トルコで少数民族言語の辞典を出した、日本人の身に起きたこと 在仏57年の言語学者・小島剛一さん

2025年3月10日 12時00分 有料会員限定記事
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トルコで今年、日本人が1人で書き上げた少数民族言語の辞典が刊行された。
『ラズ語トルコ語辞典』は2072ページ、重さ3.4キロの大冊。出版まで40年以上かかったのは、ただ研究や執筆に時間を要したからではないという。

『ラズ語トルコ語辞典』を刊行した言語学者の小島剛一さん

著者はフランス在住57年の言語学者、小島剛一さん(78)。
数年前、「ひろゆきを論破した」とネット上で話題になったこともある人だが、小島さんの人生において、それはほんの小さな出来事にすぎない。
かつて「単一民族国家」を標榜していたトルコで、極秘に続けてきた少数民族の研究。憲兵や諜報機関による拘束、尾行、国外追放…。
なぜトルコで今、ラズ語の辞典が出せたのか。そのことは何を意味するのか。
そして、小島さんの身に起き始めた変化とは──。
小島さんにメールで尋ねた。(谷岡聖史)

◆「論破王を論破」の前から

辞典の話の前に、小島さんについて少し紹介したい。
1946年、秋田県生まれ。大学生だった1968年に留学して以来、フランス・アルザス地方のストラスブールに住んでいる。
1978年、トルコ語の方言研究によりストラスブール大で博士号を取得した。

フランス語やラズ語、トルコ語のほか、アルザス語や英語なども操る多言語使用者で、仏英日トルコの4言語で執筆した「ラズ語文法書・草稿」をネット上で公開している。

『ラズ語トルコ語辞典』を手にする小島剛一(こじま・ごういち)さん。日本語での著書に『トルコのもう一つの顔』(中公新書)、『漂流するトルコ 続「トルコのもう一つの顔」』(旅行人)、『再構築した日本語文法』(ひつじ書房)など。写真は2025年2月、フランス・ストラスブールで(本人提供)

2021年7月、そんな小島さんの名前がネット上で広く知られる出来事があった。
ネット掲示板2ちゃんねる元管理人の「ひろゆき」こと西村博之さんを「論破」したとされる一件だ。
発端は、フランス代表サッカー選手による日本人差別発言。
フランスに住んでいる西村さんが独自のフランス語解釈を披露したが、小島さんは、その解釈が成り立たないことを「F爺」名義で運営する自身のブログで述べた。
すると西村さんは「若者言葉を知らない高齢者の方が『聞いたことが無いからフランス人は使わない』というのは勉強不足なだけ」と、小島さんの名前を挙げずにTwitter(現X)に投稿した。
小島さんは、これに徹底的に反論した。

「ひろゆき十戒」として拡散した小島さんの文章(「F爺・小島剛一のブログ」より)

西村さんの問題点を10項目にまとめた文章は「ひろゆき十戒」と呼ばれて拡散し、「論破王」と称される西村さんを「論破した」と話題に。Twitterでも関連語が軒並みトレンド入りした。
だが、そのずっと以前から、小島さんは知る人ぞ知る存在だった。
1991年の著書『トルコのもう一つの顔』(中公新書)が、あまりにも衝撃的だからだ。

◆二度の「国外退去」

序盤では、トルコ各地を旅する若き小島さんと、土地の人々との温かい交流が描かれる。
しかし、少数民族と交わり、政府による弾圧の実態を知り始めると、暗雲がたちこめる。
憲兵隊に突然拘束され、行く先々で尾行や妨害を受けながらも、極秘の調査旅行を続行。やがて、政府機関に表立って干渉を受けるようになり、監視付きの「調査許可」を得る。

トルコ北東部の村で、茶畑の前で遊ぶラズ人の子どもたち。大人のラズ人の写真は「危険すぎて公表できない」という(小島剛一さん提供)

1986年、ラズ語域で結婚披露宴に招かれ、ラズ語の歌を披露しようとしたところ、警察官に「ラズ語は禁止だと知っているはずです」と退場させられた。
そのまま、自主的な国外退去を勧告され、トルコから逃れたところで、この本は終わる。
読者にとって、小島さんの消息は長年の謎だった。
日本語での論文や寄稿は限られ、所属先も非公表のため、無事かどうかさえ分からなかった。
読者の前に再登場したのは、『トルコのもう一つの顔』から19年後の2010年。続編の『漂流するトルコ』(旅行人)だった。

『トルコのもう一つの顔』(左)と『漂流するトルコ』

小島さんは退去勧告の8年後、1994年に再入国を果たしていた。しかし、諜報機関などの妨害は続いた。
2003年、トルコで『ラズ語文法』を出版。今度は「勧告」ではなく、無期限の国外追放処分を受けた。
それから22年。小島さんは今もトルコへの入国が叶っていない。

◆ラズ語研究、二つの理由

さて、ラズ語とはどんな言語なのか。
ラズ語は黒海の沿岸、トルコ北東端と、ジョージア(グルジア)南西端の国境付近で使われている。

『ラズ語トルコ語辞典』の表紙

系統としてはグルジア語などと同じ「南カフカス語族」の一つとされる。話者数は推定25万人。限られた語域だが、多様な方言があるという。
小島さんとラズ語との出合いは1970年代だ。
「将来の博士論文の題材を探していてトルコの北東端部でラズ語を『発見』した」「少し調査し始めたら音素も豊かで絢爛(けんらん)たる文法体系を具(そな)えた言語であることが判った」
辞典の序文にも経緯をつづっている。
二度にわたる「国外退去」についても当初は序文に書いていたが、ラズ人から「発禁の口実にされる」との懸念の声があり、削除したという。

小島さんがラズ語との出合いなどをつづった序文(『ラズ語トルコ語辞典』より)

なぜラズ語の研究を志したのか。小島さんは二つの理由を挙げた。
一つ目は、言語学者として感じたラズ語の魅力だ。
「子音音素の中に『放出音』というものがあること」「能格与格構文という稀有(けう)なものがあること」「主語だけでなく直接目的語や受益者の人称と数に照応して形を変える動詞が多数あること」「動詞に様々な接辞が前接したり後接したりして長大な複合体を作ること」
こうした特徴を持つラズ語の辞典にまとめる上で、小島さんはさまざまな工夫を凝らしたという。
例えば、日本語にない「放出音」などの豊かな子音を表記するため、38種類のアルファベットを採用した。

ラズ語を書き表すため、小島さんが定めた38種類のアルファベット(『ラズ語トルコ語辞典』より)

また、すべての方言形を尊重して同等に扱っている。
「見出し語の全てに他地域で通用する形態を付記しています」「一部の地域でしか観察できない音素には、その旨の説明がしてあります」「随所に特定の地域の動詞の活用表などが示してあります」
複雑な文法が分かるように例文を豊富に示したのも、工夫の一つだという。
「動詞によって能格絶対格構文、能格与格構文、絶対格構文、与格構文などを要請するものがあるため、動詞には必ず構文分類を明示し、全ての可能な構文の用例を収録しました」
そして、研究のもう一つの理由は、「ラズ人の歓待ぶりに感激したから」。

◆「自分しかいない」

ラズ語については、フランス人やグルジア人の研究者がまとめた資料があったという。しかし、「特定の狭い地域のラズ語のごく小さな一面しか描写していない」不十分なものだった。
また、ラズ人が作った「辞典」もあったが、「特定の方言の単語帳に過ぎない上、捏造語ありド素人語源ごっこあり…の杜撰(ずさん)で無価値な物ばかりだった」という。
遠くない将来に消滅する危険があるラズ語の辞典を作れるのは、「異言語人とは言え、既にトルコ語が第一言語になっていた自分しかいない」と悟った。
さらに、各地のラズ人たちからも「先生が辞典を作ってくれ」と何度も懇願されたという。

ラズ人の伝統家屋(小島剛一さん提供)

小島さんは、『ラズ語文法書』を出版してトルコから追放された後も、国内外のラズ人と接触し、ラズ語の研究を続けた。
紙の辞典を出版する見通しがないまま、ネット上で『ラズ語トルコ語辞典・草稿』を公開し、諦めずに執筆してきた。

◆収録語数の「政治性」

辞典の収録語数を尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「収録語数の計算は、簡単ではありません。何をもって『一単語』と見做(みな)すかが既に政治がらみの大問題なのです。そして『収録語数の多さ』が『その辞典の価値を決める』という考え方があり、『その言語の豊かさの尺度だ』という見方もあります」
どういうことなのか。
小島さんの説明を聞くと、ここにもトルコならではの事情が...

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    みんなのコメント2件

  • ユーザー
    chousan 1 時間前

    こんなスゴイ日本人がいるなんて!ラズ語トルコ語辞典、「日本の『国語』辞典式の数え方では『5万語超』。そして…トルコの政府機関のトルコ語辞典式の数え方をすると『20万語超』、これを一人で完成させた、小島さんの信念を表す術がわからない。

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  • ユーザー
    クレヨン伯 3月10日16時25分

    『トルコのもう一つの顔』持ってます!読みました!
    クルドを含む少数民族に対するトルコ政府と多数派国民の態度はこの本のおかげで漠然と知っていたつもりです。
    ただ本文にある通り内容が「あまりにも衝撃的」で、小島氏のお名前をほかでお聞きする機会も不勉強にしてなく、どこまで本当なのかとすら思っていました(申し訳ない)。
    東京新聞のおかげで著者さんと再会(記事内で)するとは……感無量です。
    ひろゆき氏とのやりとりも初めて知りましたが、これも本文通り「ほんの小さな出来事」ですね、くだらない。素人相手にご苦労様でした。

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