪製作の集団(しゅうだん)が存在していたことが想像(そうぞう)されます。ともに作られたのは6世紀です。この時代、この地域でいくつもの武人埴輪が作られたのは、当時、群馬では”馬”の生産が盛(さか)んで、その馬に乗って戦(たたか)う、優(すぐ)れた武力(ぶりょく)をもった武人たちがたくさん存在していたからだと考えられます。その武人たちをかたどったのが、武装(ぶそう)する埴輪です。
挂甲の武人は1500年前の古墳時代の武人の姿(すがた)を今に伝えてくれる貴重(きちょう)な資料(しりょう)となっています。
なぜ日本初の国宝埴輪に?
東京国立博物館蔵
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挂甲の武人は1974年、埴輪(はにわ)として日本で初(はじ)めて国宝(こくほう)に指定されました。初の国宝に指定された理由は”古墳時代の武人(ぶじん)の姿(すがた)を精巧(せいこう)に表した埴輪”だからです。この埴輪は、古墳(こふん)時代の武人がどんな姿でどんなふうに戦(たた)っていたのかを教えてくれる、とても貴重(きちょう)なものです。
例(たと)えば、鉄板を組み合わせた甲(よろい)、鉄を固定する鋲(びょう)が再現(さいげん)された冑(かぶと)、矢じりを上にして入れる矢筒(やづつ)…細部までこだわって作られた埴輪であることがわかります。ここまで細かく、しかも完全(かんぜん)に武装(ぶそう)された姿が再現された埴輪はあまりありません。そのことから埴輪として日本初の国宝に指定されたのです。
なぜ戦士の姿をしている?
東京国立博物館蔵
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古墳(こふん)に置かれた埴輪(はにわ)は、それぞれの形によってさまざまな意味合いがあります。挂甲の武人は、甲(よろい)に身をかため、刀や弓を持つことで、王の生前の力の強さを表していたとみる説もあります。武人(ぶじん)の埴輪はまさしく王の力の象徴(しょうちょう)だったのです。