ヒラバミのムービーがフルフルに見えたのは私だけじゃあないはずだ
──何かが、飛んでくる。
嗅覚が警鐘を鳴らし、振動が微細な異変を告げた。
(──まずい!)
本能が即座に危険を察知する。
咄嗟に身体を捻り、跳躍。
(────っ!!)
しかし、遅い。
わずかに掠っただけ。それだけなのに、鋭い痛みが弾けた。
皮膚が裂け、熱いものが滴る。
(何だ……今の!?)
驚愕に身を震わせながら地面に転がる俺の目の前に、何かが地を穿つように深々と突き刺さっていた。
白く、鋭く、不気味に光を反射する『牙』──。
その形状からして、コボルトのものだろうか。
痛みすら忘れ、硬直する俺の視線が、突き刺さった牙からゆっくりと移動する。
その牙を投げつけた張本人へと。
だが、その瞬間には、
俺の、目の前に。
その異様な眼光で、じっと俺を捉えて。
──まずい。
ゴブリンの左手が、すでに振り上げられている。
(──まるで瞬間移動じゃねえかっ……!)
驚愕に反応が遅れる。
いや、そんな暇はない──考えるより先に、体が動いた。
反射的に全身に力を込める。放電開始。
──通常のゴブリンなら、一撃で痺れて動けなくなるほどの強力な電流。
あまりに強すぎるせいで俺自身の体にも痺れが走るが──それでも、
(これで、コイツも動けなくなる……!)
久々の自爆覚悟の全力攻撃。
それだけの脅威だと、俺の本能が判断したが故に。
(動きさえ止めてしまえば、俺の勝ち────)
──そう思った、まさにその瞬間だった。
隻眼のゴブリンの口元が、ゆっくりと歪む。
それは──嘲笑。
三日月を描くような、冷徹な笑み。
(……何だ、その顔は?)
直後、ゴブリンは攻撃の動作を突如中断。
次の瞬間、足元を爆発させるかのように跳躍した。
俺の放電が虚しく空を裂く。
(──なっ!?)
我が身を削るほどの全力の雷撃。
それが、まるで最初から読まれていたかのように回避された。
だからこそ、
(今の動き──分かって……!?)
理解不能。
二度目の驚愕が、全身を貫く。
まるで俺の攻撃の性質を、俺の戦法を、事前に知っていたかのような回避。
(────理解できないことが多すぎる!!)
混乱が、焦燥が、頭の中で渦を巻く。
だって、おかしい。
暴れ狂うモンスターたち。
結晶を噛み砕いていた理由。
倒したはずの獲物が、灰と化した理由。
そして何より──
俺の手の内が、完全にバレている理由も。
(意味が分からない……!)
理解が追いつかない。
状況が異常すぎる。
今までの戦いとは、明らかに『何か』が違う。
(……こんな状態で、勝てるのか……!?)
体の先がかすかに震える。
本能が、脳髄に直接訴えかけてくる。
──逃げろ、と。
だが、逃げ場などない。
戦わなければ、ここで終わる。
頼みの綱である放電が見切られているなら、俺に残された武器は──
噛みつきと吸血。
だが、それすらも問題がある。
この隻眼のゴブリンは、尋常ではない速さで動く。
(……本当に、ゴブリンなのか?)
到底、俺が知るゴブリンの動きじゃない。
いや、それどころか──
今の俺では、捉えきれない。
さらに、連戦に次ぐ連戦。
いくら吸血で体力を補っても、限界はある。
動くたびに軋む体。
呼吸の度に端に滲む赤血。
疲労は、確実に俺を蝕んでいた。
──そんな俺を、ゴブリンは嘲笑うかのように。
奴は、一切攻撃することなく、俺の周囲を駆け回り始めた。
(……一体、何を?)
奴の動きには、明確な『意図』がある。
これはただの威嚇ではない。
──狩る側の動きだ。
疑問を振り払うように、嗅覚と振動で相手の行動を探る。
そして、気付いた。
──隻眼のゴブリンが、果樹の木片を集めている。
(……まさか……)
嫌な予感が背筋を這い上がる。
そして、次の瞬間、俺はその意味を理解した。
(──投擲の嵐……!!)
刹那、ゴブリンが、拾い集めた木片を勢いよく投げ放つ。
しかも、ただの投擲じゃない。
速度、精度、軌道──どれを取っても、尋常ではない。
四方八方から、鋭い弾丸のごとく殺意を帯びた木片が襲い掛かる!
(──ざっけんなっ……!!?)
とっさに身を縮めるが、回避するには数が多すぎる。
もはや逃げ場など、存在しない。
回避不能の乱撃が俺を包み込んだ。
(────ッッッ!!!)
必死に這い、跳躍し、飛び回る。
だが、それでも足りない。
木片に紛れ、牙や爪が飛んでくる。
先ほど見た、鋭く尖ったコボルトの牙。
砕かれたゴブリンの爪。
それらが次々と飛び交い、俺の身体を引き裂いていく。
赤い血が、空間を染める。
(避けろ、避けろ、避けろッ!!)
死ぬ気で捻り、歪め、身をよじらせる。
だが、攻撃は終わらない。
──そして、限界は訪れる。
(────カハッッッッ!!!?)
轟音と共に、視界が揺れた。
一瞬、音が消え、思考が断ち切られる。
次の瞬間、猛烈な痛みが全身を駆け抜けた。
視線を落とせば、正面から木片が深々と突き刺さっている。
(──────ッッッ!!!!)
喉奥がひりつく。
込み上げるものを抑えきれず、大量の血反吐を噴き出した。
どくどくと流れ出す体液が、草木を真紅に染めていく。
そして。
ゆっくりと。
俺の眼前で、隻眼のゴブリンが膨張した肉体を揺らしながら歩を進めてくる。
嗤うような目。
貪るような足取り。
もはや単なる獣ではない。
確かな意志を持った狩人の姿が、そこにはあった。
(……このままじゃ……死ぬ)
直感した。
否、確信した。
肉体は既に限界を超え、意識は今にも断ち切れそうなほどに揺らいでいる。
──だから、
俺は渾身の放電をぶちまけた。
考える余裕などない。
このままでは、間違いなく喰われる。
副作用?
──そんなもの知るか。
痛み?
──どうせ、もう感覚すら曖昧だ。
ただ、本能のままに、全身から雷撃を迸らせた。
(──がぁぁぁぁッッッ!!!)
蒼白い閃光が洞窟を満たし、空気を灼く。
運が良いのか悪いのか、
俺が吹き飛ばされた場所は、なぎ倒された果樹や積もった枯葉の山だった。
──瞬間、
放電の熱が、樹皮と枯葉に引火する。
果樹に蓄えられていた水分は一瞬で蒸発し、代わりに残された樹脂が、地獄の業火の種火へと変貌した。
「ゴァッッ……!!?」
初めて、目の前のゴブリンが声をあげた。
驚愕と、明確な痛みを孕んだ声。
──それもそうだ。
俺にとっても、ぶっつけ本番の奇策。
初めて放電によって引き起こした業火の嵐だ。
驚いてくれなきゃ、こっちが困る。
そして──次の瞬間、
洞窟内の空気が一気に燃え上がる。
火の手は四方八方へ広がり、出入り口を塞ぎ、緑に覆われていた空間は、まさに地獄の窯と化した。
感覚が赤に染まる。
熱気が肌を焦がし、火の粉が絶え間なく降り注ぐ。
その中心で、ゴブリンの動きが一瞬、鈍った。
その隻眼に、僅かながら焦りが滲むのがわかる。
このまま焼け死ねば、言うことなしだが、そこまでは望むまい。
俺が狙うのは、そんな不確かな希望じゃない。
狙うべきは、確実な一撃。
それだけだ。
荒れ狂う炎の中、焼けた空気を無理やり肺に押し込む。
焦げるような熱気が喉を灼き、意識が遠のきかけるが──
(……来い……!)
──待つ。
俺は、熱と傷に朦朧としながらも、あえて動かない。
このゴブリンは結晶を噛み砕くことに執着していた。
それが奴の本能なら──
俺も、その対象になるはずだ。
俺の体に結晶があるかは分からない。確かめる術がない。
だが、隻眼のゴブリンは俺を喰らおうとするはず。俺に触れようとするはずだ。
この炎の中で焦りがあるなら、尚更。
だから、待つ。
ピクリとも動かず、死んだふりをして。
焦れたように、隻眼のゴブリンが一歩ずつ、俺へと近づく。
焼けた地面を踏みしめる度、微かに土が崩れる音が聞こえた。
(……いいぞ……そのまま……)
気持ちが逸る。
鼓動がうるさい。
熱と痛みで意識が朦朧とする中、ただ、待つ。
この一撃にすべてを懸ける。
あと少し、あとほんの数歩。
そして──
(────来い……!!)
最後の一歩を踏み込む──はずだった。
しかし──
隻眼のゴブリンは、寸前で動きを止めた。
(……まさか……バレた!?)
思考が警鐘を鳴らす。
まるで俺の狙いを見抜いているかのように、ピクリとも動かない。
喉が粘つく。
このままでは……
(────ッ?)
鋭い衝撃。
感覚が跳ねた。
(────な……に、が……!?)
意識が、一瞬、空白に沈む。
そして──
──体が、揺れる。
思考が、崩れ落ちる。
(……投げつけられた木片が……俺の体を……宙に……)
感覚が追いつかない。
自分が何をされたのかすら、分からない。
ただ、一つだけ確信できること。
隻眼のゴブリンは徹底していた。
決して、自らの手で俺に触れようとしない。
必ず、投擲だけで獲物を屠る。
その、異常なまでの、絶対の意志。
──空を舞う。
時間が引き延ばされたかのような錯覚。
重力が消え、意識が遠ざかる。
そして、そのまま。
俺は泥に濁った湧水へと墜落した。
無慈悲な水の抱擁。
切り裂かれた身体から溢れた赤い血が、泥濁りの水へと滲み広がる。
(……………………)
静寂。
いや、違う。
俺の鼓動が遠ざかり、世界が音を失っていく。
既に、触覚は機能していない。
熱さも、冷たさも、痛みすらも──消えていた。
それでも、俺は生きている。
わずかに残る嗅覚が、ゆっくりと歩を進める隻眼のゴブリンを捉えている。
水面の向こう。
滲む影が、俺へと迫る。
──それでも俺は、抗うことすらできない。
身体は沈むまま。
意識は散るまま。
そして、
俺は────
=====
『彼』は確信した。
──勝負はついた、と。
呆気無い程、あっさり。
湧水に、赤が滲む。
そして、動かない。
策を講じたおかげだ。
今もなお、燃え盛る火焔のことは想定外だったが、
今の『彼』には届かない。
故に、何の問題もない。
何もかも、計算通りだった。
『彼』は、隻眼の小鬼は強い。
決して、自らの手で触れずに仕留める。
これこそが、『彼』の狩りの流儀。
投擲だけで、獲物を屠る。
それが、勝利の確信だった。
「…………」
感覚を研ぎ澄ます。
だが、死の臭いはまだ満ちていない。
慎重に、さらに木片を手に取り、湧水へと投げつける。
水面が揺れ、波紋が広がる。
しかし、ヤツは動かない。
ヤツが動かなければ、それはつまり、
『完全な死』を意味する。
策を尽くし、ヤツを狩り尽くした。
安堵が広がる。
そして、『彼』の中で、獰猛な衝動が膨れ上がる。
この狩りは、ただの復讐ではない。
これは『彼』の進化のための糧。
ヤツを喰らう事で、さらなる力を手に入れる。
それこそが、勝利の真の目的だった。
同族の結晶を喰らい、進化を続けてきた。
ならば、
ヤツの結晶には、己をさらなる存在へと押し上げる力が宿っているはず──!
期待が止まらない。
高揚が止まらない。
だが、それすらも『
『彼』は勝者だ。だからこそ、最後まで慎重に。
『彼』はゆっくりと歩を進める。
湧水へと、近づいていく。
水面は静か。
揺れる波紋の奥、沈むヤツはもはや生命の気配すら感じさせない。
これで終わりだ。
もう、何も問題は無い。
そう、思ったその時。
──ピリッ。
微かに、
肌を刺すような 違和感が走る。
(…………?)
だが、それが何かを思考する前に、
『彼』の片足が、
=====
──終わった。
そう思った。
泥と血に塗れた俺の身体は、湧水の上にただ浮かぶ。
まるで屍のように。
全身が軋み、崩れかけた建物のように、微動だにしない。
肺の奥に溜まる鉄臭い血が、喉を焼く。
意識は遠のき、呼吸は浅く、酷く寒い。
(……ここで……終わるのか……?)
皮肉にも、痛みすら薄れてきた。
まるで、死が。
死そのものが、優しく迎え入れようとしているかのように。
──その時、
足音が響いた。
重々しく、確実に俺を喰らうための一歩。
隻眼のゴブリンが、ゆっくりと近づいてくる。
それは王の歩みに似ていた。
勝者の余裕。
敗者への鎮魂歌。
まるで、すべてを支配する者の足音のように。
(……………………)
俺は、ただ、静かに、その足音を聞いていた。
(……………………)
──その時だった。
明滅する意識の狭間に、『声』が響く。
どこか幼く、脆く、それでいて酷く、物悲しい響きを帯びた声。
(……………………)
『諦めろ』
と、その声は言う。
(いやだ……死にたく……ない)
『もう動けないじゃないか』
と、その声は言う。
(違う……まだ……動く)
『何故そこまで足掻くのか?』
と、その声は問う。
(生きているから……だろうが……!)
『じゃあ、君はどうするの?』
(たとえ……身体が動かなくとも……内臓が……『器官』が……まだ、動く……!)
『でも、それをしたら共倒れになるかも』
(それでも……! やらないよりはマシだ……!)
『本当に?』
(本当だ……! まだ、終わらない……! 終われない……!)
『…………』
(頼む……ほんの、少しでいい……力を……力を、貸してくれ……!)
必死の懇願。
もはや、『誰』に頼んでいるのかすら分からない。
それでも、何かに縋らなければ、もう立ち上がれない。
幻聴か。
妄執か。
それとも──
けれど、その瞬間、確かに聞こえた。
苦笑するような、どこか呆れたような。
『……しょうがないなぁ。それじゃ、僕も頑張ってみるから』
諦めにも似た、柔らかい響き。
『あとは、よろしくね』
──瞬間、全身が爆ぜた。
(──────ッッッ!!!?)
覚醒する。
赤く濁った水の中、俺の意識はまだ途切れていない。
否──むしろ、今この瞬間、俺は確かに『生きている』と実感している。
限界を迎えたはずの身体に、微かだが確かな熱が宿り。
焼け付くような痛みと共に、僅かに残された『力』が呼応するように脈動する。
何が起きた?
どうしてまだ動ける?
そんな疑問も今はどうでもいい。
それよりも、今の俺に残された唯一の『手』──
(……
思考が閃光のように弾ける。
身体は動かない。
吸血で得た回復力も、とうに限界を迎えている。
ならば、残されたのは、たった一つ!!
俺のすべてを賭けた、最後の一手──
放電だ。
全力の放電を!!!
だが、まだ早い。
今ここで放っても、確実に仕留められるとは限らない。
確実に『殺す』ために──もう少し、待たなければならない。
隻眼のゴブリンが、あと一歩。
あと一歩だけ、湧水へと踏み込むまで。
その足が沈んだ瞬間、俺の勝ちだ。
だから、もう少し。
もう、ほんの少しだけ……!
(…………っ!)
勝ち誇った気配が、確かに伝わる。
ヤツは完全に『勝利』を確信している。
俺が動けないことを、もう抵抗すらできないことを。
(──それでいい……来い……!!)
最後の言葉を、祈りではなく、確信として噛みしめる。
全てを賭けた、一撃を叩き込む、その瞬間を待ちながら。
そして──
隻眼のゴブリンの片足が、湧水へと沈んだ。
その刹那、
俺は全身全霊の『放電』を解き放つ。
否──
もはや放電などという生温いものではない。
轟く雷鳴、迸る雷光。
一瞬にして感覚が白く染まり、激しい閃光が周囲を焼く。
まるでこの空間そのものが、天空から降る稲妻に打たれたかのような──
そして。
水が伝導体となり、無慈悲な雷の刃が
(────う゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ゛っ゛っ゛!!)
「────グギャァァァァァァァァァッッッッ!!!?」
互いの絶叫が空間を揺るがす。
雷鳴の如き轟音。
空気が震え、天井の岩が微かに砕ける。
洞窟の奥深くまで響き渡る、魂が引き裂かれるような断末魔の咆哮。
──雷撃の奔流が、暴れ狂う獣のように水中を駆け巡る。
四方へ弾け飛ぶ光の刃。爆ぜる雷音。
焼け焦げる肉の臭い。蒸発する湧水。
まるで雷神の裁きでも下ったかのように、池にある水は瞬く間に高熱の霧へと姿を変えた。
電流に捕らわれ、肉が焼け焦げる。
体内の水分が弾け飛び、全身から黒煙が立ち昇る。
そして──
「……ガァ……グ……ゥ……!」
それでもなお、隻眼のゴブリンは動こうとしていた。
焼け爛れた肉体を引きずりながら。
蒸気の向こうで、揺らめく影となって。
(…………ッ!?!?)
まだ──生きているのか……!?
高温の霧が立ち込める中、ゴブリンは痙攣しながらも、俺へと手を伸ばす。
焦げついた肉が裂け、焼けただれた筋繊維がむき出しになりながら、それでも──なお、前へと進もうとする。
まるで「ここで終わるわけにはいかない」と言わんばかりに。
(……やめ、ろ……! くるな……くるなっ……!!)
反射的に身を引こうとするが、体はもう動かない。
痛みすら麻痺し、ただ、絶望の中で息をすることしかできない。
──そして、
その指先が、俺に届く寸前で──
ゴブリンの身体が、崩れ落ちた。
「……グギ……ャ……」
呻き声が、霧散する。
空気に溶けるように、儚く、無機質に。
湧水が赤黒く染まり、ゆっくりと波紋が広がっていく。
静寂が訪れた。
──そして、
我が身をも焼き尽くした電流が収束すると同時に、黒く焦げついた隻眼のゴブリンの肉体が、音もなく水の底へと沈んでいく。
無情なまでに。
絶対的な死の静けさをまといながら。
──俺は、勝ったのか?
理解が追いつかない。
思考がまとまらない。
ただ、
ただ、それを見届けた時、
世界が闇に溶けるのを感じるだけだった。