夜風がそよぎ、屋根の上から見下ろすオラリオの夜景が、柔らかな灯火に照らされていた。
静かな夜。賑わう街の喧騒が遠く霞み、心地よい静寂が二人を包んでいた。
アリーゼは、隣に座るアゼルをちらりと盗み見る。
彼は何も言わず、ただ夜空を見上げている。
背後に響く夜のざわめきが心地よく、アリーゼは一度だけ目を閉じる。そして、何気なく口を開いた。
「……アゼルって、夜空を眺めるの好きよね」
何気なく言葉を投げると、アゼルはゆるく瞬きをして、ぼんやりと応じた。
「まあな」
「ふーん……月?」
アリーゼの問いに、アゼルは少しだけ目を細め、夜空を仰ぐ。
月と星々が澄んだ光を湛え、漆黒の天幕に散りばめられていた。
彼の瞳が何を映しているのか、アリーゼには分からない。
ただ、その横顔はひどく静かで、感傷すらないように見えた。
アリーゼはそっと息を吐く。
夜空を見上げる彼の横顔は、どこか遠い。
その距離感が、ほんの少しだけ寂しく思える。
(でも、私は知ってる)
彼が何を見ているのかは分からない。
けれど――彼の傍にいると、自分の心の在り方だけははっきりと分かる。
【
“想い”がある限り、私は強くなる――。
この力が生まれた理由も、どうして発現したのかも理解している。
「特別な誰か」を想う気持ちが根源となっていることも、疑う余地はない。
そして、その対象が――アゼルであることも。
どこにいても、何をしていても、漠然と“彼”の存在を感じられる。
彼が近くにいると、まるで心の奥に火が灯ったように力が湧き上がる。
彼を思うだけで、胸の奥が熱くなる。
この力は、アゼルを求めた自分自身の心が生み出したもの。
ならば、私は――。
「……アゼル」
「ん?」
彼が何気なく振り向く。
夜の静寂の中、その横顔がすぐそばにあることに、アリーゼは胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
「ううん、なんでもない」
気持ちを吐き出せば、何かが変わるのかもしれない。
でも、今はまだ――。
だから、アリーゼはいつも通りの笑顔を浮かべ、そっと視線を夜空へ戻した。
煌めく星々が、まるで何かを語るように瞬いていた。
静けさが心地よくて、ずっとこのままでもいいと思うほどに。
――けれど、それは続かなかった。
ふと、肌を撫でる風が変わった気がした。
それまで一定だった夜の空気が、どこかざわついている。
遠くの喧騒が、不自然に一瞬だけ途切れ――
そして、すぐにまた戻る。
アリーゼは屋根の上に手をついて立ち上がった。
何か、妙だ。
胸の奥がざわつく――
その瞬間。
街の遠くで、突然、強い風が吹いたような感覚があった。
そして――
どごぉぉぉん!!!
耳を劈くような爆音が、静寂を破る。
遠く、オラリオの街並みの中で、小さな喧騒が広がっていた。
「……っ!」
アゼルと目が合う。
彼もまた、何かを察したかのように視線を鋭くする。
アリーゼの身体は既に動き出していた。
すぐに屋根の端へと駆け寄り視線を変える。
街の下――視線の先には、武器を手にした影が蠢いていた。
街角では、逃げ惑う人々の影がちらほらと見える。
血の匂いはない――だが、荒々しく扉を蹴破る音が聞こえた。
割れるガラスの音、誰かの叫び声。
そして、武器を手にした影が、街の灯りに照らされて浮かび上がる。
闇派閥の信者たち。
彼らは手近な建物を荒らしながら、目的もなく暴れているように見えた。
アリーゼは屋根の端からその光景を見下ろし、唇を引き結ぶ。
彼女は視線で周囲の状況を一瞬にして把握すると、瓦屋根を蹴り、 地上へと素早く飛び降りた。
「……あ?」
アリーゼの赤い髪が揺れるのを見た瞬間、闇派閥の一人が息を呑んだ。
「……【
驚愕に満ちた声が、夜の闇に響く。
「嘘だろ、何でこいつがこんなところに……!」
「チッ、聞いてねぇぞ……っ!」
明らかに動揺する彼らの様子に、アリーゼは僅かに目を細め――すぐに、くすっと笑った。
「あら、私も有名になったものね!」
明るく、楽しげに。
けれど、その瞳には微塵の油断もなかった。
視線の隅で、複数の信者が一斉に武器を構えるのを捉える。
人々の悲鳴が遠巻きに聞こえる中、アリーゼは軽く足を引き、剣の柄に手を添えた。
「で? そんな顔して、逃げるつもり?」
「チッ、やるしかねぇ!」
「囲め! 数で押せば――!」
掛け声と共に、闇派閥の信者たちが襲いかかる。
アリーゼはLv4。下っ端の信者達に遅れをとることはないだろうが相手の数が多い。流石に1人で被害を抑えるのには些か難しい状況だった。
――だが。
アリーゼの身体が、異様なほど軽かった。
驚くほど、速く動ける。
剣を握る手に、今までにないほどの力が漲っていた。
――アゼルが近くにいる。ただそれだけのこと。
疾駆する。
鋭く踏み込んだ瞬間、地面が微かに抉れる。
視界が流れる。
敵が武器を構える前に、すでに懐に入り込んでいた。
一閃――。
剣の腹が男の鳩尾に叩き込まれる。
一瞬の沈黙の後、敵がくぐもった悲鳴を上げ、地面に倒れ込んだ。
だが、その間にも背後から迫る気配。
振り向きざまに半身を逸らす。
敵の刃が、紙一重で頬を掠めた。
直後、アリーゼの瞳が、鮮烈に輝く。
無意識に身体が動いた。
敵の攻撃をかわし、剣を突き出す。
刃先が寸前で止まり、そのまま敵の武器を叩き落とす。
一瞬で三人――。
「くっ……!?」
敵の驚愕が聞こえた。
……いや、聞こえる余裕すらあった。
(凄い……)
今までの戦いと違う。
速さも、力も、精度も――すべてが桁違い。
明らかに自分のステイタスが補正されている。
【
アゼルが近くにいるからこそ、私の力が引き上げられている。
自分の意識が異様なほど研ぎ澄まされていた。
敵の動きが、読める。
次に誰がどこから襲いかかるか――まるで、見えているかのように。
それはステイタスだけではなく直感までも。
それほどまでに自分にとってのアゼルの存在の大きさを自覚する。
だけど今は、この戦いを終わらせるだけ。
――あと五人。
アリーゼは、迷いなく足を踏み出した。
刃の舞が、闇を切り裂く。
風を斬る音が響く。
一人の敵の懐へ、一瞬で踏み込む。
剣の柄を強く握り、地を蹴る。
残像すら残さない速度で背後に回り込み、振り向く前に膝裏へ鋭く蹴りを入れる。
「ぐっ……!」
敵がバランスを崩す。
追撃の必要すらない。
転倒する前に、別の敵の動きが見えた。
(右、上段――)
先読みした瞬間、自然に剣が動いていた。
ガキィンッ!
激しい音を立てて、敵の剣を弾く。
「っ……!?」
驚愕に目を見開く敵の隙を突き、逆手で突きを繰り出す。
空いた腹部へ、的確に打ち込むと同時に、体勢を崩させる。
(あと三人)
足を止める暇などない。
視界の端に、魔法の詠唱を始める敵が見えた。
詠唱――させない。
最短距離で距離を詰める。
その一瞬、彼は自分の死を悟ったのか、絶望に染まった顔を浮かべ――
「ぐぅ……っ!!」
地面に叩き伏せられた。
残る二人も、逃げる暇はない。
背を向けた瞬間には、アリーゼの影が彼らを捉えていた。
足払い。
後方へ転倒したところを、一気に抑え込む。
「……終わりね」
闇派閥の信者たちをすべて片付け、アリーゼは剣を鞘に収めた。
辺りを見渡すと、街の被害はほとんどない。
住民たちも無事だった。
ちょうどその時、鎧が擦れる音が聞こえた。
「【
ガネーシャ・ファミリアの団員たちが駆けつけ、倒れた闇派閥の残党を拘束し始める。
アリーゼは彼らをちらりと見やり、軽く手を振った。
「後の処理は任せるわ」
そう言い残し、軽やかにその場を後にする。
戦闘後の疲労感はほとんどない。
むしろ、身体の奥に残るのは、妙な昂揚感だった。
(……アゼルが、近くにいるから?)
彼が傍にいる。
それだけで、自分はどこまでも戦える気がした。
自然と口元が綻ぶ。
彼がいるだけで、私は強くなれる。
それが誇らしく、そして――どこか嬉しくもあった。
けれど、その思いの奥底に、小さな影が差し込む。
二日後の作戦に彼はいないし、巻き込みたくない。
屋根の上に戻ると、アゼルが相変わらず夜空を見上げていた。
何事もなかったかのように、ただ静かにそこにいる。
その姿を見ると、不思議と落ち着く。
「強くなったな」
夜風に乗せて、ぽつりとアゼルが呟いた。
アリーゼは微笑み、胸を張る。
「当然よ! ……でも、アゼルのおかげもあるわね」
そう言いながら、彼を見上げる。
アゼルは少し目を細め、ゆるく肩をすくめた。
「俺は何もしてないが」
「ふふっ、謙遜しなくていいのよ? だって本当に、戦ってる間に感じてたんだから」
その言葉に、アゼルは何も言わなかった。
ただ、夜空を見上げる彼の横顔は、どこか遠い。
アリーゼはその隣に座りながら、ふと視線を落とした。
そう、二日後のことを考えると、途端に胸がざわつく。
「……アゼル」
「ん?」
静かな夜に、アリーゼの声が落ちる。
彼の隣にいると、いつもなら言えない言葉が、自然と口をついて出る。
普段は団長として、誰よりも前に立たなければならない。
不安や迷いを、仲間の前では見せることができない。
でも、アゼルの前なら――
「私……さっきの戦い、アゼルがいたから治められた」
そう言いながら、手のひらを開いて、そっと握る。
その感触は確かに残っている。力強さも、迷いのない動きも。
「でも、次は違う」
胸の奥がざわつく。
言葉にすることで、よりはっきりとした不安になる。
「今回の襲撃は雑魚ばかりだったけど、本番は違う。強敵が相手になるのは確実…」
アリーゼは、自分で口にしながら、改めて実感する。
今までは、戦いが怖いなんて思ったことはなかった。
けれど、次に控える戦いは違う。
なぜなら、守るものがあるから。
神、仲間、オラリオの人々――。
そして――
「もし、私がみんなを守れなかったら……って、思うと……」
言葉が途切れる。
それを最後まで言うのは、怖かった。
そんな弱音を吐いてしまったら、崩れてしまいそうで。
でも、アゼルは静かに、いつものように話を聞いていた。
それだけで、少しだけ気持ちが楽になる。
「ねえ、アゼル」
「……」
「私、ちゃんと戦えるかな」
不安を吐露した後、アリーゼはふとアゼルを見上げる。
彼は、ただ夜空を見つめたまま、静かに口を開いた。
「お前なら、大丈夫だ」
迷いのない声音だった。
「……どうして、そう思うの?」
アゼルは短く息を吐き、ふとアリーゼへと視線を落とす。
「お前は強い。 それだけだ」
簡潔な言葉。
けれど、それだけで十分だった。
――アゼルにそう言われると、本当にそんな気がしてしまう。
「……そっか」
アリーゼは、少しだけ笑う。
不安を抱いていたはずなのに、その一言が胸に落ちると、自然と力が湧いてくる。
「なら、頑張らなきゃね」
言いながら、彼の隣にそっと座り直す。
また、いつもと変わらない、穏やかな時間に戻っていく。そう思ってアゼルに笑顔を向けようとした。
そのとき、アリーゼの中に胸の奥にわずかなざわつきが広がる。
それは、言葉にならない違和感。
気のせいかもしれない。
けれど、アゼルの視線は、いつもとどこか違って見えた。
彼はただ静かに、月を見ている。
それだけのはずなのに――。
この時、どこか、触れられない距離を感じてしまった。
「アゼル?」
アリーゼは、思わず声をかけていた。
彼はゆっくりと瞬きをし、一度視線を落とす。
そして、再び夜空を仰ぐと
ふっと、静かに微笑んだ。
その笑みは――まるで仮面のように。
「ん?」
「……なんでもないわ」
小さく首を振り、笑って誤魔化す。
自分が疲れているだけだろう――そう思うことにした。
けれど、その微かなざわつきは、心の奥で静かに燻り続ける。
それを振り払うように、アリーゼはもう一度、夜空を仰いだ。
月が静かに輝いている。
澄んだ光が夜を満たし、すべてを優しく照らしているはずなのに――
その光を映すアゼルの瞳には、暗く深い闇が宿っていた。
◾︎
ロキ・ファミリアの団長フィン・ディムナの指揮のもと、周到な準備を経て帰討作戦が決定された。
決行は二日後。オラリオ全土に広がる闇を切り裂くための一手。
その報せは、静かな星屑の庭にも影を落としていた。
庭に差し込む月光の下、神アストレアとアゼルが向かい合う。
微かな風が庭を通り抜け、花々を揺らす。漂う香りが、夜の空気を柔らかく染めていた。
「こうして二人で話すのも久しいな。いや、あんたらにとっちゃ一瞬かもしれんが」
アゼルが軽く肩をすくめながら呟く。
アストレアは目を細め、小さく微笑んだ。
「そんなことはないわ。私たち神に“寿命”という概念はないけれど……この下界で、あなたたちと共に過ごす刻。それは間違いなく“時間”よ。特にこの七年間は、私にとって――特別なものだった」
アゼルは彼女の言葉に、一瞬、目を伏せる。
静かに息をつき、やがて顔を上げると、鋭い視線でアストレアを見据えた。
「……話とはなんだ?」
アストレアの表情が引き締まる。
真っ直ぐな瞳が、アゼルの目を捉えた。
風が止まる。
庭を包む静寂の中、張り詰めた空気が漂う。
やがて、アストレアは静かに、けれど確かな意志を込めて言葉を紡いだ。
「アゼル、あなたの“正義”は何?」
静かに投げかけられた問い。
その瞬間、アゼルの眉がわずかに動いた。
彼は短く息を吐く。
少しの間、沈黙が落ちる。
そして――
肩を震わせると、低く喉を鳴らし、やがて笑い出した。
「……正義か」
ぽつりと呟いた後、心底愉快そうに吹き出す。
「俺が問われる側になるとはな」
笑い声にはどこか自嘲の色が滲む。
その響きは、どこまでも乾いていた。
だが、アストレアは微動だにしない。
静かに、真っ直ぐに、アゼルの瞳を見つめ続ける。
やがて――
笑いがぴたりと止んだ。
空気が変わる。
アゼルの雰囲気が、一瞬で一変する。
ただならぬ静けさ。
研ぎ澄まされたような、神秘的な気配。
彼の眼差しは、まるで――
遥か彼方を見据えているようだった。
「俺に正義はない」
アゼルは、まるで当たり前のことを口にするように言った。
淡々とした口調。
何の感情も乗せられていないはずなのに、その言葉はどこか、深い影を帯びていた
アストレアは微かに目を細め、彼を見つめる。
その静かな瞳には、穏やかでありながらも決して揺るがない意志が宿っていた。
「……それだけじゃ納得いかないわ」
夜風がそっと二人の間を通り抜ける。
アゼルは無言のまま、少しだけ視線を落とした。
「あなたは今まで、何度私たちを助け、支えてくれた」
静かに、けれど確信を持ってアストレアは続ける。
「だからこそ今、あなたについて聞きたい」
どこか迷いのない、真っ直ぐな言葉だった。
その言葉が、アゼルの心にどう響いたのか――彼の表情は読めない。
ただ、夜の静寂が二人を包み込む中、彼は微かに息を吐いた。
そして、ほんのわずかに、口元が歪む。
「――光を繋ぐこと」
ぽつりと、呟くように。
それは、誰かに聞かせるための言葉ではなく、
ただ、彼自身の中にあるものを零しただけのようにも思えた。
アストレアは瞬きをする。
彼の横顔は月の光に照らされているが、
その表情は、どこか掴みどころがない。
「……お前が求めている解答かは知らないし、正義だとも言わない」
静かな声音。
どこまでも淡々としていて、それでいて重い。
「だが――俺のあり方を言うならば、これか」
夜風が吹く。
「光を繋ぐ……?どういうこと?」
アストレアの問いに、アゼルは少し目を伏せた。
口元に浮かぶのは微かな笑み――だが、それはどこか皮肉めいていた。
まるで、その言葉に真意を問われることすら滑稽だと言わんばかりに。
「光……それ自体に意味なんてない。ただ、必要なことだ」
淡々とした声音。
感情の起伏すらないその口調に、アストレアは眉を寄せた。
「……“必要”?」
アゼルの視線が夜空を滑る。
「光は、何かを照らすためにある」
淡々とした声音が、夜の静寂に溶けていく。
「それが希望だろうと、絶望だろうと――光そのものの価値は変わらない」
その言葉に、アストレアの指がわずかに動く。
「光は、誰かにとっては救いになり、誰かにとっては呪いにもなる」
「それでも――俺は、光が必要だと思った」
アストレアはアゼルの言葉の真意を掴みかねていた。
その声には確かに揺るぎない意志が宿っている。だが、それが何を意味しているのか――。
「それは、あなたがその光を“誰か”のために繋いでいるから?」
問いかける声には、探るような色が滲んでいた。
アゼルはふと目を細め、どこか遠くを見るように夜空を仰ぐ。
「どうなんだろうな」
アゼルの返答はひどく曖昧だった。確たる答えを示すこともなく、ただ空へと視線を流す。
それなのに――。
言葉とは裏腹に、彼の声には揺るぎない意志が宿っているように聞こえた。
確かな答えを語ることはしない。だが、それでも「光を繋ぐ」と言い切る。
その矛盾が、アストレアにはどうにも理解できなかった。
なぜ、そこまでこだわるのか。
なぜ、そこまで光に執着するのか。
アストレアが問いかけるよりも先に、アゼルは微かに息を吐く。
まるで、自嘲するように。
「光に魅入られてしまったから」
どこか遠い記憶をなぞるように、淡々とした口調で。
「そして、それを俺が背負うべきものだと思った」
夜風がそよぎ、庭の花々を揺らす。
アゼルの言葉が、その風に紛れてしまいそうなほど静かだった。
「だからさ、止まる気はないんだ」
その言葉の裏にあるものを感じ取り、アストレアは沈黙する。
彼の横顔はどこまでも穏やかで、それがかえって彼の決意の強さを物語っていた。
(アゼル……あなたは……)
言いようのない予感が、アストレアの胸を締め付ける。
何か――何かが、彼を違う道へ導こうとしている気がした。
それでも、彼が紡ぐ言葉の一つ一つからは、揺るぎない意志が感じられる。
アゼルについて、アストレアが知ることはほとんどない。
彼の出生も、所属も、歩んできた過去も――全てが謎に包まれている。
だが、それでも彼女は見てきた。
どんなときも自らの意志で動き、時に冷徹に、時に誰よりも優しく人を導く姿を。
だからこそ――。
「私はあなたを信じるわ」
静かに、けれど揺るぎない意志を込めて告げる。
その瞳には、彼女がこれまでアゼルと共に過ごしてきた時間の全てが宿っていた。
何も知らなくとも、彼の選択を信じる理由は十分にあった。
風がそよぎ、庭の花々を揺らす。
夜の静寂が二人を包み込む。
アゼルは短く息を吐き、ゆっくりと目を伏せる。
「……そうか」
物憂げな表情を見せながら、それだけを呟く。
たったそれだけでも、まるで、長く閉ざされていた扉がわずかに開いたかのような感覚があった。
アストレアは微かに微笑み、そっと夜空を仰ぐ。
確かにこの場には、言葉にできない何かが芽生え、胸の内にあった違和感が消え去ろうとしていた。
そして、その瞬間だった。
――空気が死んだ。
「――光の果て」
静寂が、砕かれる。
「――お前たちを灰燼に変えてしまってもか?」
夜の色が変わる。
風が止まる。
世界そのものが、冷たく閉ざされるような錯覚。
今まで決して見せたことのない、圧倒的な威圧感がアゼルから放たれる。
これまでただの青年として静かに佇んでいた彼が、一転して“強者”として場を支配した。
辺りを包む空気が、凍りつく。
それは、見えざる刃のような威圧。
肌を刺すような冷たい緊張が、空間そのものを支配していた。
アゼルの姿は何一つ変わらない。それでも、彼の周囲には目に見えぬ圧力が満ち、
それは見る者すべての本能を震わせる、理不尽なほどの存在感が発せられる。
アストレアは無意識に息を詰めた。
目の前のアゼルは、彼女が知る“彼”とは決定的に異なる存在だった。
「……アゼル……あなたは……」
アストレアの声が、微かに震える。
そしてアゼルの瞳がわずかに細められる。
「神だからこそなのか……お前は、俺のことを警戒するべき存在だと気づいていたんだろう」
淡々とした声音。しかし、その言葉は核心を突いていた。
アストレアは理解していた。
理性では、彼が“何者か”を警戒しなければならないと。
彼の素性は何一つ明らかではない。
闇派閥には、何年もの間、一つの使命のためだけに潜伏し続ける者がいることも知っている。
ましてや、神としての直感も、彼の存在には得体の知れない違和感を感じ取っていた。
それでも――。
「……それでも、私は……」
アストレアの言葉が、一瞬だけ途切れる。
理性と感情が交錯する。
警戒するべきだと知りながら、それでも彼を信じたかった。
下界で共に過ごしてきた時間が、彼の在り方が、信じるに足るものだと思えたから。
「私は……あなたを信じたいのよ」
静かに、けれど確かな決意を込めた言葉。
それは、神としての直感に逆らい、ただ人として、彼を信じる選択だった。
アゼルの目が、わずかに細められる。
その視線の奥には、深い洞察と――僅かな悲哀が混じっていた。
「信じるか……」
ぽつりと呟く。
「それもまた、お前らしいな」
彼の口元に浮かぶ笑みは、皮肉にも、寂しげにも見えた。
アストレアの胸が、僅かに締めつけられる。
思わず、彼へと手を伸ばした――
「アゼル……!」
だが、その手が触れる前に。
アゼルの輪郭が揺らぎ始める。
次第に全身が黒い影のように染まり、
霧が消えるように、その場から溶けていった。
まるで、初めからそこにいなかったかのように。
アストレアの指先が空を切る。
差し出した手は何も掴めず、ただ、虚空に取り残される。
虚しさが胸を満たした。
風がそっと彼女の手を撫でるように通り過ぎるが、
その風は何も告げることなく、
ただ庭の静寂を、より深くするだけだった。
ゆっくりと手を下ろし、握りしめる。
指先は、微かに震えていた。
「……アゼル……」
その名を口にする彼女の声は、夜の闇の中に溶けていく。
届くはずのない声。
それはただ、静かに消えていった。
胸の内で渦巻くのは、彼を信じたいという願いと、拭えない疑念。
そして、彼に届かなかった手が象徴する、取り返しのつかない距離。
星屑の庭には再び静寂が戻る。揺れる花々の微かな音だけが、彼女の孤独を際立たせていた。