理工系からのラブコールに、温度差のある人文系

田井中(以下、T) そもそも今回の特集は、私が以前から感じてきたことが起点となっています。私自身は文系出身ですが、これまで理系の研究者に取材をして記事を書くという仕事に多く携わってきました。そのなかで、毎回、その研究の面白さに痺れつつも、サイエンスやテクノロジーの中身を一般にわかるように伝えることの難しさを感じてきました。それはおそらく文系の研究も同じで、そもそも専門知を分野外の人にわかるように伝えるのはとても難しい。だから、ノーベル賞受賞のニュースなどでも、研究の中身そのものよりも、その研究者の人柄や奥様の内助の功などに焦点が当てられてしまうのだと思います。こうした状況をなんとかできないかなと、ずっと感じてきました。

一方、国のプロジェクトなどを中心に、「文理融合」「医工連携」「学際」など、分野を結ぶ動きが盛んです。その背景には、多くの分野でITが研究の基盤になりつつあることや、社会課題を解こうとしたときに、複数の分野の知を結集させて臨まない限り太刀打ちできないことがあるのだろうと思います。専門知の共有が難しいなかで、はたして、そうした連携はうまくいっているのかどうか——。そこで、本日は科学史という、まさに文系と理系に跨るご研究をされてきた隠岐先生に、文理融合をめぐる現況についてお聞きしたいと思います。

隠岐 まず、現状ということでお話ししますが、実は、「文理融合」というのは、主に理系側の人が、「人文社会系の人を巻き込んでやるほうが何か良さそうだし、研究費も取りやすいから一緒にやろう」というケースが現状ではまだ多いんですね。つまり、理系の人が主体である場合が多い。また、人文社会系と一口に言っても、人文学(あるいは人文科学)と社会科学に分かれる上にその中にいろいろな分野があります。とくに社会科学分野には、実学に近くて、外から見ると理工系との連携が期待されそうな分野がありますが、そうした分野が意外と連携に冷淡だったりします。ある意味、社会的に強い立場にある分野なので、積極的に多分野と連携する必要を感じづらい。それで主体的に外とつながろうとしない、という状況があるかと思います。

科学史家・隠岐さや香教授が語る文理融合の現実と理想:分断の可視化は、試練でありチャンスでもあるの画像
隠岐さや香さん

たとえば、少し前の調査になりますが、京都大学の宮野公樹准教授によれば、分野連携にもっとも消極的なのは法学部なのだといいます。法学部の専門家が集まる組織は所帯も大きいし、社会的なポジションも安定していますからね。現在では、AIやデータ利活用などでガバナンスやレギュレーションが不可欠な時代なので、状況は変わってきているかもしれませんが、当時の法学部はほかの分野とはほとんどつながっていませんでした。あるいは応用経済学なども同様です。売れっ子の研究者はなかなかつかまらないし、実際にお声がけしても断られてしまう。そうした方々は、理系の研究者とつながってもあまり旨みはないし、むしろ企業との共同研究に取り組むケースのほうが圧倒的に多いのだろうと思います。

一方、人文学の中でも、一見して実学と縁の薄そうな文学や歴史などは、意外に学際研究している領域です。たとえば、古文書の修復を理系の研究者と一緒に手がけている人もいる。ちょっと言い方は難しいのですが、役に立たない学問と言われがちで、雇用が安定していない人たちほど、他の分野に揉まれる経験に直面していたりします。場合によっては、専門とはまったく違う分野にポツンと一人だけ入り込んでいる、ということが少なくないのです。「そうしたい」というよりも、実態としてそうなっている、といったところでしょうか。

ちなみに、私自身はかつて経済学部にいたことがあり、経済学は社会科学の代表的存在の一つです。しかし、理工系とつながろうとする経済学者はあまりいませんでした。とくに、理工系のイノベーションの研究を手がける経済学者はほとんどいなかった。企業の経営研究としてのイノベーションを研究対象とすることには積極的なんですが……。むしろ、理工系のイノベーションについては、私の業界である科学論の研究者たちが強く関わっています。そこにちょっとした溝があるんですね。それは彼ら彼女らのせいではなく、日本のイノベーションの構造的な事情や歴史的経緯によるものです。日本のイノベーションは省庁が中心になって牽引してきた歴史があるので、大学の経済学者が研究対象とする分野になりづらかったのです。

T 分野によって事情もモチベーションも、かなりちがうのですね。

隠岐 はい。現状をまとめると、理工系の人たちは人文社会系に目を向けているけれど、人文社会系の中には温度差がかなりあり、学際的な分野に関わっている人文社会系の人には、歴史家だったり文学者だったり、応用研究から遠い分野の人たちの方がむしろいるのではないかという印象になります。しかしそういう人たちは連携の際に声はかけやすいけれど、たとえば古文書修復だとかよほど具体的な目標がないと、あまりわかりやすい成果はでないのかもしれない。多くは面白い話を何度かして解散という流れになりがちです。文理で交わりがあったとしても、必ずしもうまくいっているとは限らない、ということですね。

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文理融合がうまくいっているケースでは、密に話し合いをしている

T たとえば生命科学であれば生命倫理の研究者が、データサイエンスであれば個人情報保護法などに詳しい法律家が関わっているように、社会の要請に迫られて文理融合ができている分野はあるにしても、それは一部ということですか。

隠岐 そうです。もちろん、各分野にELSI(Ethical, Legal, and Social Issues)の研究者が関わる構図はできつつあるのですが、その関わりは業界ごとに温度差があります。われわれのようなSTS(科学技術社会論:Science, Technology and Society)の人たちは、理工系と関わること自体がメインでやる研究なので違和感なく取り組んでいますが、そうではない分野も多い。

もちろん、うまくいっているケースもあります。たとえば、東京大学の熊谷晋一郎先生の当事者研究ラボの取り組みはシナジー度が非常に高いと思います。当事者研究というのは、身体障害や精神障害のある当事者の方の生の経験と、医学や心理学の専門知を組み合わせようという研究です。実際にこのラボでは、当事者が何を考えているのかということや、ターム(専門用語)の使い方をどのように擦り合わせるのかとか、当事者とどのようにコミュニケーションをしていったらいいのかとか、研究の過程で生じるさまざまな違和感や軋轢に対して、都度、話し合いながら進めているようです。私もその話し合いの場に呼んでいただいたことがあるのですが、非常に深いレベルで連携ができていると感じました。

そういう意味では、私自身はこれまで、融合がうまくいったプロジェクトにあまり関わったことがないのです(笑)。歴史家としてのこだわりがでてしまったり、他の分野の人たちと噛み合わないと感じたりする事例をつくる側になってしまっていると思います。

T タームについて話が出ましたが、分野によって言語が違って通じない、と聞いたことがあります。たとえば、「モデル」とか「学習」といった、よく使われる言葉でも、理工系と人文系では、使い方や意味合いが異なるケースがありますよね。そこで、話が噛み合わなくなるわけですが、結局、何か違和感を感じたら、都度、話し合い、擦り合わせていくしかない、ということでしょうか。

隠岐 そうなのですが、実際には難しいのです。力関係によって、一方の分野の人たちが話を聞いてもらえないという感覚に陥ることもあるし、揉めることもあります。先ほども言ったように、文理融合、文理連携の場合、多くは理工系から話が来て、人文系の研究者は少人数で入るケースが多いので、人文系の人たちは、「あまり話が通じないな」と諦めたままつきあって、プロジェクトが終わったらそのまま縁が切れてしまう、ということもよくあるわけですね。

私自身、過去には脳神経倫理などの研究プロジェクトに携わったものの、ちゃんと深く関われなかった反省があります。昔の例ですけど、仲たがいしてしまって二度と一緒にやらない、と物別れに終わったケースもあると聞いています。逆に、人文系の研究者でも、文理融合のプロジェクトを経て脳科学の研究者になった方もいるので、ケースバイケースではあるのですが。

T 仲たがいですか。

隠岐 その研究に対して、誰が一番重要な貢献をしたか、つまり論文の筆頭著者を誰にするかで揉めたようです。実際に手を動かして実験した理系研究者か、その論文を書いた人文系の研究者か、それぞれ、自分のほうがより貢献度が高いと思っていたら、折り合いはつかないですからね。それで、面倒臭くなって、「もう二度とやらない」となってしまった。

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T そもそも一口に研究と言っても、文系と理系ではその営みも評価の仕方もまったく異なりますよね? 国際学会で発表することが評価される分野もあれば、ジャーナルに投稿することでしか評価されない分野もある。人文系では書籍を出版することが重要なわけで、それぞれ感覚も違うのでしょうね。

隠岐 テクストを書く人が偉いという文化と、テクストは助手の誰かが書くのでも構わない、手を動かしてデータを取った人の方が偉い、という文化の違いは大きいですね。最近は、そうした衝突が起こらないように、事前にそれぞれの役割を確認し、棲み分けている場合も多いと聞いています。

「差異を意識した方がいいし、対立するくらいでもよい」

隠岐 それから、連携がうまくいくかどうかは、「いまの課題を共有できているか」というのが大きいポイントだと思います。ある社会課題があって、測って、解析して、仕組みやガイドラインをつくりましょう、という問題であれば、比較的、うまく融合できる。相性が悪いのは、そもそもの問題設定自体に、片方の分野の人たちが違和感を覚えるケースです。

賀内(以下、K) そうしたことは大いにありそうですね。その場合、「その設定は違うんじゃないですか?」と問いかけるのは、やはり難しいのでしょうか?

隠岐 そうですね。結局、話が噛み合わないまま、連携をお断りするケースがありうる。あくまでも仮定の話ですが、たとえば近年、教育に関するデータを活用する動きがありますよね? 子どもたちの学習データをもとに、個々人の理解度に合わせた教育をしていこう、つまり情報技術を用いて学びの個別最適化をしよう、とか。そうした取り組みに対して、教育学、あるいは哲学の先生方が、倫理的な問題点を感じて指摘することもあるかもしれない。たとえば、子どもたちの日常が常にデータ収集の場となるかもしれない。それはよいことなのか。たとえ研究倫理的な問題をクリアできたとしても、監視社会的なあり方を拡げることにつながるんじゃないか、など、その研究が向かっていく社会の方向にふと思いを馳せてしまい、そのプロジェクト自体を否定的に捉えたりするわけです。

対して、情報系の先生方からするとそうした思考法に違和感があるかもしれません。もともと情報系の先生方は、情報技術が浸透した社会を肯定的に捉える傾向がある上に、問題があればその都度、優れた技術で解決できるという思考法をとりがちだからです。これは架空の例ですが、根本的な価値観の対立が露呈して両者の話が噛み合わなくなる、といったケースはありえます。

両方の価値観がありうるわけで、私からすると、両者はそんなに仲良くならなくていいんじゃないか、という気すらしています。両方の意見があって、対立し合うくらいのほうが、むしろ社会全体にとっては好ましいのではないか。一方の行きすぎを他方が抑制し、その結果、いろんな価値観をカバーできるんじゃないかと思うのです。

科学史家・隠岐さや香教授が語る文理融合の現実と理想:分断の可視化は、試練でありチャンスでもあるの画像

T なるほど……。ただ、さまざまな意見があるのは当然としても、いまは、違う意見の人たちが分断したまま、コミュニケーション不全に陥っているように感じるのですが、その点については、何か解決策はあるのでしょうか?

隠岐 学問の分野同士という話に限ってなら、私自身はわりと分断を好意的に捉えている部分もあります。やはり歴史を見ても、人間や社会を研究する人たちが、「自分たちは自然科学の方法論ではうまく研究できない」と意思表明し、社会科学を自然科学から分けたことにより新しい視野が開かれたと思いますし。

意外と誤解されがちですが、私は文系と理系は実は違わないとか、融合してしまえばいいだとかは思っていないのです。むしろ、差異を意識した方がいいし、対立するくらいでもよい。一方は愚直に個別具体的な人間の生とその価値を徹底的に掲げ、他方は大量の人間や自然の現象から得られた情報を数量データとして処理することで知られざる現象を発見する。それぞれの分野が正反対の方向から知見を提示して、競合しあいながら集合的知性により残るべきものが残るというのをよしとしています。

「分断する権利をわれに与えよ」

K 学問の分野同士という話に限ってなら、と前置きされましたが、その他の場面の分断についてはどうなのでしょうか?

隠岐 「分断」が政治の領域の話となると、これより少し考えるべきことも出てくるかもしれません。それでも私には「分断する権利をわれに与えよ」という感情があります。なんであれ分断が可視化されているというのは、それが不可視な状態よりはだいぶ健全だと思うからです。もちろん、相手の存在を認知できなくなるレベルの分断ではなく、意識できている状態のことを念頭に置いています。その意味でいまは何かあると誰かが必ず文句を言っている様子が見える社会なので、実は自分としては少し安心しています。

確かに、政治的な分断が起きて双方がまったく違う現実認識を持つに至っているという厳しさを目の当たりにすると私たちは怯み、驚きます。特に、一つの出来事に関してまったく違う解釈が併存する状況には唖然としますし、自分とまったく違う価値観を持つ集団が政治的な勝利をおさめる場合には身の危険を感じもします。

ただ、それはもともとあったズレが表面化しただけのようにも思うのです。実際、歴史的な過去の出来事をみると、ひどい分断の事例はよく出てきます。たとえば18世紀フランスの政治論争文書はたがいに政敵を誹謗中傷し、根拠なく陰謀を疑う言葉に満ちています。そして大抵の場合、お互いが折り合うどころか互いの認識の差をまともに把握することすらなく、ただ時間が過ぎていった様子が伺えます。

そのような過去の理解があるので、逆に現代は「わかりあえなさ」が比較的高い解像度ですぐに可視化されてすばらしいと思います。同時に、そこに試練とチャンスの両方があるとも感じます。試練というのは、やはり「わかりあえなさ」の露骨な可視化は私たちにとって大変なストレスだということです。一方でチャンスと思うのは、そのストレスフルな現実を体験することで、ひょっとすると過去の人よりも何かを知ることができるかもしれないと感じるからです。私たちがこの事態に慣れて、以前にはない対処方法を見つける可能性は充分に残されている。時間はかかるかもしれませんが。

(#2につづく)


科学史家・隠岐さや香教授が語る文理融合の現実と理想

#1 分断の可視化はチャンスでもある
#2 分断を抱えながら飼い慣らすには
#3 (1月公開予定)