やっぱ『
迷宮都市を統括するギルド。
その一角にある個室は、静寂に包まれていた。
机の上には、一つの紫紺色の魔石。
揺らめく燭台の明かりが、その艶やかな表面を鈍く照らしている。
それを無言で見下ろすのは、ギルド職員のレーメル。
(……まったく、あの駆け出しが持ち込んだ情報が、ここまで厄介なものだったとはな)
重いため息とともに、背もたれに寄りかかる。
扉が静かに閉まり、木と木がぶつかる鈍い音が、微かに室内に響いた。
先ほどまでこの部屋にいた冒険者が退出していった音だ。
(………………)
彼の視線が、机上の
──それは、ただの魔石ではなかった。
『強化種』の結晶。
怪物達の逸脱者。
理の外に存在する異形の証。
紫紺の輝きが、微かに脈動しているように見えた。
まるで、今もなお、生者の意思を宿しているかのように。
冷たく、無機質なはずの結晶が、『怒り』や『執念』、あるいは『無念』を湛えているように思える。
その瞬間、背筋を走る戦慄。
まるで、魔石自体が彼を見返しているような錯覚。
だが、次の瞬間、
──すべてが霧散する。
そこにあるのは、ただの石。
脈動も、感情も、すべて錯覚だったかのように消えてなくなった。
(……気のせいか)
彼は、そう自らに言い聞かせる。
しかし、どこか拭えない違和感だけが、静かに胸に残った。
レーメルは、わずかに頭を振り、思考を切り替えようとする。
しかし、精神を苛む問題は、そう簡単には消えてくれない。
先ほど聞き取った話──それは、冗談にしては出来が悪すぎる内容だった。
駆け出しの冒険者は、ダンジョン『上層』で迷っていた最中に、突如として響き渡った轟音を耳にしたという。
それも、とてつもなく大きな、まるで空間そのものを揺るがすような異質な音。
その正体を確かめようと、音のした方向へ向かうと──
そこには、
迷いながらたどり着いたのは、広く開けた空間。
水があり、緑があり、それはまるで『
──だが、異変は明らかだった。
まず、あたりに漂う異臭。
焦げたような、鉄のような、鼻を刺す嫌な匂い。
そして、通常ならば青々としているはずの空間が、黒く焼け焦げていた。
『上層』に炎を操るモンスターなど、いない。
だというのに、この場には確かに、
さらに、中央にある湧水の池。
その水底に沈んでいたのは──
通常のゴブリンよりも、一回り大きな異形の影。
死骸だった。それも『強化種』の。
しかも、その全身が炭のように黒く焦げ、完全に焼き尽くされているというのに、
異常だ。
討伐されたのなら、冒険者が魔石を回収しないはずがない。
もしくは、新たな強化種が生まれるのを防ぐべく、砕き、破壊するはずだ。
いや、それ以前に、このような戦闘跡があったのなら、それを目撃した冒険者の報告があって然るべき。
なのに、そんな話は届いていない。
この駆け出しの冒険者以外、一切。
討伐者がいないのなら、一体、何がこの存在を殺した?
疑問が疑問を呼ぶ。
背筋をじわりと這い上がる冷たい感覚を振り払うように、レーメルは魔石を睨みつけた。
「……迷子の駆け出しが偶然拾ったもの。それが、まさか『中層級の強化種』とはな……」
腕を組みながら、眉を寄せる。
言葉にしても、現実味がない。
本来なら、この階層でそんな存在が確認されれば、冒険者たちの間で瞬く間に噂が広がる。
実際、同一存在と思しきゴブリンはそうなった。
そして、それが討伐されていたとなれば、誰もがその討伐者を探し回るはずだ。
──なのに、何もない。
「その冒険者の話が真実ならば、問題は二つだな」
突如、低くも澄んだ声が響いた。
静寂を切り裂くその声音は、落ち着きと威厳を兼ね備え、空間を支配する。
その主は、首元まで流れる青の美しい髪を持つ、凛とした麗人。
【ガネーシャ・ファミリア】団長、シャクティ・ヴァルマ。
迷宮都市オラリオの守護者たる存在──その力強い眼差しが、一人の男へと向けられていた。
レーメルは、魔石から視線を外し、静かに立ち上がる。
そして姿勢を正し、彼女の前に向き直ると、深く腰を折った。
「改めて、お忙しい中、同席までしていただき、感謝します。【
「その名で呼ばれると、妹と区別がつかないんだが……まぁ、いい。話を戻そう」
シャクティはわずかに苦笑しつつも、すぐさま表情を引き締める。
冗談はここまで。今は、そういう場ではない。
彼女がこの場にいるのは、偶然とはいえ、決して無関係ではなかった。
迷宮の問題は、やがて都市の問題へと直結する。
何が、どこで、どのように発展するのか──今のオラリオでは、誰にも予測がつかない。
何より、最強の派閥が消え去った今、この都市は確実に変化の渦の中にある。
不穏な影は、確実に広がっているのだ。
「問題は二つ。一つは、中層級の強化種が『上層』で発生していたこと」
シャクティはレーメルと魔石を交互に見据えながら、静かに言葉を紡ぐ。
「そして、もう一つ──その強化種が、すでに討伐されていること……だな?」
確認するような彼女の言葉に、レーメルは小さく頷く。
「ええ。通常のゴブリンならともかく、強化種ともなれば、自然死などありえません。話の状況から判断するに、何者かの手によって討伐されたのでしょう」
レーメルは腕を組み、思案するように視線を落とす。
「そして問題は、その『何者か』が冒険者なのか、あるいは……」
「
シャクティが重く言葉を継ぐ。
「上層で、中層級の個体が、『何か』によって仕留められた……それ自体が異常です」
レーメルの口調が、自然と険しくなる。
「もしこれが冒険者の手によるものであれば、まだ納得できます。だが、迷宮の『何か』によって討伐されたのなら話は別だ」
彼は小さく息を吐き、机上の魔石を拾い上げた。
「しかも、討伐を目撃した者は誰もいない、か。ファミリアを統べる者として日々、多くの情報を耳にしているが……すまない。同じく私も報告どころか、噂すらない」
シャクティの言葉が、室内の静寂に重く沈む。
レーメルは指先で魔石の表面をなぞる。
紫紺色の輝きは、どこまでも深く、どこまでも静かだった。
眉間の皺が、さらに深く刻まれる。
一体、誰がこの強化種を討伐したのか?
冒険者であれば、まだいい。
未報告のまま、事が過ぎることなど、迷宮都市では珍しくもない。
問題は、その『何者か』の正体だった。
単独で中層級を屠るだけの力を持ち、尚且つ、他の冒険者たちの知覚の外にいる存在。
それが第二級冒険者、あるいはそれ以上の実力者ならば──上層強化種程度、赤子の手をひねるように仕留めることも可能だろう。
気まぐれにそれを討伐し、その死骸をそのまま放置して去った。
そう言われれば、それまでの話だ。
だが──
「もし、それが新たな
レーメルの言葉が、じわりと重みを増す。
上層に『何か』いる。
それも、姿形すら分からない存在が──
強化種すら殺す未知の力を持ち、僅かな痕跡だけを残し、闇に溶けるように姿を消した。
想像するだけで、背筋に冷たいものが這い上がる。
「…………」
今のオラリオは不安定だ。
【
敵は、
人と人が争い合い、殺し合っている。
なんと、意味のないことを。
レーメルは静かに息を吐き、沈黙を守っていたもう一人の人物……否、『
シャクティのすぐそば、腕を組み、黙然と佇む存在──
「神ガネーシャ。先ほどの駆け出し冒険者の供述、間違いなく『真実』でしたか?」
視線と声が向けられたその人物は、常に顔の上半分を覆う象の仮面をつけ、鍛え抜かれた上半身を惜しげもなく晒す黒髪の男。
その男は、唐突に立ち上がり──叫んだ。
「──俺がっっっ、ガネーシャだぁぁぁぁっっ!!!!」
轟音。
いや、もはや衝撃波。
部屋全体が震え、空気すら揺らいだ錯覚を覚える。
耳をつんざく大音声。
そして、目の前で繰り広げられるマッスルポーズ。
その威力たるや、至近距離で食らったレーメルは眼鏡がずり落ち、思わずのけぞりかけた。
「……静かにしろ、ガネーシャ。ここはギルド本部だ」
対して、隣で聞いていたシャクティは、額に手を当てながらも、冷静にそれを嗜める。
「はい、ごめんなさい」
即、謝罪。
しかも、しょんぼりしている。
思わず、レーメルの口元がわずかに緩んだ。
これが、【ガネーシャ・ファミリア】だ。
その暑苦しさ、空気の読めなさ、そして、眷族のみならず他の神々にすら雑に扱われるこの奔放さ。
これこそが、ガネーシャ。
これこそが、『
人の真偽を見抜き、そして──迷宮都市オラリオの秩序を守る『群衆の主』。
だからこそ、その口から発せられる言葉に、嘘偽りはない。
ガネーシャは、静かに仮面の下からレーメルを見つめた。
彼がこの場にシャクティと共に居合わせたのは、果たして神の気まぐれか、それとも運命か。
そして、次に発せられた声は、先ほどまでの豪快なものとは一変していた。
低く、静かで、神秘的な響きを持つ声。
「嘘は、なかった」
その一言が、空気を張り詰めさせる。
「あの子供は本当に偶然それを拾ったのだ。そして、自らの手で討伐したわけではない……それだけは確かだ」
神の言葉は、絶対である。
都市を守護する憲兵の主であるなら、猶更。
そこに、誤魔化しは存在しない。
──だからこそ。
沈黙が落ちた。
冷たく、重苦しい沈黙が。
「……ということは、やはり……」
レーメルの胸中で、確信と共に新たな疑念が膨らんでいく。
未知の脅威。
ダンジョンに潜む、正体不明の存在。
それは、強化種を葬った『何か』。
通常、上層に現れる個体ではない。
そして、ギルドとしては、その正体を突き止めなければならない。
── 一体、どうすれば……
レーメルが思考を巡らせる中、シャクティが静かに口を開いた。
「ありがとう、興味深い話を聞かせてもらった……して、ギルドは、この件をどう扱う?」
「……ギルド単独での調査は難しい。できれば、『都市の憲兵』たる貴方がたとも連携したい……そう、考えています」
レーメルの言葉に、シャクティは考え込むように軽く目を伏せ、やがて静かに頷いた。
「承知した。私からも団員たちへ話を通そう。ガネーシャの前で交わされた証言が嘘でないのなら、それは都市の安全にも関わる問題だ」
「……助かります」
レーメルは、深く息を吐き出す。
それから、彼は静かにガネーシャへと向き直り、深く頭を下げた。
「神ガネーシャ。貴方の協力に、深く感謝します」
レーメルが改めて礼を述べると、ガネーシャは自信満々に胸を張り、朗々と笑い声を響かせた。
「フハハハハ!! 俺はガネーシャ!! 子供たちの未来を守るのも、俺の務めだゾウ!!!」
その声は、まるで都市の端から端まで轟きそうな勢いだった。
本来ならば、ただの騒々しい神の一言で片付くところだが──今は、違う。
レーメルは目を伏せ、静かに机上の魔石へと視線を戻した。
紫紺色の結晶。
その表面に映る自らの顔が、どこか歪んで見えた。
(……この魔石の主が、何に殺されたのか。それを突き止めなければ、都市の……ひいては、迷宮の安全は保証できない)
ただの事故ではない。
ただの偶然でもない。
これは『未知』だ。
ダンジョンの法則すら捻じ曲げる『何か』が、確かに動いている。
そして、それを成した者の目的が分からない以上、これは単なる事件ではなく──新たな脅威の幕開けかもしれない。
彼は、静かに確信した。
ダンジョンの奥底で、
まだ誰も知らぬ『何か』が目覚めようとしているのだと。
=====
「──どう思う? ガネーシャ」
ギルド職員の男が去った後の個室に、静寂が満ちる。
残されたのは二人。
女が、対面する神に向けて静かに問いを投げた。
対して、男神は腕を組んだまま、しばし沈黙する。
迷い──いや、考えを巡らせているのだろうか。
「……まだ、俺には分からない、が」
「──やはり、『
その言葉が、場の空気をさらに重くする。
沈黙が落ちる。
それは、ギルドの頂点に立つとある神から直接もたらされる極秘事項だ。
オラリオの誰もが知ることのない、迷宮の『異常事態』。
そして、それを知るが故に、彼らはその存在に縛られている。
「新たに『上層』で産まれたのならば、保護するべきか……?」
シャクティの言葉に、ガネーシャはきっぱりと答えた。
「それはウラノスの『私兵』の仕事だ。俺は、お前たちを危険な目に遭わせたくない」
「……ガネーシャ」
その答えに、彼女は眉を寄せる。
「だが──」
男神の声色が少し低くなる。
「やはり、調査はするべきだろう。新たに産まれた存在が、私たち人間にどのような感情を抱いているのかを」
「…………」
シャクティは沈黙する。
彼女自身、それが必要だと分かっていた。
「……カイン達に頼み、原因を追究する」
それを聞いて、ガネーシャはゆっくりと頷いた。
「……シャクティ。深追いはするな」
一瞬、彼の言葉に躊躇いが滲んだように思えた。
だが、それは錯覚だったのかもしれない。
すぐに、いつものように堂々とした声音に戻る。
「俺も、ウラノスに話を通しておこう」
「……分かった」
それだけを言い残し、二人は個室を後にする。
静かになった部屋には、
紫紺色の魔石だけが、不気味な沈黙を湛えていた。