迫りくる宴、追憶の旅路
「ギルドの『内通者』から報告が入った」
それは──
冒険者たちの作戦会議が終了した、ちょうど五時間後のことだった。
「敵の『掃討作戦』は……三日後」
薄闇に包まれた広間に、紙を小さく折りたたむ音が響く。
それを手にした男、オリヴァス・アクトの口元がつり上がる。
そこは忘れ去られた廃墟の奥まった空間のようでもあり、冷え冷えとした迷宮の一角のようでもある場所だった。
そこには、陰影を纏った複数の人影が存在していた。
「ハハッ、でかしたぜ! あの女! 闇派閥の『信者』様々ってなぁ!」
膝を打つように笑い声を上げるのは、ヴァレッタ・グレーデ。
自分の『策』が結実したことを確信し、不敵な笑みを刻む。
「敵の懐にもぐり込ませてから何の報告もさせねえ、一度っきりの『密告』。五年前から仕込んでた甲斐があったぜ」
「ここぞという時まで使わず、長年潜伏させておくとはな。随分の気の長い話ではないか」
オリヴァスは、ヴァレッタの計略に舌を巻く。
「ば~か。ここぞって時に切るから『切り札』っつうんだよ。ましてや、フィンはもとより神々を出し抜くんだ、怪しい真似して目をつけられた時点で、嘘なんて見抜かれる。なら目につかねえほどコソコソさせるしかねぇだろう。その時までな」
美酒に酔うように語っていたヴァレッタは、そこで一転、鋭い眼差しを奥の闇へと向けた。
「それよりも、てめえの主神はどこに行った? 『計画』の発起人だろうが」
彼女が言及するのは、『邪神』の一柱。
それは彼女をして驚愕させ、震撼させ、そして──昂ぶらせた。
『邪悪の化身』そのものに違いない存在だった。
だが、己の主の所在を問われた男は、わずかに影を揺らすのみで、何の反応も示さない。
闇に溶け込むように佇み、ただ淡々と沈黙を貫いた。
「ちッ、黒幕は黒幕らしく王座の上で踏ん反り返ってやがれ。……まぁいい」
舌打ち混じりに、しかし笑みを浮かべるヴァレッタは、軽く手を振って奥の闇へと呼びかける。
「──つぅーわけだ。『宴』は三日後。準備をしといてくれよ? 『本当の切り札』さん方よぉ」
すると、薄闇の奥で何かが蠢いた。
立ち上がる影が二つ。
一つは、見上げるほどの体躯を持つ巨漢。
もう一つは、
紛れもなく、冒険者たちが警戒を払う謎の存在たちだった。
「細かいことは関知せん。その時になったら呼べ。どうせこの身は戦場でしか役に立たん」
ヴァレッタの呼びかけに応じたのは、巨躯の影だった。
低く響く声は、まるで腹の底を揺さぶるかのような威圧感を放つ。
はっきりと次元の異なる存在に、オリヴァスは愉快そうに笑う。
「フハハハハ、百を語らず一刀のみで存在を証明する戦餓鬼か」
「てめえ等がいねえと話にならねえからなぁ。
あの出鱈目な猪野郎と、道化の連中をブッ潰して──」
ヴァレッタが機嫌の良さを滲ませた、その時だった。
「──五月蠅い」
全てを断ち切るような静かな声。
「……は?」
「耳障りを通り越して、汚泥そのものだ」
声の主──漆黒の髪の影は、感情の欠片すら見せずに言い放つ。
「気分が悪い。吐き気がする。悪臭さえ感じる。すぐに口を閉じろ」
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気が凍りついたように感じられた。
面食らうヴァレッタに対し、黒髪の男の侮蔑は止まらない。
害虫にでも向けるような忌避の指弾に、瞬く間にヴァレッタの顔が真っ赤に染まる。
「こ、このぉ……!」
怒りに燃え、今にも飛びかかろうとするヴァレッタ。
だが、黒髪の男はそれすら眼中にないかのように、冷たく言い放った。
「我々は粛々と利用されてやる。ならば貴様等も、黙って利用されろ」
その言葉に込められたのは、一つの明確な要求。
『余計な真似も、余計な面倒も増やすな』。
決して群れ合うつもりはない。
まるで、ヴァレッタたちを同類とさえ見なしていないような言葉だった。
「っ……」
ヴァレッタは歯を嚙みしめながら睨みを利かせる。
飛びかかっても、八つ裂きにされるのは自分の方だ。
だが、どうにも腹の虫が収まらない。
憤怒が沸き上がるのと同時に、ヴァレッタは無意識に足を半歩踏み出そうとした――その瞬間だった。
──視界が、回転した。
「……ッ!?」
彼女は錯覚した。
世界が歪み、目の前の光景がわずかに揺らぐ。
まるで、胴体が置き去りにされたかのような奇妙な感覚。
自分の首が跳ねられた、と。
否――本当にそうなっていたのかもしれない。
「…………っ!」
ヴァレッタは本能的に身を引いた。
首筋を這う冷気。
心臓を掴まれたような戦慄。
理解する間もなく、呼吸が止まる。
男は、動いていた。
ほんのわずか――指先が数ミリ、微かに傾いた。
ただそれだけ。
しかし、それだけで、ヴァレッタは己の死を確信した。
「…………」
時間が止まったような沈黙の中、漆黒の髪を持つ男は、ただ静かに佇んでいた。
一切の殺意も、敵意も、そこには存在しない。
ただあるのは、“確定された死”の余韻。
たった今、自分が殺されていた――。
そう確信してしまうほどの風格、気配、そして圧倒的な格の違い。
「っ……クソが……!」
ヴァレッタは僅かに震える指で、自らの首を撫でた。
斬られた感触はない。だが、いまだに首が胴と繋がっているのが不思議に思えるほど、幻肢のような感覚が残っている。
彼女は初めて、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
その場の空気が張り詰める中、ふと、軽やかな声が響いた。
「その辺りにしておけ。我々は既に同志。
目的はそれぞれ違えど、辿る過程を同じくする者なのだから」
協力すらままならない『悪』の者たちの間に、柔らかな笑みを浮かべて仲裁に入る。
その声の主は、オリヴァスだった。
「
あの狂戦士どもも舞い狂うというのなら、都市が災禍の炎に包まれることはもはや必定……」
くすんだ白髪を揺らしながら、男は歓喜すら滲ませて語る。
その瞳には、野望の成就を確信した輝きが宿っていた。
「ついに、我が主神の念願叶う時……オラリオの崩壊は、すぐそこだ」
◾︎
同刻、星屑の庭。
夜の帳が降りる中、星屑の庭は静寂に包まれていた。
微かに揺れる燭台の光が、穏やかながらも張り詰めた空気を照らしている。
アストレアは、アリーゼと輝夜からの報告を受け、物憂げに遠くを見つめた。
三日後の作戦のこと。
眷属たちの奮闘。
迫る戦いの中で、彼女の胸には静かな不安が渦巻いていた。
――勝てるのか。
――本当に、守りきれるのだろうか。
――彼女たちに、過酷な運命を背負わせてしまうのではないか。
女神として、迷宮都市を守護する神として、幾度となく試練を乗り越えてきた。
だが、それでもなお、戦火の中に立つ愛しき眷属たちを想うと、不安は拭えなかった。
そして、そんな思考の合間に、ふと入り込んでくる影があった。
──アゼル。
何故だか分からない。
彼はこの件に関係ないはずなのに、頭の片隅からどうしても離れることがなかった。
アゼルは【冒険者】ではない。
都市に縛られず、風のように流れるいわば旅人のようなものだった。
その生き方は、自由そのものだった。
──なのに、どうして。
いつも彼のことは心配だった。
それは女神としての庇護の情なのか、それとも……。
けれど、今抱いているのは、それとは異なる感覚だった。
胸がざわめく。
理由のわからない不安が、心の奥底で静かに波打っている。
考えすぎかもしれない。
だが、違和感がどうしても拭えなかった。
まるで、アゼルが“今”何処かで、自分が知らぬ場所へと踏み込んでしまったような。
そして、もう“戻れない”ところまで行ってしまうのではないかという、得体の知れない予感。
彼のことを想うと、なぜか胸が苦しくなる。
その正体を、アストレアは深く考えないようにしていた。
けれど、この胸騒ぎの理由がわかる時が来るのだとしたらそれは、きっと悪い知らせと共に違いない。
やがて彼女は、静かに目を閉じる。
遠き記憶に、心を遡らせる。
──アゼルとの出会いを。
◾︎
初めて下界に降り立ったその日は、私にとって忘れられない日となった。
座標がずれて、少し人里から離れた場所に降臨してしまった私は、星々の輝きを頼りに森を歩き続けていた。神としての力があっても、この地の地形や風習には不慣れだった。それでも、少しずつ進むうちに、ふと声をかけられた。
「そっちは行き止まりだ」
低く落ち着いた声が闇の中から響く。振り返ると、月明かりに照らされた
「驚かせたか?」
「いいえ、大丈夫。でも、どうして…」
私が問うと、少年は肩をすくめながら少しだけ答えた。
「なんとなく…な」
その答えは妙に物憂げでその雰囲気に圧倒された。
私は彼の言葉に従って別の道を進むことにした。
「あなた、こんな夜遅くに一人で何をしているの?」
歩きながら私が問いかけると、彼は少し考えるようにして答えた。
「……特に何かしてるわけじゃない。ただ歩いてるだけだ」
「歩くだけ?」
「まぁな。これでも少しは慣れてるんだ」
その言葉に、不思議な親しみを感じた。彼の落ち着いた態度と、それに反する幼い外見のギャップが、どこか特別な雰囲気を漂わせていた。
森を抜けるために少し休憩を取ることにした私たちは、小さな空き地を見つけて腰を下ろした。私は焚火を起こしながら、少年の横顔をちらりと見やる。
「あなた、名前は?」
「アゼルだ。で、あんたは?」
その言葉に私は少し迷いながらも、正直に答えた。
「アストレア。私は神よ」
アゼルは驚くでもなく、ただ「やっぱりな」と短く呟いた。
「どうして分かったの?」
「雰囲気」
そう言って、彼は焚火の炎をじっと見つめた。その視線には、年相応の少年らしさはなく、どこか遠くを見つめるような大人びたものがあった。
「アゼル、あなたにとって下界ってどんな場所?」
何気なく問いかけたアストレアの言葉に、アゼルはふと足を止めた。
夜風が静かに吹き抜ける。
一瞬だけ考え込むように瞳を伏せ、やがて淡々と答えた。
「……ただ、歩き続ける場所だ。」
アストレアは、その言葉の意味を測りかねて、彼の横顔を見つめる。
アゼルはどこか遠くを見ていた。
「どこへ向かって?」
問いかけると、彼は微かに目を細める。
笑みとも呼べない、けれど僅かに滲む何かを含んだ表情。
「さあな……だが、歩みを止めることは無い」
まるで自分自身に言い聞かせるように、低く、静かに呟く。
それは目的を持って進む者の言葉ではなかった。
ただ、止まることができない者の言葉だった。
無気力に、それでも前へ進むしかない者の声だった。
アストレアは、そんな彼の横顔に何かを感じずにはいられなかった。
「でも、こうして話をしていると、この下界も悪くないと思えるわ」
私が微笑むと、アゼルは少しだけ目を細めた。
「……なら、よかったな」
その短い返事には、彼なりの優しさが込められているように感じた。
その夜、アゼルと共に過ごした時間は、下界での私の第一歩となり、そして彼との出会いが、これからの運命を大きく変えていく――そんな予感が、静かに胸の奥に芽生えていた。
◾︎
「オラリオに行くつもりなんだろう?」
焚火の明かりが揺れる中、アゼルがそう言い出したのは出会って数日が経った頃のことだった。
「ええ、そうよ。どうしてわかったの?」
「オラリオに向かうやつはだいたいそんな感じだ。目的地がはっきりしてる目をしてるからな」
彼の言葉は不思議な説得力を持っていて、私は思わず小さく笑ってしまった。
「じゃあ、アゼルもオラリオに用事があるの?」
「……まあな。ちょっとした野暮用だよ」
それ以上聞くなと言わんばかりの言い回しだったが、私は気にせず笑顔を浮かべた。
「それなら一緒に行きましょう。道中、色々教えてくれる人がいると助かるわ」
アゼルはしばらく焚火を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
旅の間、私たちは様々な場所を巡った。小さな村で新鮮な野菜を買い込み、広い草原で風に吹かれながら食事を取ったり、夜の静かな湖で月明かりを眺めたりもした。
アゼルは寡黙だったが、子どもとは思えないほどの知識を持っていて、話をしているとどんなことでもよく知っているのが分かった。
「アゼル、どうしてそんなに色々知っているの?」
私が問いかけると、彼は少し考えるようにして答えた。
「特に理由なんてない。覚えたくなったから覚えただけだよ」
「覚えたくなったから、ね……」
その言い方が少し大人びていて、不思議な感覚を覚えた。
ある日、森を抜けた広い草原で休んでいた時のこと。
「アゼル、あなたって本当に不思議な子ね」
「どういう意味だよ」
「だって、あなたと一緒にいると不思議と安心できるの。危ない目に遭ったこともないし、何だか守られているみたい」
アゼルは少し困ったように視線を逸らしながら、短く答えた。
「偶然だよ。ただの運がいいだけだ」
彼の言葉にはどこか照れ臭さが混じっているように思えた。私はその姿に思わず笑ってしまう。
旅をする中で、私はアゼルの優しさに気づいていった。彼は不器用ながらも、私が疲れているときには休むように促し、水場を探すときには黙々と先導してくれる。言葉には出さなくても、その行動の一つ一つが私を気遣っているのが分かった。
そして、何よりも彼との時間が楽しかった。
私にとって下界での経験はすべてが新鮮だった。初めて見る風景、聞く言葉、人々の生活。アゼルはそれらを私に教えてくれる存在であり、共に旅をする大切な仲間になっていた。
オラリオが近づくにつれ、私はある想いを胸に抱くようになった。
(アゼルが私の最初の眷属になってくれたら、どれほど心強いだろう……)
彼が自分の過去や本心を語らないことには気づいていた。それでも、彼の優しさと強さを信じていた。彼のような存在が私の隣にいてくれたら――そんな願いが、静かに胸を満たしていった。
そんな想いを胸にしながら、ついに私達はオラリオに着いた。
広がる巨大な城壁、行き交う人々の活気、異なる種族が共に暮らすこの街――全てが私にとって新鮮で、心を躍らせるものだった。だが、それ以上に私を驚かせたのは、アゼルの行動だった。
「ここだな、あんたが住む場所」
彼が案内してくれたのは、オラリオの一角にある小さな家だった。どこか暖かみのある雰囲気の家で、私には十分すぎるほどだった。
「この家、どうして……?」
私が尋ねると、アゼルは少し困ったように目を逸らして答えた。
「住む場所ないだろ」
「あなた、いつの間に……?」
アゼルは少しだけ肩をすくめた。
「オラリオに来るって分かってたからな…」
その言葉に、私は感動を覚えると同時に、少し呆れてしまった。
「本当にお節介ね。でも、ありがとう、アゼル」
彼の顔に浮かんだわずかな照れ笑いを見て、私は自然と微笑んでいた。
家の中に荷物を置き終えた後、私たちは一息つきながら会話を交わしていた。
「ねぇ、アゼル」
私はずっと考えていたことを、ようやく口にする。
「あなた、私の眷属にならない?」
その言葉に、アゼルは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「悪いが、俺には向かないな。正義とか秩序を守る役割なんて、どうにも性に合わない」
彼の言葉に、胸が痛んだ。だが、彼が正直に答えてくれたことは嬉しくもあった。
「でも、私は……」
言葉に詰まる。彼が言った“正義”という言葉。それは確かに、私が司るものの一部だ。でも――それだけではない。
「私はただ、あなたと一緒にいたいと思ったのよ」
アゼルは驚いたように私を見たが、すぐに目を伏せて静かに答えた。
「ありがとな。でも、俺には俺のやるべきことがあるんだ」
彼の言葉には、どこか決意のようなものが滲んでいた。それが何なのかは分からない。でも、彼を引き止めることはできないと感じた。
「……そうね。それぞれの道があるものね」
渋々ではあったけれど、私は彼の答えを受け入れた。
それから、アゼルとは別れた。けれど、全く会わなくなったわけではない。
数ヶ月に一度、彼と顔を合わせるたびに、一緒に食事をしたり、何気ない会話を楽しんだりした。その時間はささやかなものだったけれど、私にとってはかけがえのないひとときだった。
(彼が私の眷属ではないのは、少し寂しいわ。でも、こうして繋がっていられるだけで十分幸せ……)
そう自分に言い聞かせるように思いながらも、胸の奥に小さな孤独が広がるのを感じた。
アゼルは相変わらず、自身のことを一切語らない。どんなに私がさりげなく聞き出そうとしても、彼はまるで壁を作るように、その話題を避けた。
「アゼル、あなたは本当に不思議な子ね」
そう私が言うと、彼は軽く肩をすくめただけで、答えなかった。それでも、彼がふと見せる穏やかな表情や、私を気遣ってくれる小さな行動が、私にとって何よりの救いだった。
彼の優しさは、言葉以上に伝わってくる。だからこそ、彼の過去や本心を知ることができなくても、彼を信じる気持ちは揺るがなかった。
(これが彼なりの生き方なのでしょうね……)
私は彼の無言の優しさを感じながら、静かにそう思った。
それから幾度か顔を合わせる中で、ある日、アゼルは燃えるような赤い髪の少女を連れてアストレアの元へ訪れた。緊張した面持ちで彼の後ろに立つ少女を見て、アストレアは思わず眉をひそめた。
「彼女は……?」
問いかけるアストレアに、アゼルは短く答える。
「アリーゼだ。この子を頼む」
その言葉に、アストレアは驚きとともに戸惑いを隠せなかった。アゼルが誰かを頼む姿を初めて目にしたからだ。そのために彼が訪れたのだと理解しながらも、目の前の赤い髪の少女――アリーゼの姿に目を留める。
少女の瞳には、迷いと決意が入り混じった光が宿っていた。その真剣な眼差しに、アストレアはふと微笑みを浮かべる。
「正義を志そうとする心を持っているのね」
その一言に、アリーゼの肩が少しだけ震えるのを見て、アストレアはさらに続けた。
「いいわ。あなたを――」
一拍置いて、彼女は柔らかな声で告げる。
「私の眷属として迎え入れるわ」
アリーゼはその言葉に一瞬戸惑ったようだったが、すぐに安堵と喜びが混じった表情を浮かべ、静かに頷いた。
だが、その後にアゼルが放った言葉が、アストレアの心をさらに揺さぶることになる。
「アリーゼの指導は俺が引き受ける」
アストレアは思わず目を見開いた。
「あなたが? どうして?」
「俺は恩恵を持っている。上層での立ち回りくらいなら教えられる」
その言葉に、アストレアの驚きはさらに増した。
「恩恵を……持っているですって?」
彼女は何度もアゼルと接してきたが、彼がファミリアに所属している素振りを見せたことは一度もなかった。それどころか、彼の中には何も見通せない“未知”があると感じていた。だからこそ、その言葉には戸惑いを隠せなかった。
「どこの神の眷属なの? あなた、一体……」
アストレアの問いに、アゼルはいつものように肩をすくめるだけだった。
「…そのうち分かるさ」
その答えはどこまでも簡潔で、彼の本心に触れることはできなかった。だが、不思議とその言葉には力があり、アストレアは追及するのをやめた。
アゼルの指導を受けたアリーゼは、次第にダンジョンでの立ち回りを身につけ、自立できるまでに成長していった。その後、アゼルは再び新たな少女を連れてきた。黒髪を持つ東国風の少女――輝夜だった。
「また……?」
アストレアが呆れ半分に問いかけると、アゼルは淡々と答える。
「この子も頼む。アリーゼと同じように」
輝夜の鋭い目つきにはどこか誇り高い気配があり、アストレアはその威圧感すら感じた。それでも、彼女が抱く何かを変えたいという熱い思いに気づき、またも眷属として迎え入れることにした。
アゼルは再び指導を引き受け、輝夜にもアリーゼと同じようにダンジョンでの生き方を教えた。やがて、二人はダンジョンで稼ぎ、自立して生活できるまでに成長した。
庭はアリーゼと輝夜が加わったことで賑やかになり、笑い声が絶えなかった。それを見て微笑むアストレアの胸には、彼女たちの成長を喜ぶ感情とともに、どこかもどかしい気持ちも芽生えていた。
彼女たちがアゼルに向ける感謝の眼差しや、彼に近づいて何かを相談する姿を見るたび、微かな嫉妬心のようなものが胸をかすめる。
(……気のせいよね)
その感情に名前をつけることができず、アストレアは一瞬だけ視線をそらす。それでも、すぐに笑顔を浮かべて二人の成長を見守った。
アゼルは二人が自立できるようになると、庭を訪れる頻度を減らしていった。それでも、時々顔を出しては、彼女たちに的確な助言を与え、時にアストレアと短い会話を交わして去っていく。
彼の存在が庭に影響を与え続けていることを感じながらも、その本心や過去を彼が語ることは一切なかった。
(あなたは本当に不思議な人ね……)
アストレアは胸の内で呟く。彼のすべてを知ることはできなくても、彼が残したものは確かに彼女たちの中に刻まれている。それが、彼の優しさであり、強さだった。
庭に広がる笑顔の中心にあるのは、間違いなくアゼルという存在だった。そして、彼がいなくなった庭で、ふと彼の背中を思い出すたびに、アストレアの胸には彼への感謝と、名前をつけることのない小さな感情が静かに広がるのだった。