御伽の国の四季
『書かなければ』という衝動が湧く。それは誰かが時折私にくれる小さな飴玉に対して、不器用ながらにも伝えたい気持ちなのかもしれない。
限られた時間の中でやるべきことを置いて、過去の私自身が残してくれた小さな縁を大切にしたかった。とはいえ必要不必要の境目がなくチグハグに蓄積され続ける『私』という膨大な情報は平凡な脳で管理しきることはできないため、私はパソコンの中にあるフォルダの奥のさらに奥、まるで深層心理の中のように奥まった場所へ記憶を乱雑に出力し続けている。
これはそのテキストの1枚を使って意識と無意識の間で作りこみ、隠し味に人生の砂時計から零れ落ちてゆく砂をほんの少しまぶしてできたもの。
私と初めて会って談笑した人から見れば暗い文章の多い私を見て毛嫌いする人もいるかもしれない。ただ私が書くこの文章は飴玉を置いていく彼らに宛てたものであるため目をつぶって欲しい。
私は現実の猫が苦手だが、仮想の猫は嫌いではない。彼らは猫というよりも色んな獣の耳や尻尾を生やした人型をしている。絵描きの猫は私の時に感情的になる素人臭い言葉を毛嫌いせずに受け止めてくれるし、声の出ない人参嫌いの猫は私の文章がわかっているのかのように振舞い、時折現れては扱いの困る言葉をどこかから咥えて持って置いていく。その唾液と毛のついた言葉を見るたび私は眉間にしわを寄せてしまうが、しっかりと水で洗って口に放り込み、そして噛み砕いて飲み込めば、口の中にほんのりと甘さが残って悪くない。彼らの気持ちが私に伝わり指が勝手に動きだすのだ。
これは別にそんな彼らに宛てた感謝を込めた手紙ではなく、私が好き勝手に書き綴る文字の集まりで、作り方も分からない私が作る小さな飴玉である。菓子作りや食品衛生に関するの資格は持っていない。そのため、読んでいる途中で頭痛が起きても責任は取らないのであしからず。
ある日こんな物語を思い出した。うろ覚えなので、きっといくつかの作品が混ざり合っている。
夢の世界に迷い込んだ主人公が、元いた世界では決して会うことのできない者達と出会うお話。物語ではそこにいる者達は別の世界と姿かたちが違い、その事実は伏せられている。そしてまた主人公を含め登場人物達はみな様々な事情を抱えており、何かに誘われるかの様にその場所に集まる。
こういった物語は似たような作品が世の中にはいくつもあることに気づいた。作品によっては別世界で会う者達は元の世界の正体が人ならざる者だっている。飼い犬や野良猫、捨てられた玩具、虐げられているロボット、既にこの世に実在しない思念体など。不思議なことに現実では人の言葉を話せない者達でさえも、この世界では主人公と同じ言葉で意思疎通ができる。
これらの作品の共通点は、主人公が現実世界で何らかの居心地の悪さを抱えているところである。相手とうまくいかず喧嘩ばかりをする日々に苦痛を感じていたり、当たり前の日常の中に溶け込む社会の違和感に気づいたり、好きな人への告白に失敗し生きる意味を失ったり。作品によってその『居心地の悪さ』という感情は、何となくその場所に対してつまらなさを感じている者から、世界から自分の居場所はないと絶望している者まで異なる。
そんな主人公が迷い込んだ異世界は自分のことを全く知らぬ者たちがいる新世界。理由もわからず巡り会う何かと何かが織りなす時間。読者は主人公を通して彼らの正体とこの世界の隠された真実を知り、そして主人公の抱えた問題の本質に気づいていく。
こういった物語には分類名はあるのだろうか。うろ覚えの内容だけでは正確に伝わらないので、いくつか作品を紹介していく。
例えばとあるゲームの作品では恋人とうまく行かない日々を送る男が一夜の過ちを犯したことにより、その日以来、悪夢に苦しめられるというお話がある。彼は毎夜、眠るたびにその世界へと連れて行かされ、夢から覚めるために怪物から逃げるデスゲームをさせられる。そこでは現実で恐れている不安や恐怖が怪物という形になって追いかけてくるのだ。
そこで怪物に殺されてしまうと現実では謎の怪死を遂げて見つかる。たとえ死に物狂いで逃げ仰ることができたとしても、夢から覚めれば何故かその世界であったことを忘れてしまう。そしてまた次の夜に悪夢は繰り返される。面白いことに、その悪夢の世界にいるのは主人公だけではない。主人公と同じような羊達がいて、主人公は逃げ続けるなかで同じく苦しんでいる羊達と出会い、助言を貰ったり与えたりして助け合いながら窮地を共に乗り越えていく。やがて主人公は自らの罪に逃げ続けるか向き合うかの選択を迫られていく。
別に他人の男女のトラブルなど、私にとってその日大きいトイレをしたかどうかを考えることよりも重要ではない。したがってこのお話の結末も今回話したいこととは関係ない。
何故この作品を紹介したのかというと、この作品は主人公が現実の世界と夢の世界を半強制的に行き来している。作品では現実世界で唯一の居場所ともいえる大衆のダイニングバーで閉店まで酒を飲みながら、そこに来る常連客との談笑を通じて何らかの情報を集めていく。本当の現実世界では、知らない人の席にいきなり腰を掛けて声をかけることなど怪しまれるし、ましてそんな勇気があるのならもっと簡単に事態を攻略できるような気もするが、限られたメモリで作られた世界線の中では開発者にとってこの方法が一番気づかせやすい方法なのだろう。何を気付かせたいのかというと、一つはそこで得た情報から、裏世界にいる羊たちが皆バーにいる者達であるということをプレイヤー側に気づかせてくれるということだ。その裏世界を通して表世界では気付けなかった身近な人々の本当の心情に気づくことができるプロセスは、他人が何故その行動をとったのかを表だけで理解することの難しさを表している。
そして、主人公の理性の欠いた判断から欲に溺れた行動による過ちは、主人公だけでなくバーにいる常連客達も同じであること。皆それぞれ違う形であれ恋愛について悩み、葛藤を抱えながら生きているという描写も物語に深みを出している。現実の人間関係の不条理さに対してわかっていれば回避できるというリプレイ願望をファンタジーを通して満たせることができるのもまたゲームならではの魅力である。
また別のアニメの作品では、舞台は現実の世界だが、そこにひっそりと営む喫茶店で、人と人ならざる者との交流を描くお話がある。
それはとあるビルの地下にあり、ロボットと人との交流を描いた話だ。ここでは『ロボットと人を区別してないけない』という独自のルールの下で、誰が人間で誰がロボットなのか見分けがつかない。この世界で最も多いロボットは、頭に浮かぶホログラムがなければ人間と見間違えるほど精巧に作られたアンドロイドという存在である。
そこでは普段では人らしい振る舞いを制限されているロボット達が自由に人間のふりを行い、感情を持っているかのようにカフェの時間を楽しんでいる。主人公とその友人は彼らと交流を通して、今まで便利な道具として扱っていたロボット達の複雑な現実と向き合い始めていく。
この作品では、明確な線引きは難しいが現実の世界と夢の世界という表現を用いると、カフェの外と中になるだろうか。
先程のゲーム作品との違いは、登場人物達が自由に外と中を行き来が出来る。そして主人公達は迷い込むというよりも、能動的に興味半分でお店に立ち寄ったことで始まる非日常的なお話である。
普段の生活から思いがけない場所から気付かされるロボット達の「気持ち」という感情の様な反応。彼らを心があるかないかわからない存在とおいた時、仮に人同士ならばと私は考える。
私達は身近にいる感情らしきものを制限している又は制限されている「他人」という名のロボットに対して本当の気持ちを理解できているだろうか。体型、服装、性別、年齢、経歴、階級、人種など。私達の中にはブラックボックス化されたシステムがいくつも存在する。
この作品のように。もしも人もロボットも、そして他人でさえも見分けがつかず、区別できないカフェが実在したとしたら。どんな化学反応が起きるだろうか。人によっては互いに寄り添うことのできる気づきが生まれる物語があるのかもしれない。
最後に、他の作品ではこんな物語もある。これは昔からあるWEBで掲載されている漫画である。
そこに登場する夢世界の人物は皆、現実と姿は何も変化していないが、彼らは時代や世界がみんなバラバラで意思疎通が難しい者もいる。不思議なことにその夢世界には意識的に来たわけではなく皆、気づけばそこにいた。一見何も共通点はないけど、その世界にいる者達は皆、迷い込んだ時のことを覚えている。しかし何故ここに来たのかが分からない。
実はそこは何かしらの決断を迫られた瞬間に迷い込んでしまうというモラトリアムの夢世界である。現実の世界は決断をしなければいけないその時間で止まってしまっている。故にそこにずっと居続けても良いし、迷い込む前の現実の状況に対して、決断をして現実に戻っても構わない。しかし中には中々決断をすることができず月日が流れ、挙句には何の選択肢があってここに辿り着いたのかを忘れてしまった者達もいた。
主人公はそんな彼らと、ぎこちない交流を重ねていくうちに、やがて一人一人からここに来た理由を教えてもらう様になる。しかしそれは、その人がこの世界からいなくなるきっかけにもなり、仮に現実に戻ったとしても幸せにはならないという真実が待っていた。主人公は他人から話してもらう時に責任が伴うことに気づく。初めは無意識に相談を受けていたが、自分にとって居心地の良い空間になればなるほど、彼は親しい友人が夢世界から消えていくのを拒み、意識的に相談を受けることを避け始める。彼らと別れたくはないから。
このお話の場合では他の例と違って、現実世界と夢世界を自由に行き来することはできない。夢世界から何かをしなければ現実の世界に戻れないあたり最初に紹介したゲームの作品と同じだが、このお話はそれよりも平和で切なさの余韻が強く残る。遥かに死に対するイメージは強くなく、どちらかというと生に対しての選択をすることの苦悩に焦点を当てている。
生に対する選択とは何かというと、私たちがどのように生きるか、または生きるために決定する行動であり、私が言いたいことは、いわゆる私達が常に求められているものである。例えば今日は何時に何処へ行き何をするのか。朝起きたとき今日は朝ごはんを摂るか摂らないか、学校に行くか行かないかとか。学校の先生から授業を受けた後に与えられる宿題にも、やるかやらないかの選択肢が与えられている。毎日繰り返しているとそれを考えてからでは間に合わないため、寝る前に次の日の予定を決めている人もいるだろう。これは学生の話だけではなく社会人にも当てはまる。
さらには、生に対する選択肢は、自分だけに完結したものだけではない。自分と他者が相対する場面でも生に対する選択肢は存在する。
現実の世界では話しかけ方にも選択肢はある、相手に歩み寄るべきかそれとも共感をなくして冷静に結果を伝えて話すべきか。仮想の世界においても同様である。賑やかな輪の中に加わるか加わらないか。名も知らぬ相手に声を掛けるか掛けないか。こんな時もし相手の気持ちがわかったなら、どんなに楽だろうか。しかしこの世界にそんな魔法はない。
ただ先程の二例目に紹介したアニメ作品の中に次のような台詞がある。
「『あなたは私をどう思っているの?』って。それが、ここにいる理由。」
主人公がそこに通い続けるロボットに、何故この喫茶店に通いつめるのか尋ねた時の言葉だ。そのロボットは人間の手伝いをしている補助ロボットだが、その主人らしき相手からいつも粗雑な扱いを受け続けていた。そこで、そのロボットは自分の中に生まれた疑問に対する答えを探すためにここにいるのだという。
その質問は、自分と見た目が同じでも中身が違う相手に理解を示したい考えから生まれた胸の内に秘めている純粋な問いかけ。アニメの彼女は今も喫茶店に通い詰めている。彼女の想いは叶ったのだろうか。昔の記憶が曖昧で結末が思い出せない。
考えが分からない相手がいるのなら、自分の中で溜め込んでいても辛いだけである。それならば、いっそのこと公平に考えてくれる第三者に聞いてみるという方法は有効なのかもしれない。さらにはその相手が同じような境遇を経験したことのある人であったり、逆に考えのわからない相手と同じような人物であったならば、もしかするとそこに新しい視点が見つかり、解決の糸口につながる答えが見つかるかもしれない。
現実の世界はデジタルではなくアナログで、どんなに最悪の結末や、どんなに素晴らしい結末であろうと、それらは連続に続き同じ時間軸に存在できる。同じ境遇であろうと現実は小説よりも奇なりとよく言ったもので、捻くれ者の私は今もそれを実感しているし、そして愚かにも私は信じている。あの時は失敗しても、命が無くなっていないのであれば人同士の繋がりというものは、またいつか再開することだってあり得るのだ。それこそが小説よりも奇なりと呼ばれる現実の真価である。それはきっと、お互いが笑顔で和解できる救済という希望があっても良い。それが来ることを願って、同じことを繰り返さないように、あのときのあの人は、自分のことをどう思っていたのだろうかと脳裏の片隅に置いて、この夢の世界を彷徨いあの人と同じ考えを持つ人と出会い気づくことも決して無駄ではないはずだ。
扨、三つの例を出した。私が紹介した三作品だけでは、前述で述べた人ならざる者との交流はロボットしかあげられなかったかもしれない。代表的な作品が他にもあるかもしれないが、私が話したい作品の部類については概ねわかって頂けたかと思うので、他は読者に補完してもらいたい。これらの物語は素性の知らない者達との出会いによって、やがて主人公の何かが変化する過程が描かれたり、その世界の真実が解き明かされていく。それをふまえた上で、こういった物語には共通したジャンルがあるのだろうか。ただ、今更ながら断っておくと、私は別にジャンルが知りたいわけでは無い。
本題は、今私が夢中になっている『物語』は、まさにそういったジャンルに近いのではないかということを伝えたいことである。
そのお話にも二つの世界がある。現実世界ともう一つの世界。
私にとってもう一つの世界を『夢の世界』と呼ぶのは少し大袈裟に感じる。何故ならその世界では超人的な力をもつ神や命を奪いに来る悪魔などいない。人のふりをして過ごすロボットも、時を超えた人も、パラレルワールドからやってきた人もいない。登場人物たちは全て、そこに訪れた主人公と同じ世界線で生きている現実世界のごく普通の人たちである。
その世界を映し出す一つの視点に選ばれたこの物語の主人公はというと、もう一つの世界で素性も知らない人々と出会うところまでは共通しているけれど、そこで出会う人々と交流する中で、少しずつ自身を成長させているかと言われるとそうでもない。
その世界に誘われた者達をみても悩んでいる人間もいるがそれは一部の人であり、その世界の住人には暇な時にたまたま訪れてきた物見遊山に来た人もいる。友人に紹介されたからとか、有名人がそこで遊んでいたからとか、お金が稼げるからとか等々。悩みや選択肢に迷い彷徨っているうちに訪れた者も滅多にいない。むしろ主人公から見れば現実世界を堅実に生きて立派に過ごしている人たちばかり。複雑な事情を抱えてこの世界に迷い込んだ人間も見たことがない。ここで決めた決断によって現実世界で死んでしまうということも恐らくは無い。化け物によって強制的に連れられたり、無意識でここに辿り着いたりということもない。この世界が嫌なら来なくていいし、いつでも好きに辞めることもできる。入口と出口の扉は、手元のボタン一つでいつでも開閉が自由だ。
5年以上も続いている物語だというのに一向に終わりが見えず、そして緩やかに続き、打ち切りもなく続くお話。これはもはや現代の怪奇譚といってもいいだろう。作者はきっと奇人である。
終わりどころを見失っているようにも感じる。主人公の頭の上で回り続ける『愚者』のタロットは何も変化せず、茶色く黄ばんでいるようにも見える。
この世界は何もない。挙げれば挙げるほど、文字に起こせば起こすほど、この中途半端で生ぬるい世界。
この世界には静まり返る冬を経て溶けた雪の雫から誕生する生命の息吹も、血と汗と涙を輝かせ成長を彩らせる太陽の燦燦と照らす夏の日差しも、晩年を迎え思い出を振り返り懐かしむ涼しい秋の黄昏もない。
それはこの世界に『現実の四季』と呼べるものが無いからだと改めて感じた。
主人公が巡る場所に、現実にある四季のようなものを感じさせる場所はいくつもある。しかし、それはまるで、用意されていた現実にある春夏秋冬の四季の絵を、作者の気まぐれで入れ替えただけの紙芝居のようなもので、私たちは主人公を通してその物語の中を巡るが、現実の四季を体感出来てはいない。
私は思った。何故こんな心躍らない物語を読み耽っているのだろうかと。
なぜ主人公はいまだにこの世界に足を運び続けるのだろうか。そう考えたとき、いつも通りに朝の人ごみに埋もれ、人と人との隙間から見える窓の外の景色を見ていたら、あの世界になくて、あの世界にあるものに改めて気づいた。それは人である。
その世界で主人公が誰かに掛ける音。そして誰かが返す音。それは声であり、そして物と物がこすれる動作の音。その世界で誰かが見せるペンで描く文字、誰かが手渡すモノ。それは現実の世界で生きる人同士が交流する時に生まれる。けれどその間には空気はないのに、『空気』という言葉は感じる。何も無いけれども存在するもの。ここでいう空気とは物理的な空気のことではなく、目には見えないが空間に生じる何かだ。
学問から離れてしまった私がこれ以上の感覚的な発言を続けると怪しくなってしまう。もっと私の話したいことを言語化してくれる人に出会いたい。
主人公が通い続ける中で人と交わる時にそれは生まれていた。あの世界には現実と同じような酸素や空気が存在しないが、そこには空気のようなものの存在があるのだ。
彼が挨拶をして手を振り、それを受け取った相手が同じように返す。二人が交わして最後に『またね』と別れるまで小さな何かがずっと振動し続けている。動作や言葉が温かければ温かいほど、その世界の『空気』のうねりは増す。それはやがて伝搬し、周りにいる人々にも影響する。
それは波だ。その波が徐々に大きくなればなるほどに、その世界を巻き込む渦となる。それは人々の喜びを表す祭りにもなり、人々の怒りや反感を表した嵐にもなる。残念なことに、私が読んでいる物語の主人公はそれを呼び起こすほどの才はないけれど、彼の身近にも大きな出来事が発生していることがわかる。
つまりもう一つの世界の四季は、人によって生まれる変化なのだ。それは現実の四季の概念と切り離さなければいけない。現実の四季を気候の変化というならば、もう一つの世界の四季は人の変化である。
と、ここまで書いて。私は自分が述べていることが支離滅裂な気がしてきた。興が冷めたといっても良い。何が四季だ。それはきっと別にいい言葉があるに違いない。歴史とか、流行とか、文化とか。それ以上の言葉が思い浮かばないのは所詮、私が無学である証拠だ。
これがきっと私の限界なのかもしれない。願うならば誰も見ないでほしい、けれど書かなければいけない。これは飴の効果が切れてきた禁断症状なのだろうか。それともただただ、現実がうまくいかず頭が停止しているだけなのだろうか。それとも深夜だからだろうか。
真面目に勤勉をしている頭のいい人達が私の文章を読んでいないことを願う。そう、ただ私は、私の描いた世界を書いていたいだけ。
主人公の物語の中には、小さな出会いが沢山ある。
彼はある時こんな人と出会った。その人は彼と同じ独り身で、彼はこの世界の特定の条件を持った人間を毛嫌いする人だった。
もう一つの世界にいる人間の中には、その世界にのめり込む人たちに警鐘を鳴らし、そこにいる人たちを現実から逃げている者達だと悲観的に捉えている。彼は時にここにいる人達を解放させるなどと頓珍漢な正義感を持っているのだ。現実では得られることができない平穏に過ごす人たちの中に、自身と同じように独り身で鬱々としている人に、荒療治の様に現実に戻れと諭す。
「俺は彼らとは違う。いつかきっと彼女を作ってこの世界から出てやる。」
口ではそう言いつつも行っている行動は自分が気に入らない人間に対して攻撃的な態度を取ったり、不快な言葉をかけたりするぐらい。離れていく人間がいる事実にいたっては、自分の覇気に負けたのだの、自分とは合わなかっただけだのと切り捨て、反省の意もなく正義の為の仕方無い代償だとSNSに呟いている。
彼はある日、主人公に不躾な言葉を投げつけた。
「君はさあ、たぶん一生結婚できないだろう。」
それは主人公のずっとその世界に通い続けているにもかかわらず優柔不断のようにも見える呑気な性格や、代わり映えのない姿に嫌気がさした一言だった。しかしいつもはそんな小言など軽く流していた主人公はなぜかその時だけは深く傷ついた。それ以来、主人公は彼に二度と会うことはなく、彼のその後を知ることはできなくなってしまった。
それによって私は彼の物語の続きを知ることはできなくなった。結局、彼自身はもう一つの世界の中で自身が作り出してしまった夢世界に囚われているだけなのだ。彼の行動は彼の中のもう1人の歪んだ人格が、布団に包まり怯える彼自身の肩に手を添え己を励ましているかのようなのだ。その存在は黒くて禍々しいが、ちっぽけでか弱い存在のように見える。
私はいつの日か、誰かがそっと囚われた彼の手を取り。元世界へ彼を導いて夢世界から共に出ていく未来を願っている。そう願いを込めて、私はその物語の背表紙を静かに閉じた。
それは温かみのない小さな波。温かみのない言葉は波を消していく。人の出会いを春だとするなら、人の別れはまさしく冬と言えるだろう。
どんな物語にも終わりがある。きっとこの物語はもう一つの世界の終わりまで続くのだろう。人の熱が冷めきったときそれは大きな寒波が来る。
この世界は人という四季がある。
そして全ての物語は、現実へと通じている。
(終)


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