伊藤詩織さん映画を考える対話 浮かび上がってきた「問題」の本質は
【Re:Ron対話】ライター・小川たまかさん×映画作家・舩橋淳さん
性被害を実名で訴えたジャーナリストの伊藤詩織さんが監督したドキュメンタリー映画「Black Box Diaries」。日本の#MeToo運動の象徴を追った作品などとして国際的に高く評価される一方で、一部の映像や音声が許諾なく使われているとの指摘があり、日本では公開が決まっていない。映画に対する指摘をふまえ、作品についてどう考えるのか。ドキュメンタリーとジャーナリズム、性暴力をめぐる問題を描く難しさ、制作者の倫理と説明責任、解決に向けてできることは……。性暴力問題の取材執筆に取り組んできたライターの小川たまかさんと、セクシュアルハラスメントを主題にした作品やドキュメンタリーを手がけてきた映画作家の舩橋淳さんに、語り合ってもらった。
――それぞれどのような立場で今回の映画や問題に向き合ってきたのでしょうか。
【小川たまか】 私は主に性暴力のことを取材しています。加害者を取材することもあるけれど、被害に遭った方や被害者を支援する側の取材をすることのほうが多いです。
伊藤さんとは2017年に彼女が最初に記者会見する数カ月前に、私が彼女の取材を受ける形で初めて会って、そこで自分が被害に遭ったということも聞きました。その後、加害者として告発した元TBS記者との裁判、ツイッター(現X)の中傷投稿に「いいね」を押されたことをめぐる衆院議員(当時)との裁判、事実と異なるイラストを投稿されたことをめぐる漫画家との裁判も傍聴に通い、ずっと応援してきていました。
【舩橋淳】 作り手としてドキュメンタリーも劇映画(フィクション)も撮ってきましたが、ドキュメンタリーを作るたびに伊藤さんが直面しているような問題に向き合ってきました。22年には「ある職場」というセクシュアルハラスメントをテーマにした映画を撮り、性加害やセクハラ、二次被害の問題についても考えてきました。
「Black Box Diaries」については、プロデューサーのエリック・ニアリさんに以前自作をプロデュースしてもらったことがあり、制作中だという話は聞いていました。伊藤さんともフラワーデモに参加して話をするなど、接点がありました。こうした立場から、この作品に対してはひとごとではなく、声を上げなければいけない、と思いました。
今回の映画や性暴力をめぐる問題について、それぞれの立場から向き合ってきた2人。SNSをはじめ議論が過熱するなか、「分断が埋まることを願って」、じっくりたっぷり語り合います。
――「Black Box Diaries」をどのように見ましたか。
【小川】 最初は昨年11月ごろ、海外で配信されている映像を見るタイミングがありました。10月に元代理人の弁護士たちが会見した後で、すでに問題が発覚していた。先入観のない状況で見られたら良かったのかなとも思いますが、問題を聞いてからだと余計に、この映像を全世界に公開することを分かっていて振る舞えたのは彼女だけだったんだ、と思ってしまうところがありました。
私は裁判を追ってきて、彼女とも多少なりとも交流があり、現場で見ていた光景も多かったので、インパクトは他の人よりも感じることが少なかったと思う。ホテルの映像も、傍聴席からは見られないけれど、どういう映像かは言葉で説明されていたので。でも、初見の人はびっくりするだろうなと思います。
裁判において、ホテルの防犯カメラ映像は決定的な証拠ではなかった、と私は思っています。ホテルの映像、ドアマンの証言、タクシーの運転手の証言にしても、あれが決定的な証拠にならないほど、密室の中での性暴力、性犯罪の認定というのはとても難しく、被害者にとって酷な判断がされる。この映像があったのに警察は動かなかった、起訴しなかった、というのは大雑把に言えば正しいけれど、そこまで単純な話でもない。
映画は問題を全く知らない人が見るきっかけとしてはとても分かりやすくていいと思うけれど、現場の問題は単純化されたところでは動いていかない。たとえ泥酔した状況であっても、不同意性交罪が成立してなお残る「同意の誤信」の問題(被告が被害者の同意があると思っていたとして処罰されないこと)など、そこに本当の壁はある。伊藤さんが自分でドキュメンタリーを撮ったものとしてこうなるのはよく分かるけれど、「ジャーナリズム」ではないのではないか、と思います。
【舩橋】 僕はとても良い作品、ほぼ傑作と言ってもいいのではないか、と思いました。
昨年末に関係者向けの試写に呼んでもらって見ました。映画を見るときは前情報を入れないようにして見るので、権利の問題があるのは耳にはしていたけれど、そこまで情報が入っていない状態で見ました。
これだけの映画をちゃんと作るというのはとてつもなく大変なことで、たたえられるべきです。ただ、色々なところに瑕疵(かし)があり、不許諾の映像があるのは問題だと思う。問題とされる点を何らかの形でぼかしたりカットしたりしても、「軸」はぶれないとも思った。軸が残るからこそ、ちゃんとした形で公開したほうがいいのではないか、と。
「軸」というのは、性被害を受けた人がつらい思いをして、この国ではその人が保護されるどころか逆に何重にも壁が立ちはだかるという過酷な現実がある。それが「Black Box」なんだと思う。
2015年に元TBSの記者と2人で会食して酩酊(めいてい)状態のままホテルに連れ込まれて、同意のない性行為が起きてしまった。その後、彼女が立件をめざして警察に行って最初は門前払いされて、それを裁判にもっていこうとして刑事がだめで民事に行って、と色々な壁があるわけです。ちゃんと取り合ってもらえず、友達にも家族にも公表しないほうがいいんじゃないかと言われ、PTSDやフラッシュバック、トラウマに向き合いながら、証拠を集める。本当にそのつらさがこちらにも伝わってくる。伊藤さんの本も読みましたが、映像でだからこそ伝わってくるものがある。
伊藤さん個人のつらい思いだけではなく、問題が社会そのものにあるのでは、という点まで考えが深まるようにちゃんと構築されている。「普遍性」というステレオタイプな言葉がありますが、言語が違う世界中の国で見ても彼女の立場や苦しみを感じることができるまで、映像言語としてクオリティーの高い作品に仕上がっていると思います。
【小川】 ドキュメンタリーとしてそう思う方がいるのはその通りだと思う。何人か指摘されている方がいましたが、「Diaries」と言っているから、彼女の日記として、彼女から見た世界がこういうものだというのは非常に分かる。
ただ、それはジャーナリズムなのか、と。彼女がインタビューで「ジャーナリストとして」「公益性のある調査報道だ」といった言い方もしていて、調査報道ではないのでは、という思いはどうしてもあります。
【舩橋】 調査報道ではないと思います。客観的な事実の羅列ではなく、時系列も恣意(しい)的に選択している。僕はいつも「ドキュメンタリーはフィクション」と言っています。作家が自分の主観で編集する。ジャーナリズムとは一線を画すもので、自己表現であり自己表出だと思っているので。
彼女もそこを整理して説明できていないのではないかと思う。ドキュメンタリーは自己表現であるから、客観的な事実とは異なったり、今問題になっている様々なところで描き方が違ったりする。小川さんがおっしゃるように、裁判をつぶさに見てきた人にとっては取捨選択の仕方が違うのではないか、という議論もあると思う。
そもそも映画というのは「画」として強いもので編集して、皆がおもしろいと思って見に来てもらわなきゃいけないところがある。劇場で公開され、飽きずに見られて感動できるものにしなければいけない。映像として強い場面を残すことを優先するので、現実そのままの描写ではなくなってしまう。
僕も福島の双葉町で撮影したドキュメンタリーで、一部分しか映像を使っていないことに対して、近い人からすごく怒られて、かんかんがくがくの議論になった。でもそれは説明してクリアしないといけない。ドキュメンタリー映画としての全体の趣旨を説明して、それでも納得いただけない場合は、パンフレットやウェブサイトではタイムラインで詳細な説明を載せます、と説得して。映像というのは飽きずに見せていけるかが勝負になる、結論は曲げていませんので、そこで矛を収めてもらえませんか、と。
性暴力をノンフィクションで描く難しさ
先に述べた「ある職場」という映画では、実際にホテルで起きたセクシュアルハラスメントの事件を取り上げました。最初はドキュメンタリーにしようと思ったのですが、できなかった。被害者、加害者、職場の同僚などに取材した。ただ、被害者の女性には、カメラは持ってこないでほしい、素性も明かせないと言われて。じゃあなぜ話してくれたのかと聞くと、自分の痛みと、こういうことを感じる人がいなくなってほしいから、と。
取材源を明かさず、ばれないように、でも、僕が感じ取った「あなたが苦しんだ熱量」をフィクションとして描くのはいかがでしょうと提案したところ、許諾を得ることができ、劇映画として制作しました。
日本における性暴力やセクハラの被害者が、どれだけ孤立無援で四面楚歌(そか)の状態になって、誹謗(ひぼう)中傷や二次被害に囲まれるのか、作品中で追体験することになった。
【小川】 私も性暴力の取材をしていて、ノンフィクションには限界があるというのは個人的にすごく感じるところがある。
性暴力被害って全部を絶対に書けないところがあって、これを書くと被害者へのバッシングが激しくなってしまうだろうと遠慮して書けない、逆にこれを書かないと批判を受けてしまいそうだけれども事情があって書けない、というのがある。
性暴力の実際というのは、フィクションとしてでないと書けないのでは、とここ5年くらいずっと思ってきた。だから、今の話はすごく分かります。
――映画をめぐっては、元TBS記者が酩酊状態の伊藤さんをタクシーからホテルまで連れて行く様子が映るホテルの防犯カメラの映像の使用が焦点の一つとなっています。「裁判でのみ使用する」と誓約してホテル側から提供されたものとして、元代理人側は「性被害の今後の立証の途が閉ざされてしまう」と指摘。一方、伊藤さん側は「公益性」を重視し、外装や内装、タクシーの形などを変えて使用しているとして、「ブラックボックスにされた性加害の実態を伝えるためには、この映像がどうしても必要だった」と声明でコメントしています。
【舩橋】 ホテルの映像については色々な意見がありますが、僕は、公益性の観点からホテル側に出すという判断をしてもらわないといけないと思う。
大阪経済法科大学の菅原絵美教授も指摘していますが、国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」によれば、ホテル側も社会的責任として性暴力根絶をうたうべきで、映像として公益性があり、今の国際基準で言うとホテル側も映像を出すという判断をするのではないか、と思います。
【小川】 映画が完成していない状況で事前にホテルが映像を出すかどうか判断するのは難しいというのは分かる。ただ、もう完成してこれだけ大きな問題になり、国際的にも報道される状況になって、判断が変わることはあるのかなとは思います。
【舩橋】 僕は、あれは「犯行現場の映像」と言うべきだと思うんです。
タクシーで、彼女はできるだけ奥のほうで降りないところに身を沈めて、絶対動かないぞとしているのをこっちに来なさいという感じで元TBS記者にだんだん出口のほうに寄せられて、最後は肩を抱き抱えられてぐっと出される。引きずり出しているような状態です。
僕は、この場面に「不同意」そのものが映っていると思う。
2015年は不同意性交罪(23年施行)ができていなかったので証拠とは言えないから出せない、というのはおかしい。不同意性交罪の8項目がありますが、間違いなく当てはまるだろうし、民事の最高裁判決だって「不同意」を認定している。今の基準だったら犯行現場であり、公益性として認められるべきなのではないか。映画をきっかけに、性犯罪についても防犯カメラの映像を出すべきだ、という議論が行われてほしい。
【小川】 私は裁判も見ているので、法律の議論にはこだわりたい。
当時、不同意性交罪がなかったから立件できなかったかどうか、という点は微妙なところがあると思う。それは、連れ込まれてから行為が起こるまでの時間に対してお互いの話に食い違いがあるから。そういうことは法律が変わって不同意性交罪が成立した以降もあり、昨年も那覇地裁で2件の無罪判決が出ている。加害者が被害者への同意をとったと誤解しても仕方ない、と「同意の誤信」で無罪判決となった。
個人的な感覚を言えば、ああやって連れ込んでいる時点でもうアウトでしょ、と私も思う。当然思うんだけど、そこがまさに我々一般が考えるところとは違う「司法の壁」という難しさがある。
でもそのための素材が、あの映画の中にはすべては入っていない。それは仕方ないかもしれないけれど、ジャーナリストとしてやるのなら、自分に不利な証拠も両方見せた上で、民事では勝てた、でも刑事では不起訴の壁があった、というところを描いてほしかった。
【舩橋】 映画が公開されて、それに付随する形で、小川さんが今話されているようなことを上映後に共有し、今の司法はここまでしかできない、さらに改善されるべきだという議論になればいいなと思います。特に、裁判では被害者が不同意を証明するのでなく、加害者が同意の立証責任を負うべきだ、という議論がされてほしい。
【小川】 もちろんそうだし、日本って例えばソープランドで性交することは違法だけど、そこに入った途端に客と女性の自由恋愛が生まれた、ということになって、半ば合法となっている。突然出会った2人がそういうことをすることがある、と。そういう価値観にも関わってくる。つまりは、泥酔していた女性と部屋の中で同意をとることだってあり得る、という感覚が司法の中に歴然としてある、ということ。そういう問題を考えたい。
なので、SNSでホテルの動画をシェアして、これが決定的な証拠じゃないかというのは一般の感覚としてはまっとうだけど、じゃあそれがなぜ司法に反映されないのか、までを考える人が少しでもいたらいいと私は思います。
100%どちらかとは言えない
――「逮捕状は取ったが、組織の上のほうから、待て、逮捕するのをやめろと言われた」などと伊藤さんに語った「捜査官A」については、「情報提供をしてくれた“公益通報者”の身元の特定が可能な音声や映像を使うことは、組織内における捜査官の立場を危うくさせる」などと指摘されています。一方、伊藤さん側の現在の弁護士は「声と姿を加工している」と説明し、「明確な性犯罪が権力によってもみ消された事実を社会に示す公益性がある」としています。
【舩橋】 捜査官Aに関しては、100%どちらかとは言えないと僕は思う。彼女が捜査を進めてほしい、刑事訴追してほしいと言っても、それは無理だと言ってはねつけるという権力側を描いているということで、公益性でいける面もあると思う。とはいえ、本の『Black Box』を読んでも分かるけど、彼はかなり彼女に寄り添っていて、協力者的なところもあるわけです。
【小川】 本では「戦友」と書かれていますね。
【舩橋】 そうなんです。そういった意味で竹を割ったようにどっちが、というようにはなかなかいかないと思う。警察側・権力側を出す意味では公益性はあるけれど、協力者としての側面があるから、ある程度ぼかしを入れる、もしくは音を変更する、という判断が妥当かなとは思います。
――伊藤さんと元TBS記者をホテルまで乗せたタクシー運転手が当日の状況を語る映像については、運転手と連絡がとれなくなり、許諾を得ていない、と指摘されています。
【舩橋】 これに対しては、ぼかすとか頭を画面外に切って映せばいいという意見があると思いますが、国内外での感覚の違いもある。
日本だと、本人の了承を得ていないため個人の特定ができない形での正しい処理の仕方で、でも言っていることはちゃんと伝わる、という前向きな表現として受け取られると思う。
ただ、例えばアメリカでは信憑(しんぴょう)性そのものが損なわれかねない。再現ドラマみたいな感じで、うそかもしれない、と。伊藤さんたちが彼の顔を出した形で見せたかった、というのは分かります。
【小川】 日本って顔がさらされることに拒否感があり、気を使うところがある。日本の人があれを見て、さらに未許諾と聞かされてぎょっとする感覚は仕方がないかな、と思う。
一方で、海外ではこういう話になっているから「海外でOK」というのも、海外の配信を日本でも見ることができてしまうこともあるので、本人の心境がどうなのか何とも言えないところがあります。やはり、許諾をとってくれていたら良かったな、と。
【舩橋】 当事者同士が直接話し合うしかない。それでも、タクシー運転手のように連絡がとれないという人もいる。それは作り手として判断せざるを得なくて、彼がいいと思うか悪いと思うかは分からないわけだから、無許諾で使うのなら個人が特定されない形に修正するのが妥当かと……。自分ならプロデューサーと相談しつつそう落とし込むと思います。
【小川】 それは作り手側のリスクヘッジでもあると思う。でももしリスクをとって制作チームが出したのであれば、こういう意図があったと説明して、作品を作るためにどうしても必要だったと言った上で、そこに伴う批判は当然受けるべきだと思います。
【舩橋】 僕も現場でよく言われるんですが、「Pick your battles(闘うところを選べ)」と。現実的に譲れるところは譲って、譲れない箇所の交渉に全力を注ぐということです。
まずは制作側が元代理人側と誠意をもって和解をめざし、ここはぼかします、音声を変えます、カットしますなど全て明示し、同意をとりつける。でも、ホテルの映像については保留とする。これは映画の核だと思うので。
そこから両サイドで話し合い、理想は一緒にホテルへ許諾の再交渉へ行く。先述のように、ホテルには性暴力根絶の社会的責任があるという立場から、防犯カメラ映像には公益性があるという判断を求めるべきです。
【小川】 闘う部分を選んだほうがいいというのはおっしゃる通りだと思う。論点がホテル映像だけだったら、もっとシンプルな話だった。でも、伊藤さんも関係者への承諾が抜けていた部分について声明のなかで謝罪し、修正の意向も示しているので、解決される部分もあるのではないかと思います。
【舩橋】 彼女は映像ジャーナリストであるけれども、この作品においては性暴力サバイバーでもある。「当事者文学」という表現もありますが、そうした面も大きい。そのことが事態を難しくしていると思う。私たちは、彼女にもう少しあたたかくおもんぱかってあげなきゃいけないのでは、とも。
制作倫理が複雑になるのは、優れたドキュメンタリーはグレーゾーンを描くからです。法律の間にあるものとか、本来であればこうあるべきだとか言語で規定された世の中の決まりごとからはみ出た人や現象を、ありのまま描くことができる。
今回の作品で言うと、色々な法律やルールがある中で、被害者が自分で証拠を集めて性加害について立証しなければと懸命に動くけれど、何で悪いやつは捕まらないのか、というもどかしさが浮上してきます。言葉では言えない無力感とか喪失感が伝わってくる。この映画の深いところにある肝だと思います。
【小川】 ジャーナリズムでもドキュメンタリーでも、やっぱりペンとカメラを持った時点で権力になるというのは当然ある。それは当事者であっても変わらないと思う。
被写体に対しては最大限、気を使わなければならない。彼女に悪気はないとしても、大雑把で、細かなところに気を付けるという点で未熟なところは否めない。でも、もちろん誰にでも未熟なところがあるので、それはもっとチームでカバーできていれば、こういうことにはなっていなかったんだろうなと思います。
根幹にある違和感 分断を埋めるために
舩橋さんの語りで私が気になるのは、被害者が証拠集めをしなければいけないというお話。厳密に言うと警察が捜査をする。警察は伊藤さんに対して冷たいところはあったけれど、それなりに捜査も証拠集めもしていた。ただ、映画を見ると彼女が1人で孤軍奮闘したように見える。実際には、ドアマンの証言も弁護士が一緒に聞きに行っているし、民事裁判で映像を使わせてもらう交渉にも弁護士が入っている。でもそういうものは映画では見えない。伊藤さんには、優秀な弁護士たちがついて動いていたし、支援者もたくさんいた。その違和感が、問題の根幹にある気がします。
【舩橋】 映画が伊藤さんだけがヒロインというか、彼女を中心にした映画になっていて、他に支援した人とか証拠集めをやった人がいっぱいいるのに、無視されているということですね。
【小川】 彼女からしたらそういう視点で、彼女のドキュメンタリーとしては正しいのだろうけど、周りにいた人には、それはどうかと感じる人もいる。セルフドキュメンタリーで彼女が調整できたはずなので、周りの人をもう少し良く描くこともできたのでは、と。
もちろん、性被害者としての彼女がすごく孤独で、その心境が見えるものだったという見方は分かるけども、それが客観的な真実かは分からない。だから「彼女が1人でやった」かのような言い方はミスリードというか、分断を広げるような気がして。それで傷つく人もいるだろう、と思いました。
【舩橋】 そうですね。単純化するからこそ万人に分かりやすいストーリーになるんだ、と切り捨てることに畏(おそ)れを抱かなくなるのは危険です。作り手として現実の複雑さには繊細でいるべきだし、協力者の方々には時間を割いてもらっているのだから、その人たちとの関係を大事にする中で、編集の落としどころを見つけるべきですね。
【小川】 私は彼女のことも気にする一方で、彼女を支えてきた弁護士のこともとても心配しています。8年間ずっと一緒にやってきて、映画のことでこうなってしまっているのは残念だし、会見の後に弁護士へのバッシングが起こって、とても見ていられない状況です。
この件に関しては、弁護士は告発者の立場だと私は思う。無断録音された当事者でもあり、サインしたものをほごにされ約束を破られたのは事実なので。それを訴えたときに感情的だとか弁護士倫理にもとるとか言われているのは、告発者たたきだと私は思う。それに今回、弁護士が声を上げたから削除や修正されるところがあると思うけれど、もしも日本で公開された後に声が上がっていたら、それこそ取り返しがつかなかった。
――2月20日には日本外国特派員協会で、元代理人と伊藤さんがそれぞれ会見予定でしたが、伊藤さんの会見は体調不良を理由に直前に中止になりました。今後、問題の解決に向けて何ができると思いますか。
【舩橋】 この会見に伊藤さんがドクターストップで出られなかったのは仕方がない。ただ、予定されていた修正版の上映だけでもしたら良かったとは思う。
【小川】 修正されたといっても、見てみないと分からないところもありますしね。
【舩橋】 協力者への配慮とか、映画を作る上でカットせざるを得なかったけども彼女を支えてくれた方とか、捨象しなきゃいけなかった議論とかをどうするか、という問題がある。今の時代だからこそ、パンフレットだけでなく、ウェブサイトで説明したらいいかもしれない。これはカットせざるを得なかったけれど裁判ではこういう経緯があったとか、決定的な証拠はこれでしたとか。マルチメディアで、映画がちゃんと描けなかった部分をフォローする、というのがされてもいい。
そして、伊藤さんが公の場で説明するという責任はあるでしょう。良い形で話ができるようなルールのもと、丁寧に思いやりのある言葉で話せるような環境を作れるといいと思います。
【小川】 長い目で見たら、当事者同士で和解してもらうことが一番。舩橋さんがおっしゃる通り、彼女が安心して説明できる場所があるといいと思う。限られたスペースでやると疑問が出てしまうので、ある程度開かれた場で、なおかつ心理的安全性が守られるところで、と思います。
【舩橋】 指摘の仕方も大事だと思うんです。「自分の権利を主張するために他人の人権を蹂躙(じゅうりん)してもいいのか、踏みにじらないようにまず修正しろ。作品自体は良いんだけど」と言うこともできるけれど、「伊藤さんの作品が言わんとしていること、本当につらい思いをしてこれ作ったのはよく分かるから、多くの人に見てもらうために、許諾をとるものはちゃんととって、カットしたほうがいいものはカットして、皆が賛成してくれるような形にして公開しようよ」という言い方もできる。内容は一緒だけど、力点が違う。特にネット社会だと切り取られて拡散されてしまうので、自分の発信がどのような影響を与えるのかを意識しつつ、後者のような言説がどんどん出てきてほしい、と思います。
【小川】 この映画をめぐるSNS上での議論が過熱し、行き過ぎたところまでいっていることに大変心を痛めています。100%彼女は正しい、逆に100%彼女が悪い、というどっちかの議論になりやすい。そうした発信が双方への誹謗中傷やバッシングにつながりかねず、当事者間が歩み寄る妨げともなりかねない。対立があおられるのではなく、分断が埋まることを願っています。
おがわ・たまか 1980年生まれ。ライターとして主に性暴力を取材。著書に『告発と呼ばれるものの周辺で』(亜紀書房)など。『エトセトラVOL.11 ジェンダーと刑法のささやかな七年』(エトセトラブックス)で特集編集を務めた。
ふなはし・あつし 1974年生まれ。米ニューヨークで映画製作を学ぶ。監督作に「ビッグリバー」「フタバから遠く離れて」「桜並木の満開の下に」「ポルトの恋人たち 時の記憶」「ある職場」など。「action4cinema(日本版CNC設立を求める会)」で映画界のハラスメント・性暴力防止を含む労働環境の改善に向けた活動に取り組む。
言論サイト「Re:Ron」(リロン)
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- 【視点】
この対談は、作品に関連する問題について理解を深める内容となっています。とくに注目したいのは、この対談が現状生じている「分断」の緩和を目指していることです。 この問題は、性被害、性被害者の支援者、ジャーナリズム、ドキュメンタリーと複数の要素が混在しているため、さまざまな立場によって捉え方が異なります。この記事では異なる専門性を持つふたりの対談を通して、問題を立体的に読みほどこうとしています。 それは十分な価値がある内容だと受け止めました。両者の立場によってこの作品の見え方の異なりを明示していることが、分断の緩和につながると考えられます。 そしてこうした役割こそ、レガシーメディアの役割だと考えます。私も2月末の段階で同じ目的で長い記事を書きました。そこでは最後に「落ち着いた議論の場を準備するのは、長年の蓄積があるレガシーメディアの役割」と記しておきました。 ・『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』で交錯する視点──伊藤詩織監督の「表現」と法律家の「倫理」の相克(2025年2月27日/『Yahoo!ニュース:エキスパート』) https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/5328ad5530647baf83dbbe4b29ea6344c8c92b6e 朝日新聞本紙ではないものの、この記事はちゃんと役割を果たそうとしている結果です。 なお私の記事は、専門家には十分に評価されましたが、PV数は驚くほど少なかったです(ギャラにすれば1000円にも満たないほどで、今後はYahoo!ニュース・エキスパートで専門的な記事は書けないなと思いました)。なぜPVが少ないのか? それはどちらの「陣営」にも不都合なことが書かれているからです。 それは、おそらくこの対談記事も同様です。だからシェアされにくいとも思います。 PVとSNSに依存しがちなネット媒体では、強い言葉のほうが成果を生みやすいです。多くのユーザーは自分の立ち位置に都合のいい情報を求めます。よって、どちらかの「陣営」に極端に偏るほど結果が出やすいわけです。こうしてネットメディアでは専門性が淘汰されていきます。 SNSの多くのユーザーは、(敵/味方志向を多分に含む)「わかりやすさ」を求めます。今回の場合で言えば、小川さんが指摘しているように「100%彼女は正しい、逆に100%彼女が悪い、というどっちかの議論になりやすい」。 そうした分断の緩和こそが、長年の信頼と知的な読者層に支えられるレガシーメディアの役割だと考えます。たとえ多くシェアされなくとも、オピニオンリーダーには伝わります。SNSの表面で見える動きに翻弄されず、静かに読む層に伝えることが大切です。 ただ欲を言えば、もう少し早い段階でこの記事を出して欲しかったとも思います。慎重で丁寧な分、時間がかかるのは確かですが、ネットは時間との勝負の場でもあります。思慮深くなかったり意図的にそれを煽ったりするSNSユーザーの発言とそれによる分断に、早い段階で釘を刺す機動性がレガシーメディアには求められています。
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