2025年03月11日

令和6年版中学校歴史教科書Ⅱ(19)信長・秀吉・家康と天皇――信長と天皇権威との関係についての記述がなさすぎる

 第19回は、信長・秀吉・家康と天皇権威との関係である。この三英雄はともに、16世紀前半の皇室が衰微した状態を改善しつつ天皇権威と結びつくこと、天皇権威の後押しを受けることによって天下を取った。

 しかし、歴史教科書はこの史実を軽視している傾向がある。このことを問題視して、私は『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社、2009年)以来、三英雄と天皇・朝廷との関係の在り方を検討課題として取り上げてきた。
 以下、この問題を検討していくが、当然、分析項目は以下のように3項目となる。
 ➀織田信長と天皇・朝廷
 ➁秀吉と天皇・朝廷
 ③家康と天皇・朝廷……天皇・朝廷による任命の事実が書かれているか


 ➁⓷から見るならば、関白にもなった秀吉については、学び舎以外の全社が天皇権威との結びつきについて記している。学び舎も多少とも記していると見ることもできる。家康についても、頼朝の征夷大将軍の任命のケースと異なり、東京書籍、帝国書院、山川出版、令和書籍、育鵬社、自由社と6社が天皇・朝廷による任命と明記している。➁⓷については、一応、天皇権威と全国統一過程を一定程度結びつけて考えていると言えよう。

令和書籍は面白い

 しかし、ある意味、一番重要な➀信長については、天皇権威との関係がほぼ書かれていない。書いていないのが、日文、教育出版、帝国書院、学び舎、山川出版、自由社と6社存在する。朝廷に働きかけて義昭を将軍にしたと少しだけ触れるのが東京書籍と育鵬社である。
 以上8社に対して、唯一、信長と天皇権威との関係をきちんと記すのは令和書籍である。中学校の教科書としては詳しすぎると思うが、なかなか普通の本の中ではお目にかかれない内容を整理している(実はお目に掛かれる本もあるのかもしれないが)ので本当に面白いし、是非、一読されることを望む。
 
中学校歴史教科書Ⅱ(19)信長・秀吉・家康と天皇

〇東京書籍
➀信長……少し有り
②秀吉……天皇から関白に任命された秀吉
③家康……朝廷による任命有り

第4章1節「ヨーロッパ人との出会いと全国統一」
単元4【織田信長・豊臣秀吉による統一事業】

■織田信長の統一事業
 尾張(愛知県)の小さな戦国大名だった織田信長は、駿河(静岡県)の戦国大名今川義元を桶狭間の戦い(愛知県)で破って勢力を広げ、足利義昭を援助して京都に上りました。朝廷に働きかけて、義昭を第15代将軍にし、政治の実権をにぎりました。しかし、二人は間もなく対立するようになり、1573年、義昭を京都から追放しました(室町幕府の滅亡)。 (106頁)
②秀吉
単元4【織田信長・豊臣秀吉による統一事業】
■豊臣秀吉の統一事業
光秀をたおした信長の家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、信長の後継者争いに勝利し、大阪城を築いて本拠地にしました。天皇から関白に任命された秀吉は、全国に停戦を命じ、1587年、その命に従わない九州の島津氏を降伏させました。次いで1590年に関東の北条氏を滅ぼすと、東北の戦国大名たちも秀吉に従い、全国統一が完成しました。信長と秀吉の時代を、それぞれの城にちなみ、安土桃山時代といいます。 (106-107頁)。

第4章2節「江戸幕府の成立と対外政策の変化」
単元1【江戸幕府の成立と支配の仕組み】

■江戸幕府の成立
 1600年、豊臣氏の政権を守ろうとした石田三成は大名に呼びかけ、家康を討つために兵を挙げました。家康も三成に反発する大名を味方につけ、関ヶ原(岐阜県)で戦いました(関ヶ原の戦い)。これに勝利した家康は、全国支配の実権をにぎりました。1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(東京都)に幕府を開きました。(112頁)


〇日文
①信長……記述なし
②秀吉……天皇の伝統的権威利用
③家康……朝廷による任命なし

第4編「近世の日本と世界」
第1節「中世から近世へ」
単元3【ヨーロッパ人の来航と信長】

■織田信長の統一事業
 16世紀の中ごろになると、全国を支配しようとする者が現れました。尾張(愛知県)の織田信長は、駿河(静岡県)の今川義元の大軍を桶狭間の戦い(愛知県)で破り、美濃(岐阜県)の斎藤氏をほろぼしました。次いで、室町幕府13代将軍足利義輝の弟義昭をともなって京都にのぼり、義昭を将軍にして、政治の実権をにぎりました。 (113頁)
②秀吉
第4編「近世の日本」
1節「中世から近世へ」
単元4【秀吉による全国統一――近世社会の基礎づくり】

■豊臣秀吉の全国統一
信長の家臣の豊臣秀吉は、山崎の戦い(京都府)で光秀をたおして信長の後継者となり、次いで四国・九州、さらに関東・東北地方の大名を従えて、1590年に全国統一をなしとげました。その間、秀吉は、全国に200万石をこえる領地をもつようになり、大阪・京都・伏見に城を築いて、全国の金山・銀山を支配下におきました。さらに、関白の地位について、天皇の伝統的な権威をも利用して政治を行いました。(114頁)
③家康
第4編2節「江戸幕府の成立と東アジア」
単元1【全国支配のしくみ――泰平の世をつくる】

■徳川260年の基礎
 秀吉の死後、勢力を強めたした家康は、1600年に豊臣氏の勢力を守ろうとする石田三成らを関ヶ原の戦い(岐阜県)で破り、全国を支配する武家の頂点に立ちました。
 家康は、1603年に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開き、次に大阪城の豊臣氏をほろぼして(大坂の陣)、およそ260年にわたって戦乱のない、徳川氏の支配の基礎を確立しました。江戸に幕府がおかれた時代を、江戸幕府といいます。 (116頁)


〇教育出版
①信長……なし
②秀吉……天皇の権威も利用し
② 家康……朝廷による任命なし

第4章「近世の日本と世界」
2節「天下統一への歩み」
単元5【天下統一を目ざして――織田信長と豊臣秀吉】

■信長の台頭と室町幕府の滅亡
 16世紀の後半になると、戦国大名のなかに、都へ上がって全国の支配を目指す動きが現れました。尾張(愛知県)の織田信長は、駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間(愛知県)の戦いで破って勢力を強めました。その後、京都に入り、足利義昭を室町幕府の将軍にしました。 (108頁)
■信長の政治

■秀吉の天下統一
信長の有力な家臣だった豊臣秀吉は、すぐに光秀を倒し、信長の後継者になりました。そして、巨大な大阪城を築き、全国の統一事業を進めました。
 秀吉は、朝廷から関白に任じられると、天皇の権威も利用して、大名どうしの領土争いを禁じる命令を出しました。さらに、徳川家康を家臣に従えた秀吉は、反抗した九州の島津氏を降伏させました。1590年には、関東を支配する北条氏をほろぼし、奥州(東北地方)も服従させ、天下統一を実現しました。秀吉は、堺・博多・長崎などの貿易都市や、石見銀山(島根県)などの鉱山も支配し、その莫大な利益をよって権力を強めました。(109頁)
側注7⃣豊臣秀吉(1537-98)
 関白となった秀吉は、四国を支配下に置くと、豊臣の姓を与えられ、1586年に、朝廷から太政大臣に任じられました。 (109頁)

単元8【泰平の世の土台づくり▷江戸幕府の成立と幕藩体制】
■江戸幕府の成立
  豊臣秀吉の死後、関東を領地としていた徳川家康が勢力を強め、政治を動かすようになりました。1600年には、豊臣政権を守ろうとした石田三成らを、関ヶ原(岐阜県)の戦いで破り、豊臣方についた大名の領地を没収しました。家康は、1603年、征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開くと、まもなく将軍職を子の秀忠にゆずり、徳川氏が代々将軍になることを示しました。(114頁) 


〇帝国書院
➀信長……天皇の権威の記載なし
②秀吉……「朝廷の権威を利用した停戦命令」
④ 家康……朝廷による任命
①②
第4章第2節「戦乱から全国統一へ」
単元1【信長・秀吉による全国統一】

■織田信長の登場
 尾張(愛知県)の小さな戦国大名であった織田信長は、東海地方を支配する今川義元を桶狭間(愛知県)で破って名を上げました(桶狭間の戦い)。次いで美濃(岐阜県)も攻撃した信長は、1568年にほかの戦国大名よりも先に京都を押さえ、足利義昭を15代将軍としました。しかしその後、義昭と対立した信長は、1573年に義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼし、政治の実権を握ることに成功しました。 (116頁)
■信長の政策
■豊臣秀吉の全国統一
 信長が果たせなかった全国統一を実現したのが、豊臣秀吉です。秀吉は尾張の百姓の子で、信長に仕えて出世しました。光秀を倒して信長の後継者となり、大阪城を築いて全国統一の拠点としました。秀吉は朝廷から関白に任ぜられ、朝廷の権威を利用した停戦命令を全国に発した後、これに従わない大名の争いに介入しました。四国・九州の大名を降伏させ、1590年には関東に勢力を保っていた北条氏を滅ぼしました。東北の大名も秀吉に従い、全国統一を果たしました。これにより、応仁の乱から100年以上続いた戦国時代は、ようやく終わることになりました。(117頁)

第4章第3節「武士による全国支配の完成」
単元1【幕藩体制の始まり】
■江戸時代の幕開け
豊臣秀吉の死後、勢力を伸ばしたのは、関東を領地にしていた徳川家康でした。1600年に家康は、豊臣氏の支配をそのまま続けようとする石田三成らの大名を、関ヶ原(岐阜県)の戦いで破り、全国支配を強めていきました。そして、1603年に朝廷から征夷大将軍に任命された家康は、江戸(東京都)に幕府を開きました(江戸幕府)。江戸時代の始まりです。
(124頁)
 

〇学び舎
①信長……天皇の権威の記載なし
②秀吉……少し有り
③家康……朝廷による任命、なし

第3部「近世」
第4章「世界がつながる時代」
単元4【町衆と信長―織田信長の統一事業―】

■京都に入った信長
織田信長は、尾張国(愛知県)の小さな戦国大名でしたが、戦上手で、型破りなことを好む人物でした。駿河(静岡県)の今川義元を、桶狭間の戦いでやぶって、勢いをつけ、1568年、他の戦国大名に先んじて、将軍足利義昭を助けて京都に入り、将軍の位につけました。5年後には義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしました。(98頁)
・小コラム「将軍義昭を非難する信長」

第3部第4章「世界がつながる時代」
単元5【村に入ってきた秀吉――豊臣秀吉の政策と桃山文化―】

■太閤検地がはじまる
豊臣秀吉は、織田信長の死後、統一事業を引きつぎました。1584年、近江国(滋賀県)の今堀村の人たちは、秀吉が派遣した検地の役人の命令に従って、誓約書を提出しました。見地に協力し、ごまかしませんと約束し、もしそれを破ったらはりつけにされてもかままいませんと誓っています。
■刀狩の実施
1588年、秀吉は刀狩を命じました。(96頁)
■秀吉の平和令
 秀吉は、刀狩は、長く続いた戦後の世を終わらせて平和をもたらすためにするのだと言っています。国や郡などの境の争いを裁き、決めるのは、関白となった秀吉の権限であるとしました。大名たちにも、国内の平和を守るように命じ、たがいに戦争することを禁じました。
 秀吉は、九州の島津氏、関東の北条氏を攻め、降伏させました。つづいて会津(福島県)まで軍を進め、東北地方を征服しました。蝦夷地(北海道)南端の蠣崎氏(のちの松前氏)も、その後、秀吉に服従しました。こうして、1590年、秀吉は全国を統一し、戦国時代は終わりを迎えました。 (97頁)

第3部「近世」
第4章「世界がつながる時代」
単元7【江戸の町づくり――江戸幕府と大名】
■家康の江戸入り
1600年、関ヶ原の戦い(岐阜県)で、家康がひきいる東軍は、石田三成らの西軍を破りました。次いで1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。こののち、本格的に江戸城と城下町の建設にとりかかります。1615年には大阪城を攻めて、豊臣氏をほろぼしました。これ以後、大きな戦乱がない時代となりました。 (100頁)

〇山川出版
➀信長……なし
➁秀吉……「朝廷から関白に任命され、豊臣の姓をあたえられたことにより、天皇の権威を利用して戦国大名に停戦を命じた」
③家康……朝廷から任命
➀➁
第4章「近世の日本」
2節「近世社会の成立」
単元2【信長・秀吉の全国統一】

■織田信長の統一事業
 信長は、1560(永禄3)年、駿河(静岡県)の戦国大名今川義元を桶狭間の戦い(愛知県)で破ると、数年後には足利義昭をともなって京都に上り、義昭を室町幕府の15代将軍にして、勢力を強めた。さらに1573(天正元)年には、信長と対立するようになった義昭を京都から追放し、室町幕府をほろぼした。
 信長は、強大な軍事力によって全国統一を進めた。…… (114頁)
■豊臣秀吉の全国統一
 信長の家臣であった羽柴秀吉は、山崎の戦い(京都府)で明智光秀をたおして信長の事実上の後継者となり、大阪城を築いて全国統一の拠点とした。秀吉は朝廷から関白に任命され、豊臣の姓をあたえられたことにより、天皇の権威を利用して戦国大名に停戦を命じた。そして、停戦に違反したとして1587(天正15)年に九州の島津氏を降伏させ、1590(天正18)年には関東の北条氏をほろぼした。また伊達氏など東北の戦国大名も従わせ、全国統一を完成した。 (114-115頁)

3節「幕藩体制の確立」
単元1【江戸幕府の全国支配】

■江戸幕府の成立
石田三成は、毛利輝元らの大名に呼びかけ、1600(慶長5)年に家康と戦ったが敗れた(関ヶ原の戦い)。家康はこの勝利によって全国支配の実権をにぎり、1603(慶長8)年に朝廷から征夷大将軍に任命されて江戸(東京都)に幕府を開いた。この江戸幕府が続いた約260年間を江戸時代と呼んでいる。(120頁)


〇令和書籍
➀信長……天皇権威、大いに利用。天皇を盛り上げ、また引き上げられる
➁秀吉……天皇権威、大いに利用
③家康……天皇が征夷大将軍に任命

第四章近世
一安土桃山時代
ニ正親町天皇と織田信長

信長は、永禄三(1560)年に駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間の戦いで破り、その後も勢いが衰えることはありませんでした。信長が永禄十年(一五六七)に美濃(岐阜県)の斎藤龍興を追放すると、第一〇六代正親町天皇は、信長に直接綸旨を宛てて「古今無双の名称」とその武勲を讃え、尾張と美濃にある朝廷の御料地を回復し、宮廷経費を献上するように求めました。またこのころ、前将軍・足利義輝の弟・義昭が、室町幕府の再興を信長に依頼しました。翌永禄十一年、信長は義昭とともに京に上り、幕府を再興して義昭を十五代将軍に擁立しました。これを機に、応仁の乱以降のひっ迫した朝廷の財政は回復しました
 しかし、信長と義昭の関係はしだいに悪化しました。義昭は信長に敵対する勢力を結成しようと画策し、元亀元年(一五七〇)に信長が越前(福井県)の朝倉氏を攻めたときには、浅井氏が叛逆し、反信長連合が結成されて信長は苦戦を強いられました。
 正親町天皇は、信長が朝倉攻めに出征するにあたり、宮中の内侍所に戦勝の祈願を命じ、また石清水社(京都府)にも祈願を命じました。天皇が大名の戦勝を祈願することは久しくなかったことです。これを機に天皇が信長に肩入れすることが鮮明になりました。
徳川家康の応援を得て危機を脱しましたが、比叡山延暦寺(滋賀県)も反信長連合に加わったため、信長は延暦寺を焼き討ちにしました。そして、元亀四(1573))年に義昭を京都から追放することになります。ここに二三〇年続いた室町幕府は滅亡しました。 (191頁)
 [中略]
 幾多の戦いを制してきた信長でしたが、つねに優位だったわけではありませんでした。重要な場面で何度も天皇の力を借りました。朝倉攻めに際して反信長連合が結成されたときには、正親町天皇の勅命により、浅井氏・朝倉氏との和睦が成立しました。本願寺勢力との講和も天皇の勅命により成立しました。戦国大名にとって、天皇が作り出す秩序は一定の説得力を持つようになりました。信長は好むと好まざるとにかかわらず、危機に陥るたびに天皇の力を借りて立ち直りました。天皇は、信長の入京や出陣などで勅使を派遣して威光を与え、出征中の織田軍陣営にも勅使を派遣することがありました。天正四年(一五七六)には、正三位・内大臣という、京都を追放された将軍・足利義昭よりも高い位階と官職を信長に与えました。
 信長も、朝廷の御料地を回復し、御所を造営し、親王の元服を実施し、元旦の節会をはじめ途絶えていた朝廷の儀式を復興するなど、天皇の要望を次々と実現していきました。このように信長は天皇の要望に従い、また天皇も信長の要望を叶えたのです。(193頁)
信長が復興した伊勢の神宮の式年遷宮が行われたのは天正十三年(一五八五)、信長がこの世を去ったあとでした。 (193-195頁)

ホ豊臣秀吉の天下統一
 織田信長が本能寺で自害した後、重臣の羽柴秀吉は、京都郊外の山崎の戦いで明智光秀を倒し、主人の仇を打ちました。……秀吉は石山本願寺跡に大阪城を築き、居所、そして政権の本拠地としました。
 天正十二年(一五八四)に小牧・長久手の戦いで苦戦した秀吉は、徳川家康、織田信雄(信長の次男)と講和を結び、秀吉包囲網を解いていきました。朝廷から征夷大将軍への任官が打診されましたが、秀吉はこれを辞退しています。そして、第一〇六代正親町天皇から関白の位を授けられ、天下統一への後押しをもらいました。関白職は藤原五摂家出身者に限られていました。秀吉は、五摂家の一つである近衛家に跡取りがいないことに目をつけ、近衛家の養子となって関白就任への筋道をつけたのです。
 天正十三年(一五八五)、秀吉は四国の長曾我部元親を屈服させて四国を統一し、関白宣下を受けると、惣無事令を発令して大名間の私闘を禁じました。翌年、天皇より豊臣の姓を与えられ、豊臣秀吉は、天皇から朝廷における最高の官位である太政大臣に任命されました。これにより名実ともに豊臣政権が立ち上がったことになります。朝廷を尊重した信長の姿勢は秀吉に引き継がれました。しかし、信長があまり官職に興味を示さず、自ら朝廷政治に介入しなかったのに対して、秀吉は朝廷内での確固たる地位を築きました。 (195-197頁)
 [中略]
 家康が秀吉に従ったことで、秀吉の天下統一は時間の問題となりました。
 天皇を頂点とした公武合体による新秩序を作ろうとした秀吉の構想は、いよいよ最終段階に入りました。秀吉は天正十六年(一五八八)、まだ即位してまもない十八歳(満十六歳)の第一〇七代後陽成天皇を聚楽第に招き、五日間にわたる盛大な儀式を催しました。秀吉の京都の居所として建てられた聚楽第は、豪華極まりない大邸宅で、まだ竣工したばかりでした。二日目には諸大名に起請文を提出させて秀吉への服従を誓わせました。この聚楽第行幸は、秀吉と天皇が一体であることを示し、秀吉の権威を最大限に高めることになりました。
 天正十五年(一五八七)には、惣無事令に従わなかった九州の島津義久を屈服させ九州を統一し、天正十八年(一五九〇)、小田原の北条氏政を滅ぼして関東を平定し、奥州(東北地方)の伊達政宗らを諸大名を平定して、同年、ついに秀吉は全国統一を実現しました。秀吉も信長と同じく、重大な局面で天皇の力に頼りました。秀吉は九州と小田原を平定するにあたり、いずれも天皇の勅命による誅伐として軍事行動の正当性を示しました。特に秀吉が小田原に出陣するときは、御所で後陽成天皇の側まで進んで盃を賜りました。このように、正親町天皇が信長と秀吉を、また後陽成天皇が秀吉を信任してその後ろ盾となって天下人に導き、応仁の乱以降の動乱の時代は幕を閉じました。 (197-198頁)

第四章近世
二江戸時代
イ関ヶ原の戦いと全国の統制

 豊臣氏の支配を続けようとする石田三成が挙兵すると、関東を領地とする家康が関ヶ原の戦いでこれを破りました。慶長八年(一六〇三)、後陽成天皇はこの戦に勝利した家康を征夷大将軍に任命しました。これにより江戸(東京都)を本拠とした江戸幕府が成立し、慶応三年(一八六七)の大政奉還まで二六四年間続くことになります。この時代を江戸時代といいます。 (206頁)


〇育鵬社
➀信長……少し有り
②秀吉……有り
③江戸幕府との関係……朝廷による任命有り
①②
第3章2節「信長・秀吉の全国統一」
単元1【織田信長と豊臣秀吉の全国統一】

■織田信長の登場
信長は、駿河(静岡県)の戦国大名今川義元を、1560(永禄3)年に桶狭間の戦い(愛知県)で打ち破ると、京都に上り朝廷に働きかけ、足利義昭を将軍に立てて全国国統一を目指しました
 しかし、義昭と敵対するようになると、信長は義昭を京都から追放し、室町幕府は滅亡しました(1573年)。   (108頁)
■豊臣秀吉による全国統一
 尾張の貧しい農家に生まれた豊臣秀吉は、信長の家臣として才能を発揮し、やがて織田家有数の武将として地位を固めていきました。毛利攻めの最中に本能寺の変を知った秀吉は、和睦を整え、ただちに京都にとって返すと、明智光秀を討ちました。また、その後も織田家の有力な武将との戦いに勝利を収め、自らが信長の後継者であることを示しました。
 1583(天正11)年、秀吉は全国統一の拠点として巨大な大阪城を築き始めました。その後、朝廷から関白に任ぜられると、朝廷の権威を後ろだてとして全国の大名に戦いの中止を求めました。これに従わなかった九州の島津氏などを攻めて降伏させ、1590(天正18)年には、関東の北条氏をほろぼし、奥州(東北地方)を平定して、全国統一を果たしました。 (109頁)

第3章3節「江戸幕府の政治」
単元1【江戸幕府の成立】

■徳川家康と江戸幕府
1600(慶長5)年、天下分け目の合戦といわれた関ヶ原の戦い(岐阜県)に勝利を収めた家康は、1603(慶長8)年、朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きました。以後、明治時代をむかえるまでの約260年間を江戸時代といいます。 (114頁)
■幕府による統制
 幕府にとって征夷大将軍という役職は全国支配のよりどころであり、その任命者は朝廷でした。幕府は朝廷を敬いながらも禁中並公家諸法度を定め、京都所司代を置くなど朝廷の動きを監視し、幕府をおびやかさないよう注意を払いました。 (117頁)


〇自由社
① 信長……なくなる。
②秀吉……有り
③家康……朝廷による任命有り

第3章1節「戦国時代から天下統一へ」
単元34【信長と秀吉の全国統一】

■織田信長の台頭
 戦国時代、群雄割拠する戦国大名の中で、尾張(愛知県西部)の織田信長が斬新な戦略と京都に近い地の利を生かして頭角をあらわしました。1560(永禄3)年、駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間で破った信長は、やがて京都にのぼると足利義昭を将軍に擁立し全国統一に乗り出しました。
その後、信長は義昭と対立するようになり、1573(天正元)年、義昭を京都から追放しました。ここに、室町幕府は230年の歴史の幕をとじました。 (112頁)
*平成26年版の自由社は、次のように信長の登場について、「織田信長の台頭」の小見出しの下、次のように記していた。
 「日本人が広く国外に目を向けるようになる一方、国内では群雄割拠する有力な戦国大名が、我れ先にと京都にのぼり、朝廷の信任によって全国の統治者になろうと競い合っていた。
 その中で尾張(愛知県西部)の織田信長が斬新な戦略と京都に近い地の利を生かして頭角をあらわした」(116頁)
 これは簡単すぎるとも思われるが、全国統一過程の本質を端的に記していて良い文章だった。これが無くなった。


単元34【信長と秀吉の全国統一】
■豊臣秀吉の全国統一
 1583(天正11)年、秀吉は信長の安土城をモデルにした壮大な大阪城の築城に着手し、全国を統治しようとする意思を示しました。1585(天正13)年、秀吉は関白に任ぜられ、その翌年、朝廷より「豊臣」の姓を賜わりました。秀吉は天皇の名により全国の大名に、停戦して秀吉に服属することを命令し(惣無事令)、諸大名を次々と平定していきました
 1590(天正18)年、秀吉に歯向かう大名がいなくなって戦火は止み、秀吉の全国統一事業は完成しました。翌年、関白を養子秀次に譲り、自らは太閤になりました。 (113頁)

第3章2節「江戸幕府の政治」
単元37【江戸幕府の成立】

■徳川家康と江戸幕府
 1600(慶長5)年、秀吉の重臣だった石田三成ら西国の対抗勢力を「天下分け目の決戦」となった関ヶ原の戦いで破りました。
  1603(慶長8)年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。(120頁)

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ラベル:Ⅲ近世
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posted by 小山常実 at 16:52| Comment(0) | 令和6年版歴史教科書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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