夜が遅い時間に槍が空気を穿つ音や、回転させて空気がうねる音が断続的に響く。夜空に昇る月光を頼りに空間を把握し、動き回りながら彼は槍を振るい続ける。
寝静まった『黄昏の館』で彼は槍を振り続けた。まさに、一心不乱といった様子で槍を振るう姿には、とても無理をしているようには見えない。彼からすればこの鍛練は既に慣れたものなのだ。
だが、そんな特訓風景を知っている者は一定数存在している。二階の屋内からその姿を上から眺めながら、彼女はまるでその光景を見守るかのように見続けていた。
「アキ、寝ないのかい?もういい時間だよ」
「……団長」
背後から現れたその人物にアキは微かに驚く。だが、それが誰であるかが分かればすぐに抱いていた動揺が無くなった。金色の髪にいつもよりもラフな格好をしたその姿を晒しても、溢れるカリスマを誤魔化すことなどできはしない。
窓から射し込まれる月光に照らされて、団長のフィン・ディムナが彼女の側へ現れた。
他でもないロキファミリアの団長であるフィンならそんな登場もあり得ると思ってしまうのは、彼を並ぶものがいない冒険者であると認識しているからだろうか。
だが、そんな彼を前にしても黒猫は畏まるどころか、まるで咎めるような顔をする。
「……団長はラウルを注意しないんですね」
「規律違反をしている訳でもないからね。自主訓練を禁止してしまうと、このファミリア全体の意欲を削いでしまう結果となる。それこそ、翌日のダンジョン攻略に支障がでないのなら僕から言うことは何もないよ」
フィンに懸想するティオネはその姿にトキメいただろうし、他の団員なら目の前にいきなり団長が現れれば緊張をするのだろうが、アキはフィンに対しても一切物怖じをすることはない。
彼女の優先する相手は目の前の男ではなく、今も人知れず強くなろうと足掻き続けているあの青年なのだ。
「ラウルは今日も市壁の上で一人鍛練をしていました。昔から血豆が潰れようとポーションを掛けて無理やり治して、何時間も武器を振り続ける。
自分はみんなより劣っているからって……これも全部、団長のあのときの判断が原因だと思います」
睨むような視線と共に発せられるその痛烈な批判に、フィンは苦笑を浮かべる。彼女からのその言葉に叱責の言葉を言うことができないのは、彼自身も反論する
「何度考えてもあの判断が正当なものだとは思えません。あのときのラウルはあそこにいた誰よりも優れていたのに……」
「耳の痛い話だ。十人がいれば十人が同じことを言うと思う。けれど、あの時のあの決断が彼の原動力になっていると僕は信じている」
ラウルは踊るようにヒュンヒュンと、槍を手元で回転させて自由自在に操作する。その動きを見たものはラウルが隠していた才能に驚くかもしれないがアキは知っている。
それが、何度も何度も失敗を繰り返して一歩ずつ成長して身に付けたものだと。
「あの槍の扱いはラウル自身で身に付けたものだ。僕が教えた技術も身に付けてはいるけれど、僕の槍術は僕の背丈に合わせた
槍の長さが僕の身長よりも長い以上は、今のラウルのように身体全体を使っての取り回しは物理的に不可能だ。
あれは、ラウル自身で思い付いたものと他の冒険者の槍術を見て学んだものさ。これほど、貪欲に強さを求めるのは今のラウルだからこそだと僕は思ってる」
アキに向けられるその目に嘘は見えなかった。けれど、それでもアキの胸の内から溢れる不満は止まることはない。
それを察してフィンは固執せずにすぐに引き下がる。
「とはいえ、ラウルの無茶を誰よりも見てきた君からすれば納得できないのも無理はない。
これ以上何かを言っても君の機嫌を損ねてしまうだろうから、僕は退散させて貰うよ。君も早く眠るといい」
颯爽と去っていくその姿は逃走ではなく、聞き分けのない子供を気遣っての行動に思えてアキは不機嫌になる。
だが、気にするべきは去っていった人間ではない。アキは視線を元に戻し、今度は双剣に持ち変えて鍛練する姿を眺める。
彼は朝の9時から昼の3時までダンジョン探索に赴きその後は事務作業か団員達と特訓。
さらに、深夜の零時から深夜の一時まで隠れて特訓して、朝の六時から7時までこれまた隠れて朝練。
そのような生活をしながら睡眠時間が五時間という極限状態を続けており、普通ならばとっくの昔に倒れていてもおかしくはない。
「……それを入団してから続けることができているのは、ラウルの飛び抜けた覚悟によるもの。あんな生活……普通ならとっくに潰れてるのに……」
ラウルには英雄になる才能は無い。それは【スキル】も【魔法】も一切発現していないことから誰から見ても明らかだ。
それは神々より与えられた【
神々はもちろん、オラリオに住む人々も誰一人として彼が英雄になるだなんて思ってはいない。そして、そのことを誰よりも理解しているのはラウル自身だ。
「ラウルは努力し続けてる。アイズはもちろん途中入団のティオナやティオネみたいな自分よりも年下の子達が、自分のレベルを超えていったり自分の成長よりも早く成長していく姿を見続けているのに、ラウルは腐ることなんて一度もなかった」
アキからすればラウルのそういうところは理解しづらい部分だった。だって誰もが英雄譚に語られる英雄になりたくて冒険者に夢を見るのだから。
まるで自分が物語の端役であり、ロキファミリアという組織の歯車でいいかのような価値観は、アキからすれば信じられないものであったのは紛れもない事実だ。
「でも、ラウルは足掻き続けた……ううん、足掻き続けてる。英雄に、主人公になれないって分かっても、それでも冒険者を続けてるんだ。
鍛練を誰にも見せないようにしてるのも、きっと諦められない理由があるからだと思う」
誰にも褒められることがなく、一人黙々と続けることほど難しいこともない。
例えば、それがラウルにとって好きなことなら、続けられることはおかしくないとアキは思うが、一度尋ねたところ『鍛えることは辛くて嫌いっすよ?』なんて言っていたのだから、始末に終えない。
「せめて、私にも付き合わせてくれればいいのに……」
体力的に最後まで付き合いきれるかは分からないが、一声掛けてくれればとアキは思う。
それこそ、ラウルは毎回すっとぼけてアキの尋問をのらりくらりと躱している。それについて、相棒として腹が立っても仕方がないことだ。
アキは一度その場を離れて水を二人分用意する。鍛練が終わったあとに何食わぬ顔で水を差し出せば、ぎこちない作り笑顔で取り繕って弁明したあとに水を受け取る筈だ。
それを今まで共にした時間で知っている。
「全く、ラウルは世話が焼けるんだから」
顎を伝って吹き出た汗が『黄昏の館』の芝生に染み込んでいく。それを視界に捉えながら、大剣を地面に突き刺して荒くなった息を整えるために深く息を吐いた。
「……クソッ、全然足りない……!もっと、もっと強くならないと、話にならない……ッ!」
たった一時間、されど一時間だ。その一時間で昼間の鍛練でしたことを思い出しながら全力で武器を振る。
型を念入りに繰り返し行い不足があれば念入りに確認しながら再び振るうことの繰り返し。それを別の武器で十分ずつやるだけの時間だ。
「……分かってたけど市壁の上で一人でやる鍛練と比べてできることが少ない。
ダンジョン帰りで一人でやっているから、他の団員達は娼館に行ってると思ってるみたいだし……。
まあ、好き勝手やれて楽なんだけどさ」
彼が一人の時に行う鍛練は型の練習もあるが、戦う相手をイメージしながらの練習に最も取り組んでいる。そして、幸いなことにイメージする相手には困ることはない。
「ロングソードの相手はアイズ・ヴァレンシュタイン、双剣の相手はベート・ローガ、大剣の相手はティオナ・ヒリュテ、肉弾戦はティオネ・ヒリュテ、槍はフィン・ディムナ、斧と盾はガレス・ランドロック、格上との立ち合いなら幸運にも恵まれてる。
脳内に自然と思い起こせるまで記憶してるのに……何度やっても十手後に完封されて死ぬ」
しかも【スキル】も【魔法】も無しでという前提条件があってであり、レベルが二つ上のフィンとガレスに至っては手加減して貰わなくては一撃で吹っ飛ばされて終わりだ。
そもそも、『Lv.4』で【スキル】も【魔法】も発現しないなどまずありえない。
それは『Lv.2』ばかりのヘスティアファミリアの眷属の全員が、何かしらの【魔法】や【スキル】を持っていることからも明らかだ。
そのためラウル・ノールドはそのハンデを、全てこの身体一つで補う必要がある。
「一つの武器を極めて格上を打倒するような才能はラウルには存在しない。あらゆる武器をその場その場で適切な運用する器用さにこそ、ラウルが唯一他と違う点なんだから」
ラウル・ノールドが唯一他の冒険者よりも優れている点は、『器用有能』と言われるほどに、様々な事柄において
「朝練……昼のダンジョン攻略……そして夜練……、クソッ、時間が余りにも少な過ぎる……!」
ロキファミリアはあの弱者に厳しいベート・ローガが所属しているファミリアだ。
もし彼が拘る武器を持たず分不相応に、様々な武器に手を出す格下の雑魚を一目見たのならば、『雑魚の癖に一丁前にオールラウンダーでも気取ってんのかテメェは?』などと言われてボコボコにされるのは目に見えている。
全ての武器を100%引き出すことができなければ決して認められることはなく、何か一つに絞れと言われてしまうのは余りにも自然なことだった。
「【
なら、きっとラウルにはそういった戦う器用さがあるのは間違いない。このまま限界までラウル・ノールドの可能性を拡げ続けろ……!」
だが、こんなに長い鍛練で身に付けたものを天才は軽々と超えていく。そしてそれは彼もそうだ。
「……だけど、まあ、主人公は全く使ったことがない大剣をその場で自由自在に扱うんだから、ラウルとはマジで格が違うんだろうなぁ」
ナイフ使いのベルくんが二刀流をすぐに習得したのも凄まじいが、ミノタウロス戦で間合いも型も全く違う初見の大剣を、ああも自由自在に扱うのは最早意味が分からない。
俺が何十時間も費やしてようやくできることを、その場の思い付きと勢いで平然とやってのけたのだ。最早笑うことしかできない。
「初期性能が違い過ぎるってのは……分かってはいるけど理不尽極まりない。幾らなんでも無慈悲過ぎないか……?」
芝生の地面へ大の字に倒れる。疲労はしたが体力の限界というわけではない。『Lv.4』のステイタスは伊達ではなく少し休めば体力はすぐに戻る。倒れているのはどうしようもない現実からだった。
「アイズさん、ティオナさん、ティオネさん、ベートさんが遠征の度に、俺の目の前でとんでもなく強いモンスターを薙ぎ倒すところを見続けると……、流石にその才能の違いに溜め息を吐きたくなる。
これだけやっても、全く近付かないどころか離され続けるなんて、本当にどうしようもないなこの世界は……」
自分にできる限りのことはやってきたつもりだ。
現代で生きてきた価値観や生活を一変し、ラウル・ノールドのまま強くなることを目的として頑張ってきたのだが、一番になれないことはもちろん
そしてこの先にあることに対して、自分自身で乗り越えなければならない孤独感。
こうして度々全てを放り出したくなるが、逃げていい理由なんて結局は一つもないために、最終的には向き合わなければならない憂鬱感。
これは毎回行う全てを飲み干すための時間だった。
英雄になれない。主人公になれない。妥協ができない。甘えることができない。届くことがない。端役にしかなれない。強者になれない。物語で語られるような存在になるような器ではない。
ラウルでは……いや、俺では栄光を掴むことは不可能だ……。
「──でも、諦めないんやろ?」
「ッ!?」
その声に跳ね起きて後ろを見れば、赤髪をポニーテールにした糸目の女神がそこにはいた。彼女はこのロキファミリアの主神ロキ。
天界では悪神と怖れられた狡知の神であり、神の特権である人間の嘘を見抜くことはもちろん、神々の嘘さえ見破り自分のしたいことを自由に行う天界のトリックスター。
そんな神々の中でも一目置かれるロキは、俺に対しいつもの読めない表情をしながらも、僅かにその目を開けてどこか温かみがある視線を向けて口を開いた。
「【スキル】も無し、【魔法】も無し。いやー、こんな無い無い尽くしでよぉ腐らずにそこまで鍛練し続けてるもんやで自分。
ウチならとっくの昔に全て放り捨てて娼館通いになってるわ……いや、マジでな?」
「俺のみんなよりも劣ってるところばっかり言って心折るつもりっすか!?ロキっ!?
……というか、そんな奴ロキファミリアに居られる訳ないじゃないっすか。どうせ、団長に退団させられるのが目に見えてるっす」
「まあ、せやろうけど……それが分かってても心が腐ることはそう簡単には止められへん。アキやクルスなんかの二軍もそこら辺は思うところあるやろうしな?
だけど、他でもないラウルが諦めない奴やから逃げるに逃げ出せへんところもある筈や。
……あと、最初に言ったのはウチなりの最大限の賛辞やで?」
ロキが俺に向かってそう言うが、イマイチピンと来ない。原作のアキは確かにラウルの存在が精神的な支えとなっていたが、
「?……なんすかそれ?みんなが頑張ってるのはみんなが凄いからっすよ。
二人は獣人だしただの
逆に二人には迷惑を掛けっぱなしだ。原作のラウルならまだしも成り代わった俺では拙い部分が多すぎる。
今の今までどれだけ迷惑を掛けて支えて貰ったのか分からない。それこそ、俺がこれだけ時間を費やしてようやく二人に並べることができるようになったのだから。
──原作のラウルにも追い付いていない俺では、二人の精神的な主柱になれる筈がない。
「はぁ~~、……同じ『Lv.4』のラウルがこんな調子であの二人もほんま大変やなぁ。
……あぁいや、二人だけやのうてラウルと同じ『Lv.4』もそうやけど、他の全ての団員も気軽に弱音を吐けへんでこれは……」
「……んん?一人で急にブツブツと話し出してどうしたんすかロキ?」
「あぁー、なんでもない、なんでもない。まあ、ラウルの好きにしたらええわ。
その頑張りも全部ラウルがいつになっても全然教えてくれん『何か』が原因やろ?ウチとしても気になるけど個人のことやから深くは聞かん。好きにやりぃ」
「……うっす」
……あんれぇ?今までそこの部分を直接言わないで、嘘を言わないように濁してたんだけど、隠し事完璧にバレてるじゃんこれ。
えぇ……、そんな分かりやすいミスはしてなかったと思うんだけど、どこで確信持たれたんだ……?
一体何が原因なのか全く分からないけど、やっぱり天界のトリックスターは伊達じゃないってことか。やれやれと、頭を掻きながら負け惜しみのように夜空を見上げながら一人呟く。
「……まあ、
そのあと、アキが水を持って現れたため、今までしていた夜練を必死に誤魔化すことになるなんて、その時の俺は予想だにしていなかった。