ここは秋田の美郷町ですか? 秋山高志 茨城県史の研究(1980年)の195 ページより 藤井玄信(名・忠貞) 岩根村(現在の茨城県水戸市) 原南陽(はらなんよう)の門人

Joined September 2021
小原洋さんは六郷出身。朝日新聞社、岩手朝日テレビに在籍していた模様。 まさに報道の闇。新聞や報道に関わる人の中に、こういう人がいたとなると問題ですね。 龍角散は六郷のものであるという根拠なきエピソードを広める方々にご注意ください! #美郷包囲網 #疑惑の本拠地 #疑惑の総本山
小原洋さんは六郷出身。朝日新聞、岩手朝日に在籍していた模様。 新聞や報道に関わる人の中に、こういう人がいたとなると問題ですね。 龍角散は六郷のものであるという根拠なきエピソードを広める方々にご注意ください! #疑惑の本拠地 #疑惑の総本山
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繋がりました。以前、龍角散は六郷の歴史なんだ!とオレは聞いたんだと暴れた人らの仲間です、この人は。 そう聞いた! あたしが聞いたのは〜 程度でいいのなら、龍角散には複数の説が存在するのです。六郷関係者にご注意ください! その犯人は、その投稿(ポスト)のすぐそこ!
小原洋さんは六郷出身。朝日新聞社、岩手朝日テレビに在籍していた模様。 まさに報道の闇。新聞や報道に関わる人の中に、こういう人がいたとなると問題ですね。 龍角散は六郷のものであるという根拠なきエピソードを広める方々にご注意ください! #美郷包囲網 #疑惑の本拠地 #疑惑の総本山
美郷町が主張しているように、当家が六郷東根地区の生まれであると裏付けるものは何もありません。 証拠もなしに、繰り返し美郷町出身を宣伝している連中にご注意ください。 龍角散の社長と似ている? 他人の空似です! 東京側は、今の小林製薬や関西に行った方の人の子孫とされる。
康男前社長が、子供の頃に身体が弱く、一時期、関西で静養してたというエピソードはこんな関係があるからなのです。 そして現在の隆太社長が親戚である小林製薬に行かされた時は、身分を隠して、大阪府へ。これは康男前社長と当時の側近しか知らなかったが、先方には直ぐにバレていたと言います。
当家には、利庵(としあん?)という医者もいたそうですが、この人についての詳細は不明です。 利庵は、現在の #大仙市(大曲)に住んでいたようです。 #龍角散 #秋田県 #花火の街大曲
当家には、利庵(としあん?)という医者もいたそうですが、この人についての詳細は不明です。 利庵は、現在の #大仙市(大曲)に住んでいたようです。 #龍角散 #秋田県 #花火の街大曲
なお、株式会社としての東京側の社長は、 得三郎(初代) 得三郎(2代) 康男 隆太  で4人。 3代得三郎(勝之助)の時代には、同族経営からの脱皮を図るため、父を飛び越し、康男氏が社長に就任しています。 初代得三郎の前の経営者は、藤井正亭治です。
康男前社長が、子供の頃に身体が弱く、一時期、関西で静養してたというエピソードはこんな関係があるからなのです。 そして現在の隆太社長が親戚である小林製薬に行かされた時は、身分を隠して、大阪府へ。これは康男前社長と当時の側近しか知らなかったが、先方には直ぐにバレていたと言います。
1945年3月10日は東京大空襲があった日。東京が焼け野原となりました。 東京龍角散は、関東大震災の時の教訓を生かし、戦後に大阪府の親族(小林製薬など)を頼り、いち早く業務を再開しました。 ※今回のポストは、龍角散の過去の資料、藤井康男前社長の本・コラム、週刊誌での発言によるもの。
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Replying to @maytheater
マキノ先生のコメント拝見させていただきました。 目をパチパチしているのが気になりますが、「江戸時代の親子の物語」としてお芝居の話であれば問題もありません。 が、問題なのは、お芝居を本当とし、六郷出身の親子が龍角散を作ったのだと広める人がいますので、お気をつけください。
他のことでも思うのですが、AIや有名人のbotと称し、自分達の思っていることを最もらしい理由をつけて、言わせているフシがあるので気をつけてください。 こちらとしては、何を言われようとめげずに、ひたすら真実をポストし続けるのみです。
これぞ、まさにタイムラインの 直ぐそこ! というものでしたが、フォロー、フォロワーさんが多い人には難しかったかもしれませんね。 例によって、関係のない方々すみません。
以前にも堂々とデマ流しているアカウントが、当方に対して、「ネットにわけわからんことを発信している」と食って掛かって来たのありましたが、この人も何が正しいのか分からずに噛み付いてきたパターンでした。 何度もポストしていますが、不審な情報発信源にはくれぐれもご注意ください!
以前にも堂々とデマ流しているアカウントが、当方に対して、「ネットにわけわからんことを発信している」と食って掛かって来たのありましたが、この人も何が正しいのか分からずに噛み付いてきたパターンでした。 何度もポストしていますが、不審な情報発信源にはくれぐれもご注意ください!
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grok 3に根気強く、原南陽とはなんぞや、水戸藩とは〜、岩根村は〜と教え込んで行けばちゃんと学習し、話題を拾っていました。 そうなると酷いのはグーグルのAIでした。騙った場所から拾った話題を表示し、一時期のgrok 3状態で、美郷町と龍角散とは、松田さん、佐藤博昭さんが〜、加藤組合長が〜状態
1945年3月10日は東京大空襲があった日。東京が焼け野原となりました。 東京龍角散は、関東大震災の時の教訓を生かし、戦後に大阪府の親族(小林製薬など)を頼り、いち早く業務を再開しました。 ※今回のポストは、龍角散の過去の資料、藤井康男前社長の本・コラム、週刊誌での発言によるもの。
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グーグルのAIはさらにひどい物があります。 龍角散は美郷町六郷の出身で、美郷町の〜と出ますが、そういった事実はありません。 繰り返しとなりますが、しつこく龍角散は六郷が、美郷町が〜と主張している人は誰ですか? それが犯人です! 答えは見えております。
grokで龍角散について語りかけてみたところ、「美郷町の龍角散が〜」とまるで中の人(美郷町の関係者たち)がいるみたいな怪しい会話になりました。 試しに違う話題をふったのに、龍角散と六郷は〜、龍角散と美郷町は〜と出たので笑えました。 歴史を捏造しないでください!
この人も同様。 秋山高志 茨城県史の研究の195ページより 藤井玄信(名・忠貞) 岩根村(現在の水戸市) 原南陽の門人 かていやく第12号より 龍角散は藩医の処方ではない 幕府の医者の処方だ よその土地の薬を飲むなんて不見識でいかん その処方を明かしてもらって本家で作れ ↑これが真実。
15℃-6℃ ☁ 世界平和🌍🌏🌎🌿🕊️ お早うございます 昨日は、のどの痛みで激不調 炎症か 家族が、龍角散を買って来てくれました 💚感謝 📄龍角散 同社HPより 江戸中期 出羽国久保田藩の典医 ―藤井玄淵・玄信父子が 漢方に蘭方(西洋生薬)を加味して 家伝薬を創始 *薬名は、生薬の成分にちなむ→
今の秋田県の人たちの先祖は、国替えで来た佐竹一門がそうであるように、関東地方にルーツがあったりと、元々の出羽の人たちではないような説がありますね。 名字の本によると、それが関西だったり、紀州、北陸地方だったりと様々のようです。
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龍角散の本家 龍角散のふるさと などなど、間違った説明をしているのはその人の責任ですので、そちらの方にお問い合わせ願います。 おそらく、自分たちの思惑通りにならないと困る人がいるのだと推測されますが、藤井家は農家ではなく、藩の武士。何代目かが医者となったと伝わる。
久しぶりに。 龍角散の本家 龍角散のふるさと など、間違った説明をしているのはその人の責任ですので、そちらの方にお問い合わせ願います。 自分たちの思惑通りにならないと困る人がいるのだと推測されますが、藤井家は農家ではなく、藩の武士。何代目かが医者となったと伝わる。
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また出てきましたね。もう一度。 秋山高志 茨城県史の研究の195ページより 藤井玄信(名・忠貞) 岩根村(現在の水戸市) 原南陽の門人 かていやく第12号より 龍角散は藩医の処方ではない 幕府の医者の処方だ よその土地の薬を飲むなんて不見識でいかん その処方を明かしてもらって本家で作れ
Replying to @naruseyanoken1
秋田には、江戸中期に秋田藩の典医をしてた藤井玄淵・玄信の父子が『龍角散』の原型を開発し、江戸末期に3代目藤井正亭治が『龍角散』の基礎を確立、そして明治初期に東京へ進出し『龍角散』の名前で一般販売を始めました ※ゴホン!といえば龍角散
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正亭治については江戸末期(嘉永年間)に藩から薬を扱う命を受けたとされ、現在の秋田市を本店とし、大仙市にも店を持っていたと伝わります。 この店については現在の大曲の信用金庫の近くとされます。 「明治4年創業」とは、東京府側の理屈なのでご注意ください。
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藤井玄信と名乗った江戸中期の久保田藩医は、水戸藩の原南陽の門人となり、龍角散の原型となる薬の処方を習いました。完成したのは1797年とされますので、東京がつけた「2代」とは別人となります。 玄淵にしても実際に何人いたのかは分かっておりません。
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以下の通りです 秋山高志 茨城県史の研究の195ページより 藤井玄信(名・忠貞) 岩根村(現在の水戸市) 原南陽の門人 かていやく第12号より 龍角散は藩医の処方ではない 幕府の医者の処方だ よその土地の薬を飲むなんて不見識でいかん その処方を明かしてもらって本家で作れ
Replying to @ginniro_no_hana
正亭治については江戸末期(嘉永年間)に藩から薬を扱う命を受けたとされ、現在の秋田市を本店とし、大仙市にも店を持っていたと伝わります。 この店については現在の大曲の信用金庫の近くとされます。 「明治4年創業」とは、東京府側の理屈なのでご注意ください。