嘲る神、嗤う悪
頭上は依然、晴れ渡っている。
青空に吸い込まれる人々の喜びの声が尽きることはない。
炊き出しの湯気とともに、食欲をそそる香ばしい匂いが広場に広がっていた。
ギルド主催の炊き出し。
その場には、貧民や労働者、旅人たちが列を成し、アストレア・ファミリアとロキ・ファミリアの冒険者たちがそれを手伝っていた。
アストレア・ファミリアの団員たちは人々に食事を配り、ロキ・ファミリアの冒険者たちは警備を兼ねて広場を巡回する。
──少なくとも、この場は安全であるはずだった。
「あぁ~~~~~~~~…………久々に晴れやがって、いい天気じゃねぇかぁ~」
通りの一角。
石畳に伸びる影の持ち主は、長外套を羽織った女。
中天に差しかかろうとする太陽を仰ぎながら、喉の奥で笑う。
「空にも祝福されて、きっといいことでも起こんだろうなぁぁ~」
感慨に浸るような、間延びした声が響いたその瞬間──
ドンッ──。
「おっと、すまない。肩が当たってしまって……」
獣人の男が立ち止まる。
炊き出しの列に並ぶ人々の間を抜けようとしたその時、女とすれ違いざまに肩がぶつかったのだ。
この混雑では、接触すること自体、さして珍しくもない。
だから、男は軽く謝罪し、そのまま歩き去ろうとした。
女も、気安く片手を上げる。
「おう、気にすんな」
そして──
もう片方の手で、長外套の下に佩いていた長剣を振り抜いた。
「は…………が、ぇ…………?」
ぶしゃっ──。
間の抜けた音が響く。
獣人の男が知覚できたのはそこまでだった。
喉を斬り裂かれた彼は、乾いた笛のような声の欠片をこぼし、ぐるんっと目玉を裏返す。
生きることを止めた彼は、赤い水をまき散らす噴水と化し、その場に崩れ落ちた。
「慰謝料代わりにちゃ~んと、てめえの命をもらっといてやったからよぉ」
紅に染まる長剣を肩に担ぐ女。
その唇に付着した鮮血を、舌で舐めとる。
次の瞬間、広場に満ちていた穏やかな喧騒が、まるで幻のように掻き消えた。
沈黙。
そして──
「い──いやぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
絹を引き裂くかのような女性の悲鳴が、静止していた時間を打ち砕いた。
「う、うああああああああああああ!」
「なにっ、なんなの!?」
「死んでるっ、人が死んでる!?」
恐慌が巻き起こる。
老若男女が逃げ惑い、炊き出しの場が阿鼻叫喚へと変わる。
転げ落ちた器が地面に散らばり、スープが石畳を汚す。
我を失う群衆の中で、一部の者たちは正確に理解していた。
──『闇派閥』。
オラリオに災厄をもたらした、悪の徒。
「炊き出しなんて、いい香りがするじゃねぇか~。私達も交ぜろよ、ギルドの糞ども」
周囲の叫喚など委細構わず、女は目を細める。
毒々しい薄紅色の髪に、損傷のある肌着と革の脚衣。
その姿を見た瞬間、周囲にいた冒険者たちは息を呑む。
広場を警備していたロキ・ファミリアの冒険者たちが素早く武器を構え、アストレア・ファミリアの団員たちも食事を配る手を止めた。
該当する要注意人物一覧の項目は、ただ一人。
──闇派閥最重要幹部の一人にして、【
ヴァレッタ・グレーデ。
彼女の存在を認識した瞬間、広場に緊張が走る。
だが、そんな空気など意に介さず、ヴァレッタは嗤った。
「宴の手伝いくらいはしてやるぜ。──そこら中に真っ赤な果実をブチまけてな!」
たちまち、長剣が鮮血の嵐を呼び起こす。
振り抜かれる刃が群衆の四肢を、胴体を、頸部を切りつけ、絶叫の歌を奏でた。
炊き出しの場が一瞬にして地獄と化す。
人々が逃げ惑い、肉が裂け、血が石畳を染め上げる。
Lv.5の能力を持つ彼女から逃れられる者など、誰もいない。
「ヴァ、ヴァレッタ様! 何をしているのですか! 勝手な行動をされては……!」
焦りの声を上げたのは、群衆に紛れていた闇派閥の男だった。
彼は広場の混乱に気を取られ、ヴァレッタを制止しようと一歩踏み出す。
──だが、その一歩は、彼にとっての最期の一歩だった。
「がぁぁ!?」
斬られた。
味方だったはずの男の喉を、ヴァレッタの剣が容赦なく貫く。
血しぶきを浴びながらも、彼女は楽しげに笑う。
逃げ惑う人々も、潜んでいた闇派閥の仲間たちも、思わず顔を蒼白にする。
それでも、ヴァレッタは紅く嗤う。
「うるせぇなぁ、こんなにも空が晴れてるじゃねえか。じゃあブッ壊れて、どいつもこいつもぐしゃぐしゃにしてやらなきゃダメだろう?」
頭上を仰ぎ、両腕を広げ、狂気に満ちた声を上げる。
「今がどうしようもねー時代で! ここは笑う暇もねえ地獄だと! 群衆どもに思い出させてやらねぇとよぉ!」
生粋の殺人鬼は『悪』を煽動し、『悪』を謳歌した。
「やれ、てめえ等!」
「は、ははぁっ!」
闇派閥の軍勢は、一も二もなく従う。
それは彼らが忠実だからではない。
──命令に従わなければ、次に死ぬのは自分たちだからだ。
巻き起こるのは凄まじい『爆撃』だった。
「ぐあああああああああああああああああああああああ!?」
「きゃあああああああああああああああああああああああ!」
通り、商店、人々。
手当たり次第に放たれる『魔法』の輝きが、崩壊と震動、悲鳴を呼び込む。
血は流れ肉が焼け、石畳は弾け壁が砕け、陽だまりの光景が瞬く間に壊れていく。
『血溜まりの惨劇』へと変わりゆく。
ヴァレッタの哄笑が、広場を支配する。
「はははははははっ! 『前夜祭』だぁ! 騒ぎに来たぜ、冒険者どもぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
──その声は、冒険者たちのもとへと届いた。
広場の端で警備についていたアストレア・ファミリアとロキ・ファミリアの団員たちが、一斉に顔を上げる。
「悲鳴!? それに、爆発!? まさか──!」
広場の異変に誰よりも早く気付いた二人の影が、疾風の如く駆け出す。
「行くわよ、リオン!」
その声とともに、アリーゼ・ローヴェルとリュー・リオンが風となった。
闇派閥による青空の凶行が繰り広げられる。
対する冒険者の対応は迅速だった。
炊き出しのために配置されていた警備の者達が一斉に動き出し、武器を解き放って迎撃に移る。
しかしそれでもなお、闇派閥の攻撃規模は広く、そして無差別だった。
「いいぞー、死ね。どんどんくたばれー。派手に断末魔の声でも上げて、助けを求めろ」
泣き叫ぶ民衆と壊れていく街並み。
守るべきものが多過ぎて、手が回らなければ数も足りない。
冒険者達は眼前の光景を庇うために精一杯となる。
反撃に転じることができないオラリオ側の戦力をあざ笑うように、ヴァレッタは呑気に言葉を間延びさせ、愉悦に浸った。
女の右足が踏みつけるのは、既に事切れた無辜の民。
「駆け付けてきた冒険者どもの前でも、私がしっかり息の根を止めてやるからよォ~~!!」
「【
血塗れの亡骸を足蹴にする闇派閥の幹部に、付近にいた冒険者達が激昂する。
雄叫びを上げながら三人がかりで飛びかかるものの──
「ぐぁぁ!?」
ヴァレッタの体がぶれ、斬閃が走った。
すれ違いざま斬り伏せられた冒険者達が血の海に沈む。
民衆の惑乱を引き起こす恐怖の象徴として自分自身を立てる一方で、戦闘要員への挑発も怠らずに、狩る。
ヴァレッタという女はどこまでいっても冷酷で、狡猾だった。
──まさに、見えない巣を幾重にも張り巡らせる毒蜘蛛のごとく。
「──外道ッッ!!」
「っ!?」
直後。
ヴァレッタの背後、そして頭上より、木刀と細剣が閃く。
速い──。
鍛え上げられた戦士たちの、息の合った奇襲。
ヴァレッタは瞬時にそれを理解し、即座に迎え撃つことを決めた。
長剣と、懐から取り出した逆手持ちの短剣、二種類の刃で防御する。
「あぁン……? 【アストレア・ファミリア】か! てめー等はお呼びじゃねえんだよ、乳臭えガキども!」
「黙れ!! 誰もが笑うはずだったこの場所で、よくも……!」
憤激するリューに、背を討つ逡巡などとっくになかった。
長剣に弾かれ一度は地面に着地したアリーゼも再度斬りかかり、緋色の怒りに満ちる。
「絶対に許さないわ! 貴方はここで倒す!」
痛烈な金属音の後、木刀を短剣が、細剣を長剣が押さえ込み、鍔迫り合いを行う。
得物越しに睨み合う少女達に向かって、ヴァレッタは唇をつり上げる。
「チッ……なるほどな、Lv.
アリーゼの一撃は、先ほどの三人とは比較にならないほど重かった。
一瞬の鍔迫り合いだけでも、ヴァレッタは彼女の格を理解する。
そして、リュー。
アリーゼほどの力はないが、その動きには明確な鋭さがある。
まだ若く、熟練の域には達していないがLv3の第二級冒険者として名を連ねていた。
一対一ならば圧倒できるはずの相手。それが連携されると意識すべき要素が増える。
「まあ、厄介なのは認めてやるよ。でも──それだけで私を止められると思うなよッ!」
その悪の傲慢に対し、返答したのは、『強烈な握り拳』だった。
「ならば、
「ぎっっ!?」
リューとアリーゼに左右を挟まれる中、正面から繰り出された剛拳がヴァレッタを殴り飛ばす。
咄嗟にリュー達の武器を弾いて回避行動をとったものの、女の体は凄まじい勢いで石畳の上を滑っていった。
「【
その一撃に、リューとアリーゼも驚愕する。
力の差があったヴァレッタを、真っ向から吹き飛ばしたその巨躯──ロキ・ファミリアの幹部、ガレス・ランドロック。
「無事か、小娘ども。……くそ、何のための見張りだ。犠牲者を出しておいて、フィン達に合わせる顔がないわ」
ヴァレッタと同様に驚愕するリュー達を他所に、ガレスはガレスで忸怩たる念に苛まれていた。
周囲の惨状に目を歪めながらも、しかし素早く切り替えて敵を見据える。
「ってーなっ、馬鹿力がぁ! だが、来やがったなぁ、【ロキ・ファミリア】!」
長剣を地面に突き刺し、耳障りの擦過音を立てながら体勢を立て直したヴァレッタが、苛立ちの声をばら撒き、禍々しく笑う。
「久しぶりだな、ドワーフの糞爺! フィンの野郎はいねえのかぁ~~!?」
ヴァレッタ・グレーデと【ロキ・ファミリア】には因縁がある。
正確には、同じ指揮官として立つフィン・ディムナと彼女に、だ。
八年前の『暗黒期』の幕開けから今日に至るまで、フィンとヴァレッタは幾度となく軍勢を率いて鎬を削ってきた。
やられ、やり返し、計画を丸潰しにされては再戦に臨む。
ヴァレッタにとって、フィンはまさに『憎き宿敵』だった。
しかしー
「生憎とここにはおらん。貴様等の『陽動』を見越して、別の場所に網を張っておる」
目に見えて興奮の度合いを高めたヴァレッタと比して、ガレスの声は磨き抜かれた鋼鉄のように冷めていた。
そんな彼の言葉を肯定するように、ヴァレッタのもとへ闇派閥の部下が転がり込んでくる。
「ヴァレッタ様! 同志の潜伏地点から煙が……! 目標襲撃前に、冒険者に強襲されたものかと思われます!」
見れば、都市の西と東から黒煙が上がっている。
魔導士がいれば『魔法』の残滓たる魔素がうっすらと帯びていることを察しただろう。
報告を聞いたヴァレッタの顔から笑みが消え、怒りと憎悪だけが残った。
「ちッ……死ねよクソが。派手に暴れてやったっていうのに、何も意味がねーじゃねえか」
ガレスの言った通りだった。
都市民が集まる炊き出しを狙った今回の凶事は、ギルド傘下の【ファミリア】の注意を逸らすための『陽動』。
しかし、ロキ・ファミリアの主力やガネーシャ・ファミリアはすでにヴァレッタたちの狙いを見抜いていた。
ヴァレッタは、これ以上にないほど忌々しそうに吐き捨てる。
「あァ~~…………萎えたぜ。」
ヴァレッタの口から、突如として漏れた倦怠の声。
「おい、てめえ等。あいつ等を足止めしろ。私は帰る」
「ヴァ、ヴァレッタ様!? 一体なにを!?」
驚愕する闇派閥の部下をよそに、ヴァレッタは肩をすくめ、吐き捨てるように言う。
「陽動が騒ぐだけ騒いで他が不発なんて、間抜けにしかならねえだろ。これ以上は殺る意味もねえ。てめえ等は私の身代わりになれ」
ヴァレッタ・グレーデは血に飢える蜘蛛である。
しかし身を狂気に染めておきながら、必ず『一線』を見誤らない冷静さを持つ。
これほどの惨事を引き起こしておきながら、あっさりと踵を返そうとする女幹部に、『身代わり』を要求される末端の闇派閥は動じていた。
「──逃がすと思っているの?」
ざっ、と靴を鳴らし、立ち塞がるのはアリーゼ。
その瞳には、抑えきれぬ瞋恚の炎が揺れている。
背後には、リューとガレスも武器を構え、完全に包囲した形となった。
木刀が、斧が、低く音を鳴らす。
だが、それでもヴァレッタの表情には余裕があった。
「安心しろよ。どいつもこいつも優しい腑抜け共は、私の相手をしてる暇なんかねぇからよぉ」
嘲りとともに、ヴァレッタは指を弾く。
──『合図』。
その瞬間、闇派閥の伏兵達が四方から飛び出し、無差別に爆撃を開始した。
「うわああああああああああああ!?」
重なる震動、滝のごとく崩れる瓦礫、そして巻き込まれる人々の悲鳴。
街を破壊するためだけに隠れていた予備戦力が、一斉に魔剣を振るう。
四方へと撒かれる破壊の波。
「『魔剣』で無作為に破壊を……!?」
「逃げ遅れてる人が大勢いる……いけない!」
激化する破壊と混乱の光景に、リューとアリーゼの声が焦燥を帯びる。
「ハハハハハッ! さっさと助けに行ってやれよぉ、正義の味方ぁ! 無辜の民ってやつが、瓦礫に押し潰されて死んじまうぜぇ!」
ヴァレッタの嗤いが響く。
彼女にとっては、戦いの勝敗などどうでもいい。
大事なのは、どれだけ『痛み』を与えられるか──それだけだ。
──そして。
「っ……【
怒号を上げたリューがヴァレッタに駆け寄ろうとする。
しかしその瞬間、彼女の姿は煙と砂塵に紛れ──消えた。
「こ、こうなればっ……同志よ、破壊を振りまけ! ヴァレッタ様の御指示通り、一人でも多く道連れにしろォ!」
残された闇派閥の兵士たちは、玉砕を覚悟したかのごとく最後の抵抗に転じる。
「ええい、兇徒どもめ! 小娘達、周りの者を助けろ! 闇派閥は儂が何とかする!」
「【
「お願い、ガレスのおじ様!」
玉砕覚悟の闇派閥を食い止めるべく、ガレスが悪態を吐きながら敵陣へと突っ込む。
アリーゼとリューは、人々を守るために街へと駆ける。
背に向けて駆け出す少女達の声に応えるのは、大戦斧の音のみ。
身の丈に迫ろうかという超重量の武器を団扇のように翻し、ドワーフの大戦士は敵兵を蹴散らしていく。
闇派閥の面々が浮かべるのは、恐怖の形相。
必死の抵抗とばかりに短文詠唱の『魔法』や『魔剣』を繰り出すも──
ガレスは被弾も構わず突撃を重ねた。
「ぐっ……化け物め!」
斧の大刃が、岩をも砕く石突きが、それ自体が鉄槌に等しいドワーフの大拳が、次々と敵へと振り下ろされる。
躱そうとする間もなく、四肢を砕かれ、意識を刈り取られる闇派閥の兵士たち。
無理を押しての強硬戦術。
ガレスは自身の損傷と引き換えに、早期鎮圧を望んでいた。
むしろ己に照準を集めるように大立ち回りを演じ、戦場の中心へと敵を引き寄せていく。
そうすることで、街への被害を最小限に抑えるつもりだった。
「リオン、散るわ! ライラ達、あとは他の冒険者と連携をとって!」
「わかりました!」
第一級冒険者の機転を汲み取るアリーゼとリューは、即座に行動を開始する。
ガレスが闇派閥の注意を引きつけている間に、彼女たちは民衆の避難を促し、必要に応じて救出・迎撃を行う。
逃げ遅れた者を助けつつ、蹈鞴を踏む雑兵もすれ違いざまに昏倒させる。
かねてより計画されていた危機対応策に従い、避難所を**【ロキ・ファミリア】の本拠『黄昏の館』に定め、人々を北へと逃した。
「こっちへ!」
「安全な場所まで誘導します!」
彼女たちの迅速な判断により、逃げ惑うだけだった民衆が進むべき道を得る。
それに呼応するように、冒険者たちも動きを変えた。
『護衛』から『誘導』へ。
灯台の導きのごとく、混乱の戦場に光を照らす。
正確かつ迅速な決断の繰り返し。
比喩抜きで、彼女たちが一呼吸する間に、救われる命が増えていく。
そして、わずかでもその行動が鈍れば──
守れるはずの命が、確実に減る。
迷うことは、許されなかった。
「ぐあああああぁぁぁぁぁぁ!」
闇派閥の最後の一人が倒れた。
薙ぎ払った斧を担ぎ、鎧から煙を吐くガレスは、全身に火傷を負いながらも勝利の余韻に浸ることなく声を飛ばす。
「敵は全員潰した! ラウル、【ディアンケヒト・ファミリア】に応援を頼め! 大至急じゃ!」
「は、はいっす!」
街の惨状に血の気を失いながらも、避難民の護衛と誘導に集中していたラウルが、何度も頷きながら走り出す。
戦闘に参加していなかった若い【ロキ・ファミリア】の下位団員たちも、戦闘終了を確認するや否や、救命活動に奔走した。
けれど、それでもなお、人々の悲鳴が途絶えることはなかった。
「うあああああ……!」
「足がぁ……誰か、助けてくれえぇぇぇぇ!」
吹き飛んだ鎧戸の破片が半身に突き刺さった者、瓦礫に両足を潰された者、『魔法』によって体の一部を吹き飛ばされた者。
老いも若きも喚き、悲鳴が糸のように絡み合う。
頻りに舞う爆煙と、焼け焦げた血の香り。
その惨状に、【アストレア・ファミリア】の面々もまた、悲痛の声を上げる。
「くそったれ! 何人巻き込まれやがった!」
「リオン! お前も回復魔法で治療に当たれ!」
手持ちの回復薬を負傷者に浴びせかけるライラも、瓦礫を細切れにする輝夜も、常の余裕など忘れていた。
「建物がいつ崩れるかわからない! 怪我人も避難所に運べ!」とネーゼ達が視界の隅で走り回る中、リューが輝夜に叫び返す。
「わかっています! しかし、私の魔法では複数人をいっぺんに癒せない! 人手が足りな過ぎる!」
森の光にも似た緑の暖光が負傷者を包むが、それも一人ずつしか癒せない。
視界の範囲内にさえ、自力で動けない者が何人もいる。
見えない場所には、まだどれだけの負傷者がいるのかも分からない。
圧倒的な人手不足。
リューも、苛立ちと焦りを押し殺しながら、声を荒らげるしかなかった。
「うええええええええぇぇ……! 痛い、痛いよぉ……!」
不意に、治療を施していたリューの視線の先で、小さな影が震えていた。
ヒューマンの少女が一人、泣いている。
親とはぐれたのか、手足には無数の掠り傷、膝からは血が滲んでいる。
恐慌に満ちた街の空気に耐えられず、へたり込んだまま動けず、悲しみの声を空へと上げていた。
魔法の中断もできず、リューはやりきれない感情を眉間に刻む。
「泣いたらダメだ。みんなも悲しくなっちゃうよ。ほら、この布をぎゅっと傷口に当てて」
一柱の男神が少女のそばに膝をついた。
「……! 神エレン……」
リューは目を見張る。
彼女の驚きを知ってか知らずか、エレンは軽くおどけてみせた。
「血が止まるぞ~。止まるぞ~。ほら、止まった! こんな小さな膝でも我慢できたんだ、君も涙を我慢できるだろう?」
「神さま……はいっ」
純白の手巾がみるみるうちに血を吸い、赤く染まる。
エレンが優しく少女の膝に押し当てながら応急処置を施すと、苦痛に歪んでいた彼女の表情から、ぽろぽろとこぼれていた涙が止まった。
エレンは微笑み、差し出した手でそっと少女を立ち上がらせる。
「いい子だ。あそこの避難所まで、一人で行けるかい? 君よりもっと怪我をしてる子たちを助けに行かなくちゃいけないんだ」
「うんっ、いけるよっ……ありがとう、神さま!」
エレンが指差したのは、周囲の建物よりひときわ高い【ロキ・ファミリア】の本拠だった。
少女は目元を拭い、こくりと頷くと、笑顔を浮かべる。
ギルド職員の指示に従いながら、民衆の列へと自分の足で駆けていった。
「……神エレン。ありがとうございます。手を貸してくださって……」
一部始終を見守っていたリューが、負傷者の治療を終え、男神のもとへ歩み寄る。
その振る舞いは、まさしく神格者と呼ぶに相応しいものだった。
彼女が感謝と敬意を込めて礼を述べようとした、その時——
「ああ、気にしなくていいよ。俺はただ、君に謝りにきただけだから」
エレンはふっと微笑み、言葉を遮った。
「……えっ?」
「君たちの真似をして、さっきの子以外にも助けてみたんだ。それで、俺もようやくわかったよ」
男神は、穏やかに笑った——。
硬直するエルフを他所に、神はおかしそうに笑った。
「傷ついた者、弱き者を助けると、こんなにも心が満たされるなんて! 充足するよ、嬉しいね、これは病みつきになってしまう!」
無邪気な『悪意』が発露する。
それは紛れもなく、彼の内側から湧き出た喜びだった。
「……なに、を……」
リューの震えが混じった声が漏れる。
「ごめんよ、君たちの行いを『見返りのない奉仕』だなんて言って! 確かにこれは無償なんかじゃなかった! ちゃんと『代価』はある!」
呆然とするリューは、動けない。
彼女を置いて、エレンは下界の『道理』を説き始める。
「他者を助けてあげるという『優越』!」
「感謝されるという『快感』!」
「施しを授けるという『満足』!」
「それはこんなにも気持ちいい!」
連なる言葉。
子供たちへの理解に近づいた歓喜。
その声音には、迷いが晴れたような響きがあった。
だが、それは同時に——
自らの過ちを認める謝意であり、
そして、『正義』をあざ笑う納得だった。
喜々とした声とともに、男神は純粋な愉悦に満ちる。
それは、一人の妖精の逆鱗を確実に逆撫でていた。
「いやぁ、早く教えてくれれば良かったのに。君たちの献身は、全然不健全じゃない!」
「…………さぃ」
「やっぱり全知だからといって『知ったか』はダメだね。行動も伴って初めて『実感』できる。神ながら
「…………ください」
「ん?」
「取り消してくださいっ!!」
リューの両手が震える。
その怒声が響いた瞬間——
エレンの口角が、ゆっくりと吊り上がった。
「なにを?」
「たった今、貴方が吐いた侮辱を!! 私たちは自尊心のために『正義』を利用しているのではない!」
「ええぇ? 本当に~? じゃあ、君たちは何のために戦っているの?」
烈火のごとく怒声を散らすエルフに、神は怯みもしない。
それどころか、遺憾そうに、いや、からかうように疑問を重ねる。
ーその態度。
ーその声音。
すべてがリューの怒りの炎に油を注いだ。
「くどい! 都市の平和のため、秩序をもたらすためだ! たった今、私たちの周囲に広がるこの光景を撲滅せんが故だ!!」
憤激に突き動かされ、『正義』の意志を断言する。
だが——
「それが『自己満足』なんじゃないの?」
「なっ──」
神は、温度の下がった声で指摘した。
「だって君たち、お金ももらえないでしょう?」
「…………黙ってください」
「パンもスープも分けてもらえない」
「……黙りなさい」
「祝福だって、そこにはない」
「黙れっ!!」
闇が囁くように。
蛇が足元から這い寄るように。
神の言葉が、リューの全身に絡みつく。
うっすらと瞳を開いたエレンは、この時、はっきりと嘲笑を浮かべた。
「富と名誉だけでなく、一時の感謝さえ求めていないというのなら——」
「君たちの言う『正義』とは真実、ただの『孤独』じゃないか」
「黙れぇぇぇぇぇぇぇ!!」
真理を突きつけるがごとき神の宣告に、妖精の怒声が轟く。
「怒らないでくれよ、エルフの子供。ただの神の酔狂さ」
「ただ、心して自分に問うて、答えてくれよ」
裂帛の叫びが空気を震わせる中、エレンはなんてことのないように肩を竦める。
そして——
瞳を細め、微笑みながら問うた。
「君たちの『正義』とは、一体なんなんだ?」
全身を震わす鼓動の衝撃とともに、リューの視界が明滅する。
「もし答えられないのなら……君たちが『正義』と呼んでいるものは、やはりとても歪で、『悪』よりも醜悪なものだ」
沈黙の間に立ち尽くすリューに、神が贈るのはそんな結論。
その言葉がリューの許容範囲を、たやすく振り切った。
「──貴方はぁああああああああああああああああああああああああ!!」
エレンに迫り、両手でその胸ぐらを摑む。
相手が神だということなど、頭から抜け落ちていた。
激昂の雄叫びに支配されるリューは、ありったけの怒りを込めて神を睨みつける。
そして——
言葉ではなく、行動に走るその姿こそが、まだ問いに対する答えを持ち合わせていないことの証だった。
「リオン、何してんだ!」
「今は遊んでいる暇などない! 無視しろ!」
異変に気付いたライラと輝夜が駆け寄る。
「ッッ……! くそ!」
リューは、彼女たちに腕を掴まれ、歯を食いしばった。
周囲からは、まだ助けを求める声が響いている。
心中で荒れ狂う衝動を何とか堪え、ライラたちとともに、その場を後にする。
一人取り残されたエレンは、何事もなかったように胸元を正し、遠ざかる少女たちの背中を眺めた。
「……誇り、高潔、誓い。それを最後まで貫けるなら、確かに『正義』と評価されるものにはなるだろう」
ふと漏れたのは、誰にも届かぬ独白。
「けれど、本当に誰からも感謝されず、見返りがなくなった時……一体どうするのか」
『悪』の所業に痛めつけられ、深い傷跡を刻まれた街の片隅で——
男神は、不敵な笑みを浮かべながら、ぽつりと呟く。
「あいつが見定め、選んだのが君たち……そして俺が見定めんとする者も君たちか…」
言葉の端に、どこか愉悦の色を滲ませながら、指先で軽く顎を撫でる。
「——
遠い目をしながら、満足げに微笑む。
「……楽しみにしているよ」