【お砂糖とスパイスと爆発的な何か】昔の女性も「経血コントロール」はできてない~民話好き視点からの三砂ちづる批判(北村紗衣)
私は民話や神話がかなり好きです。以前、この連載でもシンデレラをとりあげて、もともとはこの物語が世界中で昔から語り継がれている民話だったことを解説しました。もともと子供の頃から昔話が好きだったのですが、私が研究しているシェイクスピアなどの英文学はヨーロッパの神話や民話からの影響が大きく、大人になってもこうした物語に触れる機会がたくさんありました。今でも口承文学の語り部にちょっと憧れているところがあり、文章を書くのが好きなのはたぶんそのせいかもしれないと思っています。
以前の記事ではシンデレラを商業化したディズニーを批判しましたが、私が不満を抱いているのはディズニーだけではありません。今回の記事で民話好きとしてツッコミを入れたいのは、疫学者の三砂ちづるの著作です。三砂ちづるの復古主義的・反フェミニズム的な主張については田中美津や斎藤環などがいろいろ批判しているのですが、民話をめぐる観点からの批判は人目に触れる形で行われたことが比較的少ないように思います。
◆ヤマトタケルと経血コントロール
三砂ちづるの著作に『昔の女性はできていた』(宝島社、2004)というものがあります。これは、「昔の女性は月経血コントロールができた」(p. 213)ので、それを復活させようということを主張する本です。つまり、昔の女性、具体的に言うとこの本が書かれた2004年に90歳以上くらいだった女性は、月経の時に生理用品を使わず、経血を膣にためてトイレなどで出すコントロールができたが、そうした「大切なからだの知恵」が現代では失われたので「日本の女性のからだはどんどんだめになってしまう」(p. 12)のではないかと危惧しています。
経血コントロールに医学的な根拠がないことはたびたび言われており、wezzyにも問題を指摘する記事が出ていますし、『生理用品の社会史』の著者である田中ひかるや産婦人科医の宋美玄など、専門家による批判もあります。しかしながら、私がこの話を聞いて最初に思ったのは「昔の女性もできてないじゃん」ということでした。
日本神話の宝庫である『古事記』には、月経が登場する挿話があります。ヤマトタケルが尾張のミヤズヒメと結婚した時、ミヤズヒメの着物の裾に「月經(つきのさわり)著きたりき」(倉野憲司校注版、p. 124)、つまり経血が付着しているということがありました。これを見たヤマトタケルは「襲(おすひ)の裾に 月立ちにけり」で終わる歌を作り、ミヤズヒメはヤマトタケルを太陽にたとえ、あなたを待っているうちに月が出てしまったというような意味の歌を返します(倉野版、p. 125)。月が出たというのは月経を指します。生理の大出血がきっかけにしてはずいぶんと雅やかなやりとりですが、この後ヤマトタケルとミヤズヒメは「御合(みあひ)したまひて」(倉野版、p. 125)ということで、ちゃっかりセックスはしたようです。
経血コントロールのことを聞いた時に私が最初に思い出したのはこの『古事記』の神話です。たまたまですが、私が高校の時に受けた国語の授業で、上代の日本語の例としてヤマトタケルの話が現代語訳つきで全部のっている資料が配られたことがありました。私はその時から神話好きだったのでちゃんと資料を全部読んだわけですが、この経血の話はちょっとインパクトが強すぎたのでよく覚えていました。『古事記』のお姫様だってできてないのに何が「昔の女性はできていた」だ! この人は昔の日本の習慣を大切にしたいらしいのに、日本の神話も読まないのか! と思いました。
まあ、ミヤズヒメは古代神話の登場人物なので、2004年に90歳以上だった女性に比べるとちょっと昔の人すぎるかもしれません。そうはいっても、山田ノジルなどが既に分析しているように、実は『昔の女性はできていた』には経血コントロールができていたらしい女性がほとんど登場しないのに、なぜかうやむやのうちに昔の人は経血をコントロールしていたことになっている、という問題があります。この著者は本気で昔の女の人のことを調べる気があるんだろうか……と私は思いました。
◆オニババは超多産
三砂ちづるが同年に刊行した『オニババ化する女たち』(光文社、2004)は、「日本の昔話には、よくオニババや山姥が出てきます」(p. 3)という文章から始まり。オニババが小僧などを襲う昔話についての説明があります。そして次の段落にはこんな指摘が書かれています。
社会のなかで適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおり「エネルギー」の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だった、と私はとらえています。
この「エネルギー」は、性と生殖に関わるエネルギーでしょう。(中略)それを抑えつけて使わないようにしていると、その弊害があちこちに出てくるのではないでしょうか。
民話好きの私はこれを読んでビックリしました。というのも、山姥とか鬼婆は子持ちに決まっていると思っていたからです。金太郎は山姥の子供だというお話がありますし、元祖鬼婆と言えそうな鬼子母神は極めて多数の子供を持つ母親でしたが、他人の子供を食うということで恐れられ、ブッダに諫められて出産の神に生まれ変わりました。
山に住んでいて人を食うような女性の怪物は山姥、鬼婆、山母、山女、山姫などいろいろな呼び方で呼ばれますが、かなり複雑怪奇な存在です。単に破壊的であるだけではなく、しばしば非常に多産で、幸運をもたらすこともあり、自然がもたらす危険と豊穣の両方を象徴するようなところがあります。柳田国男は『山の人生』で山姥と出産をめぐる民話をとりあげていますし、吉田敦彦『昔話の考古学』第2章では、異常に多産な山姥の民話がいくつも紹介されています。国際日本文化研究センターが提供している怪異・妖怪伝承データベースにも、鬼婆に子供がいる話とか、子持ちの山姥が安産祈願のため祀られている話とかが複数登録されています。
こういう昔話を眺めていると、鬼婆とか山姥というのは「性と生殖に関わるエネルギー」を持て余している「独身の更年期女性」どころか、生殖エネルギーをフル活用して子供を産みまくっている女性です。地母神系の女神が凶暴で破壊的なのは神話の世界ではとくに珍しいことではなく、山姥が多産で人食いなのも驚くようなことではありません。三砂ちづるは「昔話でいうオニババというのは、(中略)女の人というのはある程度に時期になったら、きちんと相手を与えて、子どもを産ませて…とどういうことさせておかないと、こんなふうになっちゃうぞ、というメタファー」(p. 231)だなどと言っていますが、これには根拠がありません。むしろ鬼婆は、荒ぶる母性のようなものを象徴する姿で出てくることのほうが多いのです。
民話を翻案・再話して新しいフィクションを作り出すのは全く問題ないと思いますし、むしろクリエイティヴなことです。しかしながら、三砂ちづる『オニババ化する女たち』は、民話の鬼婆の姿を完全に無視し、自分の頭の中で勝手な鬼婆像を作って、そこから導き出した道徳を現代女性に対して説こうとしています。「日本人は、昔はすぐれたからだを持っていたのに忘れるのが早い」(『オニババ化する女たち』、p. 248)などと言っていますが、日本語で語りつがれてきた面白い民話については、忘れるどころか調べもしないのです。
三砂ちづるに限らず、昔の日本をことさらに称賛する人々は、日本の神話や民話、古典などの文化を保存することには無頓着だったりします。民話や神話は過剰な愛国心を煽るために使われやすいものなので、度が過ぎた礼賛などには注意する必要がありますが、『昔の女性はできていた』や『オニババ化する女たち』はそれ以前の問題を抱えています。昔のことを礼賛しているわりに、全く昔の物語を大事にする気がないのです。
参考文献
上野千鶴子他『バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』双風舎、2006。
倉野憲司校注『古事記』岩波文庫、1977。
鈴木菜穂「金太郎と民間説話」『口承文芸研究』21 (1998):48-62。
高島葉子「山姥とハッグ妖精の比較研究―日本とブリテン諸島における民間信仰の女神とその源流」、博士論文、大阪市立大学、2014。
田中ひかる『生理用品の社会史-タブーから一大ビジネスへ』ミネルヴァ書房、2013。
田中美津『かけがえのない、大したことのない私』インパクト出版会、2005。
蓮田善明訳『現代語訳古事記』岩波書店、2013。
三砂ちづる『オニババ化する女たち』光文社、2004。
三砂ちづる『昔の女性はできていた-忘れられている女性の身体に“在る”力』宝島社、2004。
柳田国男『遠野物語・山の人生』岩波文庫、1976。
吉田敦彦『昔話の考古学-山姥と縄文の女神』中公新書、1992。
若尾五雄『鬼伝説の研究-金工史の支店から』大和書房、1981。
初出:wezzy(株式会社サイゾー)
プロフィール
北村紗衣(きたむら・さえ)
北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
twitter:@Cristoforou
ブログ:Commentarius Saevus
著書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房)



コメント