それは、一人の少女の幸せと苦痛の記憶━━
◆◆◆
「う、うぅん……」
徐々に意識が浮上していく。
すぐ近くに、温もりを感じた。
柔らかくて、あったかい。
今までの人生で一度として感じたことのない、酷く安心感を覚える感覚。
閉じていた目を開けると、そこには……。
「………………おっきい」
あまりにも大きな胸があった。
飽満だ。豊かだ。母性の象徴だ。
自分はそんな胸に抱かれていた。
頭が混乱する。
自分は確か、死ぬ覚悟であの娼館から逃げ出して、大雨の中で行き倒れて、それで……。
「あ! 起きたんだね! よ、良かったぁ」
その時、頭の上から声が聞こえた。
見れば、凄まじい美貌の美少女が、自分を見て泣き笑いのような顔を浮かべていた。
彼女からは、神聖なオーラのようなものを感じた。
自分の全てを包み込んで温めてくれるような、そんなオーラを。
脳裏に、かつて誰かが言った言葉が蘇る。
『ハハハハ! 痛いだろう! 苦しいだろう! なら、神様にでも祈るといい! 地上には神があふれているんだ! きっと誰かが助けてくれるさ!』
虐げてくる怖い人が言っていた。
『ああ、神様、お助けください……! 哀れな私達をお救いください……!』
同室に押し込められた女性が祈っていた。
祈れば助けてくれるかもしれない存在。
そんなものは見たこと無かったし、祈っても何も起こらなかったから信じていなかったけど。
もし本当にそんな存在がいるのなら、目の前の少女のような姿をしているのかなと思わされた。
「神、様……?」
「うん。そうだよ。ボクは女神ヘスティア。
傷ついた子供を絶対に見捨てない、暖炉の火のような温もりと安心を司る女神さ」
思わず口をついて出た言葉を肯定された。
神様。本物の神様。
なら……。
「助けて、くれるの……?」
「もちろんだとも」
「痛いこと、しない……?」
「当たり前さ」
そう言って、ヘスティアはギュッと抱きしめる力を強めた。
包み込まれる。
その温もりに、その神威に。
人ならざる
自分よりも遥かに大きなものに包まれる感覚。
ヘスティアのそれは、本当に暖炉の火のように、傷ついて凍てついて震える少女の心を、魂を、優しく温めてくれた。
まるで、何度も何度も夢に見た『母の温もり』のように。
「あ、うぁ……!」
涙が出てきた。
枯れたと思っていた涙が。
「あああ……!」
小さな体の中に押し込められていた苦しみが、悲しみが、堰を切ったようにあふれ出す。
神は、その全てを受け止めてくれた。
「よしよし。辛かったね。苦しかったね。もう大丈夫。大丈夫だから」
「うわぁああああああああ!!!」
その後、しばらくの間、少女は女神の胸で泣き続けた。
泣いて、泣いて、泣いて。
そうして、全てを吐き出すことができた頃に。
「そうだ。これだけは聞かなきゃいけないね」
ヘスティアは、一つのことを少女に尋ねた。
「君の名前はなんていうんだい?」
名前。
自分を呼ぶ言葉。
少女はそれを知っていた。
誰かがノリで付けた名前らしい。
美しい母の『代替品』という意味が込められていると聞かされた。
それでも、
「スピネル、です……」
「……スピネルくんか。『努力』の意味を持つ宝石の名前。今まで頑張ってきた君にピッタリの良い名前だ」
「!」
この女神様がそう言ってくれるのなら、自分の名前にはそんな素敵な意味があると思えるような気がした。
自分の名前はスピネル。
代替品じゃなくて、努力の意味を持つ宝石。
少女はその言葉を、宝物のように胸に刻んだ。
◆◆◆
「あ、バイトの時間……いやいや、こんな傷ついた子を置いていけるわけない。置いていっていいわけない」
スピネルが泣き止んだ頃、ヘスティアがそんなことを呟いた。
声に出すつもりは無かったのだが、ポロッと口からこぼれてしまった。
グータラ過ぎて
調教師がよほど優秀だったのか、それともクビになったらガチで飢え死にして天界に強制送還させれるという危機感からか、無断欠勤への忌避感が結構強かったのだ。
「バイト……ってなんですか?」
「え? あー、えっと……」
バイトという単語を知らないスピネルの様子に、ヘスティアは彼女の育ってきた環境の酷さを再認識して、憤慨と憐憫を抱いた。
いつか虐げた奴らはお縄につかせてやる。
そして、今日は無断欠勤してでもこの子の傍にいる。
そう決めた。
「バイトっていうのは、つまりお仕事だね」
「お仕事……行かないんですか?」
「大丈夫。今日は君の傍にいるよ。店長には後で謝って……」
「ダ、ダメです!!」
「へ?」
突然、スピネルが大声を出した。
「お仕事、やらなかったら、酷い目に……!」
「ッ!?」
次いでガタガタと震え始めた少女を、ヘスティアは慌てて抱きしめる。
しまった! ここにもトラウマがあったか!
「い、行ってください、ヘスティア様……! わ、私は、大丈夫ですから……!」
「いや、大丈夫じゃないよ! 大丈夫に見えない!」
ヘスティアは悩んだ。
言われた通りに彼女を放置して行くのは下策。
かと言って、行かなくてもスピネルの情緒がおかしくなりそうだ。
なら、選ぶべき選択肢は、
「よし、わかった! じゃあ、一緒に行こう!」
「え……?」
「バイトもする! 君の傍にもいる! これで全部解決だ!」
そう言って、ヘスティアはスピネルの手を取った。
「大丈夫! ボクのバイトはジャガ丸くんの売り子! 断じて酷い仕事じゃないってことを教えてあげるよ!」
「ジャガ丸くん……?」
聞いたことがない。
どんなものか想像もつかない。
「とっても美味しい食べ物なんだ! きっと、スピネルくんも気に入るよ!」
「食べ物……」
ジャガ丸くんとは、食べ物の名前だったのか。
でも、売るものが女とかじゃなくて食べ物なら、なんとなく大丈夫なような気がしてきた。
食べ物は何を食べても味がしないけど、とりあえず自分で動いてスピネルを叩いたりはしない。
「それでも怖いなら、ボクの後ろに隠れていなさい。大丈夫。ボクといれば安心さ」
「……はい」
ヘスティアは安心させるように頭を撫でてくれた。
それだけで、もう大丈夫な気がした。
そして、スピネルは顔を隠すようなフード付きの外套を着て、ヘスティアについていく。
街行く人々が怖かったけど、ヘスティアと手を握っていたから大丈夫だった。
「いらっしゃいませー!」
辿り着いたバイト先の露店で、ヘスティアは笑顔で働いていた。
エプロンをつけて、頭に変な飾りをつけて、ジャガ丸くんとやらを調理して道行く人に売りつける。
なお、子供に良い格好を見せたいと思っているのか、いつもよりちょっと気合いが入っていたりする。
(これが、お仕事……?)
今のところ、怖いことが何も無い。
露店の後ろでフードを被って隠れていたスピネルは、仕事とは苦痛を伴うものだけじゃなかったのかと、結構な衝撃を受けていた。
世界が広がる感覚がした。
あの娼館という狭い狭い世界しか知らなかった少女の常識が、崩れていく。
「どうだい、スピネルくん! 怖いことなんて何も無いだろう?」
「……はい」
ヘスティアは笑顔でスピネルに話しかけてきて、ついでにジャガ丸くんを揚げ出した。
今は客はいないのだが……。
「ほい! 君も一つ食べてみるといい!」
「……いただきます」
まだ手慣れていない感じの調理だった。
渡されたジャガ丸くんとやらの形も、なんか歪だ。
それでも齧りついた時……確かに美味しいと感じた。
「!」
味がする。
何を食べても味がしなかったのに、これはちゃんと美味しい。
決して滅茶苦茶美味しいわけじゃないし、なんなら一部焦げてるような気もするが、それでも美味しい。
スピネルは夢中で食べ切った。
「ふふ〜ん。美味しかったみたいだね!」
「はい!」
「そっか。良かった良かった!」
ヘスティアが頭を撫でてくれた。
美味しくて、嬉しくて、世界にはこんな綺麗な場所もあったのかと、また心が温かくなるのを感じた。
◆◆◆
「あーーーーー! やっちゃった! やっちゃったよーーー! ごめん! ごめんよ、スピネルく〜〜〜ん!」
ヘスティアに拾われてから数日後。
女神様が泣いていた。
ちょっとバイト先でショックな出来事(発火装置の扱いを間違えて露店ごと爆発。多額の借金を背負う)があったのだ。
それにスピネルが巻き込まれて怪我を負った。
幸い、護身用兼家族の証として恩恵を授かっていたため、本当に軽い怪我で済んだのだが。
「ヘスティア様、私は大丈夫ですから」
「で、でもぉ……」
「怖いのは怪我より借金です」
「うっ……!?」
ヘスティアが呻いた。
スピネルは借金の恐ろしさを知っている。
あの違法娼館でお金を払えなかった客は半殺しにされていた。
いや、半殺しどころか、行き過ぎて殺されるなんてことも珍しくなかった。
だからこそ、お金を他人に借りているという状況は、首筋に刃を突きつけられているに等しい恐怖を覚える。
……この気持ちをハッキリ言葉にしていたら、後に
「……決めました。私、冒険者になります。冒険者になって、お金を稼ぎます」
「ええええええ!?」
スピネルの宣言に、ヘスティアはうろたえた。
彼女は僅か12歳。
しかも、幼少期から散々に痛めつけられてきた子供だ。
一般常識の教育すらまだ終わっていない。
……というか、ヘスティア自身も下界に降りてきて間もないので、下界の常識については怪しいところがある。
教える側すらそれなのだから、スピネルの教育の進行具合は推して知るべし。
ヘスティアのフワッとした下界知識の中で、最も鮮明に輝いていた『ダンジョン』と『冒険者』についての説明が先行してしまったのは致し方なかったのかもしれない。
結果、スピネルは数少ない知っている仕事の中から、屋台爆発炎上事件の借金を速やかに返し切れそうな職業として、冒険者を選んでしまった。
というか現実問題として、学の一切無い、文字の読み書きすらできないスピネルが、冒険者以外のまともな仕事に就くのは無理だ。
それでも、ヘスティアとしては許可したくない。
借金は頑張って自分で返すから、スピネルには時間をかけてでも安全な仕事についてほしい。
「ずっと、ヘスティア様のお役に立ちたい、立たなきゃいけないって思ってたんです。ダメ、ですか……?」
「ッ……!?」
スピネルが酷く不安そうな顔をした。
これは、あれだ。
地雷というか、トラウマスイッチの気配だ。
安易にダメだと言ってはいけないと、ヘスティアの直感が警鐘を鳴らしていた。
……スピネルは愛に飢えている。
ここ数日の間にそこから派生して『役に立ちたい』『褒められたい』という、強い承認欲求が芽生えているのを感じた。
仕方のない話だ。
今まで誰にも愛されなかった子供が、その分の愛情をより強く求めてしまうことをどうして責められる?
そんな子供の気持ちをへし折ったりしたらどうなるか。
今の君は何もできないから、時間をかけて成長してくれなんて正論を、傷だらけの脆く幼い心は素直に受け入れられるのか?
もっと追い詰めてしまったりしないか?
「………………わかった。とりあえず、ギルドに行ってみよう。
確か、あそこには冒険者をサポートする『アドバイザー』ってシステムがあったはずだ。
冒険者をやるにしても、その人のところでミッチリ学んだ後でだよ」
「はい!」
ヘスティアが苦悩の末に出した結論に、スピネルは勢い良く頷いた。
そして、宣言通り、翌日にはギルドへ。
エイナはスピネルと同じハーフエルフで、指導が滅茶苦茶厳しいことでも有名な女性らしい。
彼女は差別されやすい同族のよしみ+スピネルの生い立ちをヘスティアから聞かされたことで、かなり頑張ってくれた。
ダンジョンにおける危険を座学で徹底的に叩き込み、字が読めない、一般常識もおぼつかないと知るとそこから教え。
他の信頼できる冒険者に自腹で依頼を出して、スピネルに戦闘術の基礎を教えるなんてことまでやってくれた。
『冒険者は冒険してはいけない』。
エイナの持論を徹底的に叩き込まれ、安全マージンに安全マージンを重ねた上で、スピネルはダンジョンに足を踏み入れた。
その結果……。
「アドバイザーくん、スピネルくんはどんな感じかな?」
「すっっっごく真面目な子ですよ、スピネルちゃん。
怖がられちゃって、中々懐いてはくれませんけど、教えたことは絶対に守ってくれるし、集中力が高くて、もの覚えもとっても良いです。
突出した才能みたいなものは感じませんが、上層で確実に稼ぎを持ち帰るくらいなら充分にできると思います」
「そ、そっか」
エイナからの評価は上々。
実際、スピネルはダンジョンに潜るようになってから、毎日のように結構な稼ぎを持ち帰るようになった。
「ヘスティア様! 見てください! こんなにお金を稼げました!」
そのキラキラした顔は、間違いなく『幸せ』という感情に満ちあふれていた。
笑顔で鍛錬を頑張り、座学の復習を欠かさず、努力に応じた分のステイタスが着実に伸びていく。
ヘスティアの借金をすぐに返し切って、役に立てたと喜ぶスピネルの顔は、あの大雨の日からは考えられないくらい輝いていた。
「……凄いぞ、スピネルくん。本当にありがとう」
「えへへ」
頭を撫でたり、抱きしめたりして褒めてあげると、本当に嬉しそうにしてくれる。
ヘスティアが新たな意味を与えてくれた『スピネル』という名前に恥じないように頑張り、その頑張りをヘスティアに褒めてもらえる。
それが嬉しくて嬉しくて、だから頑張ることは苦にならなくて、無茶にならない範囲での最大限の努力を毎日毎日やり続けるから、一般的に見ればかなり早い速度で成長した。
ある程度強くなれば、1階層や2階層で死ぬ確率は大きく下がる。
言われたことをきちんと守る子なので、勝手に下の階層に行ったりもしない。
そんなスピネルの様子に安心して、ヘスティアはいつしか心配よりも、スピネルがここまで明るくなってくれたことへの安堵と喜びを強く感じるようになった。
ヘスティアの喜ぶ姿を見ると、スピネルはまた嬉しくなる。
歯車が上手く噛み合っていた。
幸せの好循環が、この頃のヘスティア・ファミリアを包み込んでいた。
愛情、承認欲求、更に自己肯定感まで満たされていたこの頃の記憶は、スピネルにとって宝物だ。
まだヘスティア以外に対する人見知りは激しくて、エイナ相手にすら身構えてしまう始末だが、間違いなく彼女は『安定』し始めていた。
ここまま1年、2年と過ごし、その中で様々なことを経験していけば、きっとスピネルは真っ当な人間としての人生を謳歌することができただろう。
……けれど。
◆◆◆
「は、はじめまして! ベル・クラネルです!」
スピネルがヘスティアに拾われて約三ヶ月ほどが経った、ある日。
彼女が拾われた土砂降りの雨の日とは真逆の、よく晴れた日のこと。
ヘスティアが新しく一人の少年を拾ってきた。
当時のスピネルほどではないものの、この少年は温もりと安心を司る女神としては見ていられないくらい途方に暮れたような絶望のオーラを出していて、放っておけなかったらしい。
そして、その少年の登場から、ヘスティア・ファミリアを回していた幸せの好循環、幸福の歯車が徐々に狂い始めた。
「お帰り、二人とも! ダンジョンはどうだった?」
「ベルがダメダメでした」
「うぐっ!?」
最初の頃はまだ良かった。
三ヶ月をかけてスピネルはより安定してきていたし、人見知りも少しずつ改善されていた。
言動こそトゲトゲしかったが、教えることはちゃんと教えていて、さながら孤児院の先輩後輩のような関係が築かれ始めていた。
だが、
「は?」
ミノタウロスに襲われ、剣姫に出会ったのをキッカケとして、ベルが急成長を始めて。
毎日毎日積み重ねてきた努力が、ヘスティアに褒めてもらえた努力が、自分の名前の意味である努力が、たった一週間で追い抜かれて。
ヘスティアの視線が、ベルの方を向いて。
自己肯定感が、音を立てて崩れ始めた。
「やった! やったよ、ベルくん!!」
「はい! ありがとうございます、神様!」
自分が植物型モンスターにやられてる間に、ベルがまるで物語の英雄のように、強大なモンスターから
ベルが凄く褒められているのを見て。
最近、ヘスティアに『凄い』と言ってもらえなくなったのも相まって、愛情に疑問を覚えてしまった。
「頑張らなきゃ……。頑張ろう……。頑張れ……」
ヘスティアにもう一度凄いと言ってほしくて。
膨れ上がって痛みすら感じる承認欲求に突き動かされ、
焦燥に駆られて、禁じられていた無茶をした。
エイナが叩き込んでくれたダンジョンとモンスターの知識が、先輩冒険者に依頼して教えてくれた戦い方の基礎が役に立った。
封印したトラウマを無意識に引っ張り出して、痛みと苦痛に凄く敏感だった頃の感覚を思い出して、死地の中で『これ以上は本当にヤバい』というラインを見極める技術に昇華させた。
悲惨な過去が彼女に与えた
恩恵に刻まれるスキルには届かない、代替品。
加えて
それらが合わさって、ソロで適正レベルを超える階層を冒険するという無茶を可能にした。
「アビリティオールS……!」
なのに、そこまでしても届かない。
ベルは、スピネルが手を伸ばしても、手を伸ばしても届かなかったレベル1の最高峰に至っていて。
「えええ!? ぼ、僕がランクアップ!?」
それどころか、次に目を覚ました時には、最後の希望だと思っていたランクアップまで先を越されていて。
もう追いつけないと悟らされた。
承認欲求は決して満たされないと知って泣き狂い、自己肯定感は残っていた僅かな欠片さえ粉々に砕かれた。
幸せの好循環を支えていた三本の柱のうち、二本が完全に壊れた。
残る『愛情』すらも、ボロボロになってしまった
なのに……。
「彼の名前は?」
「ベル。ベル・クラネル」
全てを狂わせた元凶は、望むこと全てを叶えていた。
英雄になりたい。可愛い女の子と仲良くなりたい。
そんな望みがトントン拍子に叶っていくのを見せつけられた。
こっちが苦しくて、苦しくて、苦しくて堪らない中で。
日増しに、黒い感情が抑えられなくなっていくのを感じた。
ベル・クラネルの強すぎる光が、身も心も焼いていく。
いや、あれは光なんかじゃない。
あれは『炎』だ。
スピネルが救われていた、ヘスティアの暖炉の火のような温もり。
そこにベルが過剰な薪と油を注ぎ込んで『炎』に変えた。
それがスピネルの心に引火して、焼き殺そうとしてくる。
本人にとっては夢と希望に満ちあふれた『聖火』なのかもしれないが、燃え移ってスピネルを焦がし始めたのは真っ黒な『怨嗟の炎』だ。
燃やすものが違えば炎の性質も変わる。
普通の炎も、燃やしてはいけないものを燃やしてしまえば、通常の白煙とは違う、有害な黒煙が出るのだ。
燃やしていけないものがあるのは心の炎も同じ。
泣き狂っていた承認欲求、粉々に砕かれた自己肯定感、受け取り方がわからなくなってしまった愛情。
それがスピネルに燃え移った炎が焼いている薪の正体だ。
こんな大切なものを燃やしてしまえば、さぞどす黒くて人体に有害な煙が出ることだろう。
いや、煙どころか、炎まで黒く染まっていく。
怨嗟の炎が真っ黒に色づいていく。
「ああああああああああああ!!!」
少女は叫んだ。
叫びながら暴れた。
心に引火した黒い炎を、なんとか振り払おうとするかのように。
熱い。熱い。
戻りたい。戻りたい。
『炎』がまだ、優しい『火』であった頃に。
そして……。