『モンスターハンターワイルズ』発売記念
──意識がある。
闇。
ただひたすらに、深く、重く、どこまでも沈み込むような闇の中で、俺は目覚めた。
……とはいえ、『目覚めた』と言っても、目を開いたわけじゃない。
というか、そもそも目がない。
視界は完全にゼロ。何も見えない。
耳を澄ましてみても、何も聞こえやしない。
世界が音を失ったかのような、絶対的な静寂。
(……俺は、死んだのか?)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
だが、確信は持てない。
『死』という概念すら、今の俺には曖昧だった。
過去の記憶を辿ろうとしてみるも、何も浮かんでこない。
生きていたはずだ。どこかで、誰かとして。
だけど──その『誰か』が、何者だったのかが分からない。
俺は何をしていた? どこで生きていた? 誰と関わっていた?
全てが、霧の向こうに消えたかのように曖昧で、掴みどころがない。
思考が虚空をさまよう。
だが──
……まあ、考えても仕方がないか。
失ったものを悔やむより、今の自分を理解する方が先決だ。
まず、動こうとしてみる。
ぐにょっ。
(…………え?)
違和感しかない。
手を動かそうとしたはずなのに、何か柔らかいものがくねっと曲がる感触が伝わってきた。
まるで、無理やり捻ったゴムホースのような……。
いや、これ、俺の体か?
(うわ、なんだこれ……!?)
焦りながらも、慎重に体の感触を確かめる。
指も、手も、足も、どこにもない。
代わりにあるのは、ヌルヌルとした滑るような感触の表皮。
さらに、自分の体をうねらせることで、ようやく移動できることに気づく。
試しに前へ進もうとすると、ずるりと地面を這う感覚。
それはまるで、ミミズかナメクジのような動きだった。
(……終わった……)
言葉にできない絶望感が押し寄せる。
いや、マジで、どうしてこうなった?
意味がわからないが、どうやら俺はとんでもなく弱そうな生き物になっているらしい。
だが、一つだけ救いがあるとすれば──
『嗅覚』が異常なほど鋭い。
周囲の匂いが、まるで視覚の代わりかのように鮮明に感じ取れる。
湿った空気。石のような冷たい岩肌の匂い。
地面に広がる苔の微かな香り。
そして──少し離れた場所から漂ってくる、生き物の匂い。
(……なるほど、これは使えるかもしれない)
さっきまで絶望していたくせに、俺は少しだけ前向きな気持ちになっ──いや、待て。
(……誰か……『何か』いる?)
耳がないから、音は一切聞こえない。
だが、嗅覚だけでそれは分かる。
何かが、歩いている。
二足歩行。人間より小柄だが、しっかりとした足取り。
汗と土の混じった臭い。そして、微かに漂う獣臭。
──知っている。
なぜか分からないが、この特徴的な匂いには覚えがある。
(……ゴブリン?)
そう、これはゴブリンの匂いだ。
なぜか直感でそう思った。
小柄な怪物。醜悪な人型。
ファンタジー世界では定番の下級
この状況で、それが現れるということは──
(ここは、そういう世界なのか……?)
もしかして、俺は異世界にでも転生したのか?
……だが、そんな疑問を抱いている場合ではない。
今の俺にとって、優先すべきことは一つ──
(生き延びること……!)
この奇妙な体で、どうやって?
何を食べ、どうやって動き、どこで眠る?
そもそも俺は何者なのか?
ここが異世界だとするなら、どうすれば強くなれる?
考えなければならないことは山ほどある。
──だが、今はそれよりも先に。
まずは、動かねば。
這いずることしかできない。
それでもいい。どこか安全な場所を探さなければならない。
何か、食えるものを探さなければならない。
俺は身体をゆっくりと波打たせる。
冷たい岩の感触を肌で感じながら、じわじわと進む。
(……遅い。これじゃ、何かに襲われたらひとたまりもないな)
その事実に嫌でも焦燥感が募る。
今の俺は、弱すぎる。あまりにも。
だが、そう思った瞬間──
鼻腔を満たす、異質な臭いに気がついた。
強烈な、何かの匂い。
(……これは……肉?)
本能が、『体』が、わずかに疼く。
理屈ではない。
ただ、無性に気になり、俺は這いながら慎重にその方向へと向かった。
鼻腔を満たす濃厚な臭い。
近づくにつれて、その正体がはっきりと分かる。
死骸だ。
何かの生物が食い荒らされた痕跡。
骨の一部が露出し、肉はほとんど引き裂かれている。
だが、わずかに残された肉片から、まだ微かに体温が感じられた。
(……腐りかけ、ってほどじゃないな)
だが、問題はそこではない。
俺にとって、これが『食えるもの』なのかどうか──そこが重要だ。
一瞬、ためらう。
しかし、食わないという選択肢はない。
……いや、ないことはないのだが、このまま何も食さずにいれば、じわじわと衰弱するだけ。
(………………試す、しかないか)
意を決し、俺は舌のような器官を伸ばし、肉片を口に含む。
その瞬間──
(────っ!?)
体の内側で、何かが弾けるような感覚が走った。
微細な刺激。
微弱な電流のような何かが、俺の身体を駆け巡る。
一瞬だけ、内側から熱が灯るような感覚が俺の身を包んだ。
(……なんだ……今の……?)
ただの栄養補給とは違う。
今、確かに何かが俺の体に作用した。
はっきりとは言えない。だが──
力が宿るような感覚がある。
微細な熱が体内を巡る。
まるで、眠っていた『何か』が目を覚まし、俺の中に根を張るように。
けれど、それを確かめる暇はなかった。
──ギャアッ……
微かに、遠くから音が聞こえた気がした。
──音なんて聞こえないはずなのに。
ありえない違和感に、俺は瞬時に鼻を利かせる。
濃い獣臭と、汗の臭い。
土埃の混じった、鉄のような血の匂い。
(……ゴブリン……!?)
その瞬間、嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
足音は、確実にこちらへ向かってきている。
(まずい……!)
這うスピードを上げる。
這いずるという言葉がぴったりな、遅すぎる逃亡。
だが、間に合うのか──
──ギャギャ……!
推定ゴブリンの足音が、さらに近づく。
こちらの存在に気づいたのか、それとも偶然か。
だが、今の俺に戦う術などはない。
(……隠れられる場所は!?)
焦燥が脳を焼く。
這いずる速度を限界まで上げながら、必死に周囲を探る。
嗅覚を研ぎ澄ませ、わずかに伝わる振動に神経を尖らせる──
だが、時間が足りない。
「ギャギャッ!」
足音が、急激に近づいてくる。
土を踏みしめる荒い音が、じわじわと距離を詰めてくる。
(くそっ……間に合わない!)
俺は岩肌を頼りに進むが、すぐに冷たい壁に行き当たった。
──行き止まり。
(逃げ場が……ない!?)
ゴブリンの気配が、目の前まで迫っている。
興奮した咆哮が、耳のない俺にすらビリビリと伝わる。
「ギャギャギャッ!!」
完全に、俺を視認した。
そして──
「──ギャギイィィィッッッ!!」
獲物を仕留めるべく、一直線に飛びかかる気配。
目も耳もないが、『匂い』でわかる。
(もう、やるしかない……!)
絶体絶命──いや、これは最初から決まっていたこと。
俺は、戦わねばならない。
喰うか、喰われるか。
迷いは一瞬。
反射的に、俺は口を大きく開いた。
「──ギッッッ!!?」
ゴブリンの腕が、俺の口の中に飛び込む。
否、俺が喰らいついたのだ。
ヌルリとした俺の歯が、異質な皮膚に食い込み、強く締め上げる。
「──ギィエェエッッ!!?」
悲鳴が洞窟に響く。
その瞬間──
(な、なんだ……!?)
俺の口の中に、鉄臭い液体が流れ込んできた。
濃厚な匂い。粘つく温もり。
これは──
ゴブリンの血。
それが俺の体内へと染み渡るたびに、じんわりとした熱が、体の芯から広がっていく。
(────ッッ!!?)
ビリビリとした感覚が走る。
微弱な電流のような何かが、俺の全身を駆け巡った。
さっき腐肉を食べた時とは比べ物にならない。
もっと強烈で、もっと深く、俺の体に刻み込まれる。
ゴブリンの血が、俺を変えていく──!!
「──ギャアアッッッ!!!」
ゴブリンは絶叫し、俺を振り払おうと必死に暴れる。
だが、俺の顎は食い込んだまま、決して離さない。
そのまま、歯が肉を裂き、血が溢れ出す感覚がはっきりと伝わる。
(すごい……力が湧いてくる……!)
体の芯が熱を帯び、血が全身に行き渡るたび、俺の力が増していくのを感じる。
まるで、ゴブリンの生命そのものを俺が奪い取っているかのように──。
(これが……俺の力なのか?)
振り回されながらも、思考は妙に冷静だった。
対して、ゴブリンの動きは焦りと恐怖で乱れている。
パニックになったゴブリンは、力任せに俺を引き剥がそうとした──その瞬間。
「──ギァ……?」
足元が滑った。
ゴブリンはバランスを崩し、後方の岩壁に向かって、体ごと倒れ込む。
「──ギッッッッッ!!!?」
洞窟内に鈍い音が響く。
ゴブリンの後頭部が岩に叩きつけられ、そのまま力なく崩れ落ちた。
俺の口から、一滴の血が滴り、洞窟の床に静かに落ちる。
(……え?)
何が起こったのか、一瞬理解できなかった。
ゴブリンは微動だにせず、倒れ伏している。
(ま、まさか……勝ったのか?)
勝つつもりなど微塵もなかった。ただ、死にたくなくて必死に噛みついただけ。
それが、結果として俺の生存を勝ち取ることになった。
だが──
(……まだ、終わりじゃないよな)
今の俺に心臓なんてものがあるのかは知らない。
けれど、確かに何かが高鳴っているのを感じる。
全身が緊張し、警戒のスイッチが入ったまま、決して緩むことはない。
慎重に、俺はゴブリンの腕から口を離し、わずかに前へとにじり寄る。
目は見えない。だが、俺の嗅覚は確かに『それ』を捉えていた。
(……まだ、生きてる)
ゴブリンの呼吸は浅く、不規則だ。
血の匂いが濃くなり、そこに混じるのは──『死に瀕した者』の匂い。
だが、まだ完全には絶えていない。
(……どうする?)
とどめを刺すのか?
それとも、このまま逃げるのか?
この選択が、この世界での『俺の生き方』を決める。
──気絶しているだけ。
だから今なら。
今の俺なら、『とどめ』を刺すことだってできるかもしれない。
口の中に残る鉄の味。
ゴブリンの血を吸ったことで、俺の肉体は確かに変わり始めていた。
(……もっと、力を……)
この『体』が、欲している。
もっと強く。もっと速く。もっと『生き延びるために』──
血を。
肉を。
骨すらも喰らい尽くし、全てを己の糧にしろと。
本能が、そう叫んでいる。
だが──
(……俺は、別にこいつを殺したいわけじゃない)
……わけじゃない、はずなんだが。
ここは、俺の知る『日常』とは違う。
ルールも秩序もない──弱肉強食の世界だ。
それを、今この瞬間、骨の髄まで思い知らされている。
もし俺が抵抗しなかったら?
考えるまでもない。
遊び半分に弄ばれ、惨めに蹂躙され、何の意味もなく『死んでいた』だろう。
ならば──どうする。
何が正解だ?
『強くなるため』に、『生き延びるため』に、俺はどの道を選ぶ?
──迷ったのは、一瞬だった。
(……今のうちに、逃げる!)
『俺』は即座に判断する。
『体』の方は、不満げに疼いている。
血を、肉を、まだ求めている。
だが──知ったことか。
弱虫だろうが、卑怯者だろうが、なんとでも言え。
俺は逃げる。生きるために。
ゴブリンがまだ意識を手放している今こそが最大のチャンス。
欲をかいて余計なリスクを負うのは、ただの愚策。
俺の目的は、ただ一つ──
『生き延びること』だ。
それに、血を吸ったことで、確実に『何か』が変わった。
体の芯からじんわりと温もりが広がり、力が満ちていく。
まるで、冷え切った炉に火が灯るように──。
そして、その変化は『動き』にも顕著に表れていた。
(動きやすい……それに、さっきより速い?)
直前までの鈍重な這いずりとは違う。
地を伝うたび、滑らかに、そして無駄のない動きができている。
まるで『身体の使い方』を本能的に理解したかのように──。
これは、間違いなく『吸血』の影響だ。
(……血を吸うことで強くなる? でも、限界は……?)
一瞬、そんな思考が脳裏をよぎる。
この『進化』がどこまで続くのか……いや、それ以上に、『どこで止まるのか』。
けれど、今は考えている場合じゃない。
遠くで、『別の気配』がする。
足音──しかも複数。
嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
(まずい……! 増援か!?)
考えるよりも先に、俺は地を蹴り、前へ這う。
一秒でも早く、この場を離れなければ──。
ゴブリンの仲間が来るかもしれない。
いや、きっと来る。
このまま動きを止めたら、次こそ確実に『殺される』。
(とにかく、できるだけ遠くへ……!)
俺は、風の流れを探る。
空気の微かな変化、岩肌の湿度、苔の匂い──
それらを頼りに、迷いながらも奥へ奥へと這っていく。
今の俺には、『安全な場所』が必要だ。
休息できる場所。体勢を立て直し、次に備えられる場所。
血を吸ったことで、確かに体は軽くなった。
動きも速くなった。
だが──それだけでは足りない。
(戦える……か? いや、無理だろうな)
吸血したとはいえ、あのゴブリンを倒せたのは偶然の産物だ。
次に同じようなチャンスがあるとは限らない。
それに──
あのゴブリンが目を覚ましたら、必ず復讐しに来る。
目を爛々と光らせ、次こそはと殺しにくる。
敵は、きっとひとつじゃない。
だから、今は生き延びることに集中するしかない。
静かに。
けれど、最大速度で。
俺は暗闇の奥へと、這い進んでいった──。
フルベビアイス美味しそうだね。