『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』で交錯する視点──伊藤詩織監督の「表現」と法律家の「倫理」の相克
アカデミー賞に挑む『Black Box Diaries』
アメリカの本家アカデミー賞の発表が3月2日(日本時間3月3日)に迫るなか、日本では長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた伊藤詩織監督の『Black Box Diaries』に大きな注目が集まっている。この作品は、2015年に伊藤氏がTBSワシントン支局長(当時)・山口敬之氏から受けた性被害をモチーフとしている。これが刑事事件化されなかった経緯や、事実が認められて民事裁判で勝訴するまでの過程が描かれている。
タイトルに「Diaries(日記)」とあるように、その切り口はかなり主観的だ。事件の概要を網羅的に語るのではなく、あくまでも監督本人の視点からこの問題が描かれている。
しかしアカデミー賞の発表を目前に控え、この作品が大きな議論を呼んでいる。
問題となっているのは、作中の複数の映像が許諾なく使われていることへの批判だ。しかもその批判をする中心となっているのは、民事裁判で伊藤氏の弁護を担当してきた弁護士たちである。
留意すべきは、今回この作品で問題になっているのは伊藤氏が受けた性被害そのものの是非ではない。そうではなく、ドキュメンタリー映画の制作プロセスにおける倫理的問題だ。大雑把ではあるが、内容ではなく制作における「手続きの問題」と理解するとよいだろう。
以下、論点を整理しながら考えていく。
おもな論点と経緯
『Black Box Diaries』(以下『BBD』)で議論の対象となっているのは、おもに以下の5つの映像使用についてである。
①ホテルの防犯カメラ映像
民事裁判の証拠として提供され、他の目的で使用しない誓約書に伊藤氏と西廣陽子弁護士がサインしている。また映画の使用についてもホテルは不許可と回答。使用された映像では、タクシーやホテルの外観などにぼかしがかけられている。
②タクシー運転手へのインタビュー映像
当該事案日に伊藤氏と加害者を乗せた運転手。
③伊藤氏が西廣陽子弁護士と電話で話す映像
西廣弁護士はこの映像が撮られ使われていることを知らなかった。
④警察の捜査官A氏との電話や会談などの映像
そのすべてはおそらく隠し撮り(録り)で、カフェでの会談の際は遠くからA氏の横顔が映っている(表情が視認できるほどではない)。音声は加工されている。
⑤伊藤氏を支援する集会での映像
来場者の映像が許諾なく使われている(声をあげられない声)。
作中では、電話や会話などで意図的に隠し録り(音声が多い)をされていたと思しき映像も多く観られる。捜査官A氏との会話をはじめ、伊藤監督はそうした映像を確信的に使用している。
こうした映像の使用を大きく問題視するのは、伊藤氏の民事裁判を担当してきた元弁護団の3人だ。2月20日、日本外国人特派員協会(FCCJ)で彼らの記者会見が開かれた。そこでは映像使用の件や、伊藤監督へ再三再四説明を求めているにもかかわらず回答がないことも訴えられた。また、この日の午後には同所で伊藤監督本人の会見も予定されていたが、当日になって体調不良を理由にそれはキャンセルされた。
この元弁護団の会見内容は、感情的なものでもあった。伊藤監督へ説明を求めたものの応じられなかった経緯もあるが、それ以上に長年伊藤氏を支えてきたにもかかわらずこのようなトラブルが生じたことに強い失望と怒りを感じさせた。ひとりの弁護士は「恩を仇で返す」といった、弁護士とは思えない非常に感情的な発言をしたほどだった。
伊藤監督側の主張と対応
一方で、会見はキャンセルしたものの伊藤監督やその代理人も、同日に文書で声明を発表した(2025年2月20日「映画『Black Box Diaries』をめぐる記者会見・声明など」)。そこで伊藤監督は、問題となっている②タクシー運転手、③西廣弁護士との電話、⑤集会の映像については、修正において対処すると発表した。
④の捜査官A氏については、プライバシー保護の観点からもともと音声をすでに修正していると説明している。またA氏は伊藤氏の書籍『ブラックボックス』の段階ですでに協力を受諾しており、今回は映像であることや、隠し撮りの是非が争点となる。
ただ警視庁では、A氏の存在は事件担当をしていたことからすでに認知されていると考えられ、作品で使われている横顔が映る映像も、(隠し撮りではあるが)遠くからなのではっきり視認できるほどではない。またA氏は情報提供者ではなく捜査情報の説明なので、この点でも情報源の秘匿を侵害しているとは言い切れないとする代理人の反論も、一蹴できるものではない。
つまり、②~⑤についてはすでに解決済み、あるいは今後解決がなされると捉えられる。となると、残された問題はやはり①のホテルから民事裁判用に提供された映像の利用だ。
防犯カメラ映像をめぐる対立
ホテルから提供された防犯カメラ映像について、元弁護団と伊藤監督側の姿勢はいまも対立する。
元弁護団の主張とは、主に以下の3点だ。
- 西廣弁護士も誓約書にサインしており、懲戒されるリスクがある
- ホテルは、プライバシーの観点から防犯カメラ映像の使用を許可したことを知られたくないと考えられる
- 承諾なしの映像使用を認めると、今後ホテル等が裁判において防犯カメラ映像の提供等で協力してくれなくなるリスクがある
繰り返しになるが、この監視カメラ映像の使用については、あくまでも民事裁判用に提供されており伊藤氏もその誓約書にサインをしている。
対して伊藤監督の代理人側は、以下を理由に使用を突き通す構えだ。
- 映像はぼかしなどの加工がされており、オリジナルではない(加工についてはエンドクレジットで説明済み)
- 裁判中は誰もが閲覧可能な状態にあり、映像を提供したホテル名はすでに多数報道されている
- この映像は同意のない性暴力事件であることの唯一の視覚的証拠であり、被害者の救済という公益性の観点から映像使用は許容されうる
- (元弁護団3への反論)防犯カメラはホテルで起こる犯罪を防止する目的で設置されているものであり、現行法上でも、性暴力の証拠である場合、文書提出命令(民事訴訟法第220条、第231条)があればホテルは応じざるを得ない
- (元弁護団3への反論)国連の「ビジネスと人権」に関する指導原則の観点から、ホテルは施設内での人権侵害の予防と起きた場合の救済の責任を有する。「社会正義の実現」を掲げるなら、ホテルに対し、性暴力被害者の救済をすることを求めるべき
防犯カメラの映像使用について、誓約書にサインされている以上、西廣弁護士たちの主張はもっともである。そして、伊藤監督もその約束を破っていることにはおそらく自覚的であり、約束を破ることの弁明をしている。
ジャニーズ米訴訟ではホテルも被告
この防犯カメラ映像は、だれが見ても当初の約束(裁判でのみ使用)を伊藤監督が破っていることは明白だ。すでに施されている映像の加工は伊藤監督の最大限の譲歩なのだろう。
伊藤監督の弁明はロジックとしては厳しいが、ホテル側がこの映像使用について大きなアクションを見せていないことを前提にしているとも推察される。
事実、ウェブサイト『ジャパン・サブカルチャー・リサーチ・センター』は、この防犯カメラ映像の権利者であるアメリカのマリオット・インターナショナルに問い合わせ、日本での映画公開に反対していないとの回答を得ている。とはいえ、積極的に賛成も示しておらず、ある種の「黙認」という状況にある('The Documentary Black Box Diaries and Marriot International: Who's Actually Protesting?' 2025年2月19日)。
「ビジネスと人権」の観点が大きな意味を持ってくるのは、伊藤氏が被害を受けた翌年の2016年にこのホテルがマリオット社に買収されたからでもある。現在はアメリカの法人傘下だからだ。
ここで即座に思い出されるのは、昨年12月のジャニーズ性加害問題の被害者によるアメリカでの巨額訴訟だ。ネバダ州で提起されたこの訴訟では、SMILE-UP.(旧ジャニーズ事務所)やタレントの移籍先である後継会社のSTARTO社とともに、性加害の現場となったホテルの運営会社・MGMリゾーツも訴えられている。そこでは、ホテル側の注意義務の違反が問われている(’CASE NO: A-24-908373-C' p.25 2024年12月18日)。
つまり伊藤監督側は、ホテル側が映像使用の差し止めを起こしにくい立場であることを想定し、それも踏まえて当初の約束を反故にしたと推察される。同時に、ホテル側からの訴訟が提起される可能性も想定していると思われる。
映画の根幹とも言える防犯カメラ映像
『BBD』に目を移すと、この防犯カメラの映像はこの作品の構造においては根幹とも言うべき重要なポイントで2回使われている。
具体的には、やや遅めのオープニングタイトルが出る直前の6分過ぎ、もうひとつはホテルのドアマンからのメールを受け取った直後の映画終盤の1時間25分過ぎだ。
こうした構成からも、作品の重要な部分にこの映像は使われているので、使用を取りやめたくない伊藤監督の思いは間違いなくあるだろう。その映像は、伊藤氏が自力で歩けないほどの酩酊状態をしっかりと映している映像であり、非常にインパクトが大きい。観る者に伊藤氏が同意のある性交をできない状態であったことを確実に伝えてくる。
ただし、早くから伊藤氏の取材を続け、裁判も傍聴していたライターの小川たまか氏は、裁判においてこの映像は証拠としての重要度が高くなかったと解説する(小川たまか「ホテル映像は『決定的証拠』なのか」2025年2月19日)。
以上を踏まえても、この映像はこの映画にとって重要であったと捉えるべきだろう。
映像作品にとって大切なのは、当然映像そのものだ。その表現の質は文章などと異なり、インパクトが重要となる。観賞者や他のプロデューサーや監督にこの作品についての意見を求めた場合、この防犯カメラ映像については多くが言及するだろう。
法律家と表現者の相克
以上を踏まえて、今回この作品をめぐって生じている対立とは、以下のようにまとめられるだろう。
それは、伊藤氏を長年支えてきた弁護士たちの職業倫理と、性被害者として私的な映画を創ったドキュメンタリストの表現意欲との対立である。より単純化してしまえば、法律家と表現者の対立だ。
西廣弁護士たちの主張はもっともでもあり、伊藤監督の弁明は彼女たちの職業倫理からは明らかに逸脱している。そして、今後の裁判における防犯カメラ映像の提供にも影響を与える可能性はあるのかもしれない。
しかし、ドキュメンタリーの表現においてこれは許されるべきとする見方もあるだろう。問題となっている5点中4点は伊藤監督の説明どおりなら解決される可能性があり、防犯カメラの映像もホテル側は問題化しない可能性が高い。そして伊藤監督の代理人は、法的にそもそもホテル側には提供義務があることを主張する。
さらに、この映画が公開されることによって、ホテル側の安全配慮がより厳格化されるメリットもあるかもしれない。伊藤監督の代理人が「比較考量」を持ち出すのは、映画の波及効果が防犯カメラの提供抑止を上回る想定にあると考えられる。
ドキュメンタリーの倫理とは
一方で、ドキュメンタリーの倫理として、この伊藤監督の制作における「手続き」はどれほど正しかったのか──という問いももちろんある。
この場合、しばしばジャーナリズムとドキュメンタリーが混同される。もちろん伊藤氏はジャーナリストと名乗っており、作中でも自らの立場をそう説明するシーンがある。そして、ジャーナリストとしてプライバシーの保護等が十全でなかったことも、伊藤監督が作品を修正することからも明らかだ。
メディア研究者のパトリシア・アウフデルハイド氏(アメリカン大学)は、ドキュメンタリーの倫理が、メディア企業などのジャーナリズムのそれと異なることを明確化している。
ジャーナリストとは異なり、ドキュメンタリー映画制作者たちは組織を通じて基準を設定する文書を作成していない。ドキュメンタリー映画制作者のための専門職団体のいずれも、倫理規定を作成していない。
日本では、たとえばNHKは「NHK放送ガイドライン」を公開しており、そのなかで「取材・制作の基本ルール」を詳細に記している。朝日新聞も「記者行動基準」を公開しており、他の新聞社や通信社も公開している。つまり、こうした報道機関のジャーナリズム倫理と、ドキュメンタリー映画の倫理は異なるということである。
ただしアウフデルハイド氏は、多くのドキュメンタリー制作者へのインタビュー調査から、明文化されていないもののその共通の価値観も描出している。それは、被写体、視聴者、制作者(スポンサーを含む)との関係において誠実さを保つべきだと考えていることであり、同時に、その誠実さを完璧に実行することが不可能であることを経験上はっきりと認識していたことだった(同前、p.11)。
今回、伊藤監督は映像修正になかなか重い腰を上げなかった。この点において誠実さがあったとは言えない。しかし、誠実さの完璧な実行が不可能なことはドキュメンタリー制作者にとっては周知でもある。
以上のことからわかるように、ドキュメンタリーは非常に難しいジャンルでもある。
●2025年3月3日追記
前述したアウフデルハイド氏の論文は、明記したとおり2012年に発表されたものだ。その後、アメリカではドキュメンタリー・アカウンタビリティー・ワーキング・グループ(DAWG)が結成された。これは、ドキュメンタリーにおける価値観や指針、倫理などを検討する集団で、そのトップに名を連ねるのはアウフデルハイド氏である。文脈的に、前述したアウフデルハイド氏の問題意識の延長線上に生まれた組織だと捉えられる。
DAWGは、「倫理的で責任あるノンフィクション映画制作の基本理念」と題した指針をホームページにて掲載している。そこでは、「人間関係において透明性を保つ」ことや、「映画に登場する人々の尊厳と主体性を尊重する」ことなど、6項目の基本理念について明示されている。
なお、筆者がこのグループを知ったのは、朝日新聞2025年3月2日付の記事「伊藤詩織さんアカデミー賞候補作 日本未公開のまま、2日の授賞式へ」であったことも付記しておく。
森達也のドキュメンタリー論
多くのドキュメンタリー映画を生んできた森達也監督は、自身の経験も含めてドキュメンタリーについて自著でさまざまな考えを呈している。
森監督にとってのドキュメンタリーとは、要は創り手による現実の主観的な再構成といえる。言い換えれば、創り手にとっての「真実」(作品)の構築であり、決して「誰にとっても納得できる現実」などではない。むしろ、後者の成立が不可能であるとする前提がある。
森監督のこうしたスタンスは、極言として『ドキュメンタリーは嘘をつく』という自著の表題にも表れている。では被写体との関係性をどのように考えているのか。
それを考えるうえで、森監督があるエピソードについて言及する文章がある。韓国の監督によるアメリカ在住の一家の赤裸々な日常を撮ったあるドキュメンタリー映画が、被写体が作品を観る前に映画祭で公開されていたことについてだ。隠し撮りではなかったようだが、被写体はこれが映画として公開されることをおそらく考えていなかった。
それを踏まえて森監督は言う。
フェアかアンフェアかと問われれば、もちろんフェアではない。でもドキュメンタリーという悪辣な稼業に身をやつしながら、フェアじゃないと口角泡を飛ばすのも、何だかなあ、という感じなのだ。
(略)
でもやはり批判はできない。倫理や道義などの価値の体系からは、ドキュメンタリーは解放されねばならないからだ。
森達也『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』第3章/2005→2008年
森監督のこの発言は、ドキュメンタリーに明るくない者にはかなり過激に聞こえるかもしれない。あるいは、「やらせ」がなにかを理解せずにひたすらあら探しばかりするひとびとにも到底理解は不可能だろう。
ただし同時に森監督は言う。ドキュメンタリーの本質は「被写体との関係性を描くこと」だと(同前、第4章)。
森達也作品は、オウム真理教の信者や超能力者、あるいはペテン師とされた音楽家など、辺境のひとびとを題材としてきた。日本社会では異端扱いをされる彼らのフィルターを通して、日本社会の「正常さ」の怪しさを逆照射する。これが森作品の醍醐味だ。
そしてこうした多くのバッシングを受ける彼らが森監督を信用するのは、そこに強固な信頼関係があるからにほかならない。
ここで伊藤監督の『BBD』に立ち戻れば、森監督と同様にかなり主観的なドキュメンタリー映画を創った。それはアカデミー賞にノミネートされるほどの作品として評価されている。しかしその制作プロセスは、被写体や関係者の信頼を著しく損ねるものだったのも間違いない。
関係者に困惑を招いている『BBD』
実は、筆者の親しい友人・知人には、長く伊藤氏を取材したり支えてきたりした関係者が3人いる(私自身は伊藤氏と知己はない)。プライベートの関係は知らないが、彼女たちと伊藤氏の関係性は浅くないようだ。しかし今回の件における反応は三者三様で、共通する点がひとつあるならば「困惑」と表現することが適切だろう。
今回の『BBD』の制作手続きにおける問題は、そのほかにも彼女を支えてきた人たちの信頼を著しく破壊したことは間違いない。元弁護団たちの怒りや悲しみの発露はその一端を示すものだ。その一方で、荒ぶったリベラル系のSNSユーザーは「どっちの味方につくのか?」とネット右翼なみに煽り立て、そのネット右翼は「パヨクお得意の内ゲバ」と嘲笑する。右も左も短絡する者は大差ないということだ。
この問題は、元弁護団側にも伊藤監督にもそれぞれの正義があり、それが相容れないからこそ対立が生じている。繰り返しとなるが、それを単純化すれば法律家と表現者の対立ということだ。
もしオスカーを獲得すれば、伊藤監督は大きな栄誉を手にする。同時に世界に向けて性犯罪を重大視しない日本社会の状況を問題提起することになるだろう。さらには性犯罪を握りつぶした「ブラックボックス」が、森友文書が開示されるように、もしかしたら現在の石破政権下で開かれる可能性も見えてくるかもしれない。そしてそのことによって伊藤監督は多くのものを得るかもしれない。
が、それと同時に伊藤氏はこれまで彼女を支えてきた多くのひとの信頼を失ったままになるだろう。そして、これまでの展開を考えれば、伊藤監督/伊藤氏はそのことへの十分な覚悟もあるように捉えられる。
強行突破で切り開ける世界
最後にこの作品についての私見を簡単に述べておく。筆者が観たのは現在海外で配信されているヴァージョンだ。
この極めて主観的な映画は、ドキュメンタリーとして決して駄作の部類には入らず、それどころかアカデミー賞にノミネートされるほどのインパクトを持つのは確かだ。
同時に今回生じている議論からは、多くのひとびとがドキュメンタリー表現にさほど関心はないことも伝わってきた。
ドキュメンタリーが、法律家やジャーナリストの倫理を超える場所にあるとまでは言い切らないが、『BBD』の表現内容はそれほど過激ではない。筆者が観てきた多くのドキュメンタリーと比べても、むしろおとなしくて静かな部類の作品だ。
それを示すために、いくつか例をあげよう(カッコ内は筆者による作品レビュー)。
2016年のニュージーランドの『くすぐり』は、若者たちを騙して謎のくすぐりビデオを創っていたアメリカの男性が、かなり問題のある人物であることを追及する内容だ。そして映画公開後、作品で告発されていた人物は急死する。状況的に自殺した可能性がある(「奇妙な“くすぐりビデオ”の怖ろしい裏側を暴いたドキュメンタリー映画」2017年5月10日)。
同じく2016年に公開された森達也監督の『FAKE』は、「日本のベートーベン」ともてはやされながらもゴーストライターの存在が明らかとなってペテン師扱いをされた音楽家・佐村河内守を描いた作品だった。それは「ダメ人間のダメっぷり」を描きつつも、〝一発レッド社会の犠牲者のその後〟を描いたという点で極めて秀逸だった(「一発レッド社会の犠牲者を描いた『FAKE』」2016年7月5日)。
2017年のアカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞したNetflix製作の『イカロス』は、監督がロシアのアンチ・ドーピング機構の所長に頼んで自らドーピングをし、自転車の大会に挑む内容だ。その後この所長はアメリカに亡命して多くのロシアのドーピング事案を証言する。その後オリンピックなどでロシアが締め出されているのは、この人物の告発があったからだ。なお彼の長年の同僚は、ある日、謎の突然死をした(「ロシア版スノーデンが告発『プーチン大統領もドーピングを了承した』」2018年2月14日)。
2023年にジャニーズ事務所の性加害問題の追及の端緒となったBBCの『J-POPの捕食者──秘められたスキャンダル』では、本国版で以前から流出していたジャニー喜多川の映像が使われている(日本版ではカット)。無断なのは報道引用として問題はないが、出典が不明なので引用規定を満たすものではない。また乃木坂のジャニーズ事務所本社への突撃映像は無断で撮影され、そしていまも公開されている(「ジャニーズ事務所のメディアコントロール手法──『沈黙の螺旋』は破られるのか」2023年3月30日)。
2024年にNHKスペシャルで放送された『ジャニー喜多川 "アイドル帝国"の実像』では、被害者の遺族がSMILE-UP.(旧ジャニーズ事務所)の補償担当者と電話で話している模様が放送された。その音声の使用に許諾がとられていないことは、その直後に補償担当者が解任されたことからも推察できる(「『NHKスペシャル』が迫ったジャニーズ帝国の内実」2024年10月31日)。
以上、ぱっと思いつく近年のドキュメンタリーの例をあげたが、違法性があったり倫理的に問題があったりする表現はそこら中に見られる。もちろんその多くは問題追及のためなので、倫理的な問題は各ケースによって議論されるべきだろう。ただし、『くすぐり』のように追及相手が亡くなっているケースがあることは留意されたい。
これらの例を踏まえて筆者がひとつはっきりと伝えたいのは、ドキュメンタリーや(広義の意味での)表現は、かならずしも行儀が良いものだとは限らないということだ。「一般常識」のような世間感覚を突破できるからこそ開かれる世界と、それによる新たな倫理の構築の可能性は確実にある。表現とは常にすでにそうしたものであり、だからこそ憲法はその自由を保障する。
「適当・曖昧・なぁなぁ」=ブラックボックス
正直、日本のドキュメンタリーはとても行儀が良くておとなしく感じることは多い。テレビ番組で、街頭を行き交うひとびとにぼかしをいれるほどの日本は、神経質すぎると感じることも少なくない。一方海外では、かなり驚くような映像にもしばしば出くわす。
そして映像で表現するドキュメンタリー作品にとって、インパクトのある画はその作品の強度にかなり関係してくる。伊藤氏が防犯カメラの映像をとにかく使いたい心情は、この点から筆者は理解できる(私自身もドキュメンタリー志望で美大に進学し、日本のドキュメンタリーのパイオニアである吉田直哉氏の最後の教え子だった)。
とは言え、一方で私の周囲の人物や、あるいは森達也氏が指摘する被写体との関係性を重視する点において、伊藤氏の作品制作において問題がなかったとは決して言えない。つまりさまざまに不義理をしているのは明らかであり、オスカーを獲得してもしなくても、今後しっかりと表に出て議論をすべき必要はあると考える。
そして、その姿勢は伊藤監督がこの作品で訴えるテーマとも通ずることである。
伊藤氏も理解しているように、日本社会はさまざまなブラックボックスがいたるところにある。行政府だけでなく、たとえば筆者が追っているジャニーズ性加害問題では被害者補償の算定基準が明確でなく、多くの被害者がそれを「ブラックボックス」と呼んで批判している。またフジテレビは、人気タレントのトラブルを隠蔽しようとした疑惑で、いま第三者委員会による調査をされていることは周知だ。
課題があっても問題化せず、議論をせずに曖昧に幕をひこうとする。伊藤氏の被害もそうやって闇に葬りさられようとし、ジャニーズ問題でも経営分離がまだ果たされていないにもかかわらず報道は無視を決め込む。
適当・曖昧・なぁなぁによる隠蔽体質──これが日本のブラックボックスだ。
そんな日本社会の問題──まさにブラックボックスを伊藤氏は大きく切り開いてきたはずだ。ならば、伊藤氏自身がそのブラックボックスのような振る舞い(適当・曖昧・なぁなぁ)をしてはならないだろう。
とくに映画にも登場し、今回の問題について記事を書いた東京新聞の望月衣塑子記者を突然訴えることなどは、ジャーナリストとしてもドキュメンタリー監督としても、いったいそれがなにを意味しているのか理解できない。望月記者はたしかにうるさくておっちょこちょいなところはあるが、必要とされるのはちゃんと説明し議論していくことではないか。望月記者の誤解や勘違いがあるならば、それを説明すればいい。
たしかにいまの時代に議論は大変だ。SNS等でそれを興味本位で見物する外野は大量にいる。彼らはただやんややんやと囃し立て、敵/味方を区別するところから始める。思春期中学生のマウント取り合いのような雑なコミュニケーションに日夜勤しむ大きなおともだちが跋扈しているのがSNSやYouTubeだ。その行き着く先はアメリカのような分断だ。
『BBD』で筆者がもっとも印象的だったのは、ラスト近くのシーンだ。裁判所から出てきた伊藤氏に対し、60代くらいの女性がひどく侮蔑的な罵声を浴びせる。それはここには書けないような内容で、誹謗中傷以外のなにものでもない。
そうした連中に口をはさまずに落ち着いた議論の場を準備するのは、長年の蓄積があるレガシーメディアの役割だと筆者は考える。今後はそうした場で、他の専門家も交えてしっかりと意味のある議論──それはかならずしも合意や関係修復を目指すものであるとは限らない──をする必要があるだろう。
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