あの日の絶望を、僕は決して忘れることはないだろう。
空は底知れぬ深淵だった。
光を呑み込み、命の息吹を無情に押し潰す、終焉の黒。
地は血潮に染まっていた。
かつて英雄だった者たちの最期が刻んだ、慟哭の赤。
その中心に静かに佇む黒き龍――ただ存在するだけで、すべてを呑み込み、終わりを告げる絶望そのもの。
ーどうか許してほしい。
あの絶望を見てなお、僕は君たちを英雄の道に送り出そうとしている。
これがどれほど残酷なことであろうか。
願わくば、その先に希望があらんことを。
◾︎
「アゼル〜!」
オラリオの喧騒に溶け込むように、闊達な声が街の空気を切り裂いた。その声の主は、陽光を受けて輝く赤髪と凛とした赤い瞳を持つ一人の女性。清廉な白装束を纏い、笑顔と共に周囲を惹きつけるその姿こそ、正義の使徒、アストレア・ファミリアの眷属にして団長、アリーゼ・ローヴェル。
「相も変わらず元気だな。アリーゼ」
呼ばれた青年、アゼルはアリーゼの声に驚くこともなく、静かに答えた。
鋭い緋色の瞳がわずかに細められ、その視線はどこか冷静で控えめだ。整えられた白銀の短髪と、黒を基調とした洗練された装いが、彼の端正な顔立ちを際立たせる。それにもかかわらず、彼の存在感は驚くほど薄い。答える声も、周囲の喧騒に吸い込まれるように淡々としており、その姿は気を抜けば視界の端に溶けてしまいそうな錯覚を抱かせる。
「どこに行ってたのよ?もう本当に久しぶりなんだから!」
アリーゼはアゼルに近づき、間近で話すように距離を縮める。まるで他の誰も気にせず、アゼルだけに向けて話しているかのようなその姿勢は、距離感を気にすることなく、無意識にアゼルの近くに寄っている。いつも通り、壁がないかのように自然に振る舞い、その気さくな態度がアゼルにとっては何の違和感もなく受け入れていた。
「どこにでもいたさ。」
アゼルの曖昧な返答に、アリーゼは少し不満げに眉を上げた。
「ふーん…また適当なこと言っちゃって」
アリーゼは軽く肩をすくめ、少し拗ねたように見える表情を浮かべる。
「でも会えて嬉しいわ。アゼル気づいたら何処か行っちゃうだもん。本当に困った猫ちゃんね!」
アゼルはその言葉に少しだけ目を細めたが、いつものように何も言わず黙って受け流す。その表情には、決して笑っているわけではないが、アリーゼの気さくな言動に少しだけ気を許しているような雰囲気が漂っていた。
「いつも何も言わないでどっか行くの、本当に困るのよ。せめて一言くらい教えてくれてもいいじゃない!」
アリーゼはさらに言葉を重ねる。彼女の声は少しだけ拗ねているように聞こえるが、その中に微かに滲むのは、本当に寂しさを感じていたことの名残だ。
「言ったら、追いかけてくるだろう?」
アゼルが短く答えると、アリーゼは一瞬だけ驚いたような顔をしてから、笑いをこらえるように口元を押さえた。
「ええ、もちろん!だって、アゼルがいないと色々と不安だもの!」
その言葉にアゼルは一瞬視線をアリーゼに向けたが、すぐにまた正面に戻す。
「俺がいなくても、特に困らないだろう?」
「困るわよ!…まあ、別に私たちがどうにかできないってわけじゃないけど、でも、やっぱり……」
アリーゼは言葉を詰まらせ、一瞬だけ視線を落とす。そして、何かを振り切るように顔を上げ、少しだけ笑みを浮かべて続けた。
「私、アゼルがいないと……なんでもない!」
その変化にアゼルは気づいたのか気づかないのか、淡々と歩き続けている。その無言の反応に、アリーゼは少しだけ不満げな視線を彼に向ける。
「ねえ、少しくらい返事してよ。そうやって黙ってるから、いなくなったら余計に気になるの!」
アゼルは軽く肩をすくめた。
「俺がいなくても、お前はしっかりやれるさ。そういう性格だろ。」
「もう、それって褒めてるの?それとも突き放してるの?」
アリーゼは少しむくれるように言ったが、その瞳にはわずかな笑みが宿っていた。アゼルのそっけない態度が、彼なりの優しさだと理解しているからだ。
「どっちだと思う?」
「絶対、突き放してるほうね。でもまあいいわ、いつものことだし。」
そう言いながらも、アリーゼは再び歩調を合わせる。だが、彼女の口元にはどこか満足げな微笑みが浮かんでいた。
「やっぱり会えて嬉しいわ。だから、今度は私がアゼルを引っ張っていく番よ!」
アリーゼはそう言うや否や、勢いよくアゼルの手を掴んだ。アゼルは一瞬驚いたように彼女を見つめるが、すぐにその勢いに流されるように歩調を合わせた。
「さあ、行きましょう!」
「は?」
アゼルは短く声を漏らすが、それ以上は何も言わず、アリーゼの引くままに足を進める。彼女の行動力にはもう慣れているらしく、特に抵抗することもなく歩き続けた。
アリーゼはアゼルの手をしっかりと握り、ピッタリと体を寄せるようにして並んで歩く。その頬は紅く染まり、嬉しさと興奮が隠しきれない。だが、その感情をストレートに伝える代わりに、彼女はいつものように明るく振る舞い続けた。
「私達のホームに行くのよ!みんなきっと喜ぶわ!」
アゼルは静かに歩きながら、アリーゼの言葉に耳を傾ける。アリーゼがその勢いで自分を連れて行くのはいつものことで、ちょうど良かったと感じていた。アストレア・ファミリアと顔を合わせる理由があって戻ってきたが、その理由をアリーゼに話すことはない。
「はいはい分かったよ。」
アリーゼはアゼルに引っ張られるまま歩きながら、楽しげに言った。
「決まりね!レッツゴー、マイホーム!」
しばらく歩くと、アゼルは仏頂面を浮かべてぼそりと言った。
「俺はアストレアファミリアじゃないんだけどな」
アストレアファミリアの構成員は女性だけ。そのことを何も気にしていないようなアリーゼの対応に毎回頭を痛めるアゼル。
「何よ今更〜。私とアストレア様を引っ付けたのはアゼルでしょ。それならアゼルは私達のお父様だわ!」
「お父様はやめろ。俺にそんな器用な真似はできない。」
アゼルは顔をしかめながら言うが、その声にはどこか諦めが混じっていた。アリーゼはそんな彼の反応を面白がるように笑みを浮かべた。
「でも、アゼルがいなかったら今の私達はなかったわ。だから、そのくらいの称号は受け入れてもらわないと!」
アゼルは再び小さくため息をつきながら、肩をすくめる。
「ほら、早く行きましょ!」
「ーーやれやれ。毎度のことながら引っ張り回されるな。」
そのぼやきに、アリーゼは振り返って悪戯っぽく笑いながら言い返した。
「引っ張り回すなんて言い方ひどいわ!ちゃんと私をエスコートしてよね。」
「お前がエスコートする側だろ。俺を引っ張ってるのはそっちなんだから。」
「ふふっ、それもそうね。でも、いいじゃない?私たち、ほら、こうして並んで歩くのが自然って感じしない?」
アゼルは何も言わずに少しだけ目を細めた。その仕草にアリーゼは気づいたのか、さらに笑みを深める。
「アゼル。こうして一緒に歩いてると、なんだか昔を思い出すわ。」
その一言にアゼルはちらりとアリーゼを見やり、歩みを緩めた。
「昔?」
「うん。あの頃も、こんな風にあなたと一緒に歩いてたなって。」
アリーゼの声が少しだけ柔らかくなる。その瞳がどこか遠い記憶を追うように揺れるのを、アゼルは静かに見つめていた。
「最初に会ったときのこと、覚えてる?」
その問いにアゼルは短く頷く。
「まあな。」
「……私、あの頃、本当にどうしようもなかったのよね。」
まだ明るさを残した口調だが、その言葉にはどこか切なさが滲んでいた。アリーゼは視線を足元に落としながら、ぽつりぽつりと話を続ける。
「何も分からなくて、ただ必死で生きてた。でも、それでもどうしようもなくて……」
アゼルは無言のまま聞いていたが、彼女の声が少しだけ低くなるのを感じ取っていた。
「そんなとき、あなたが手を差し伸べてくれた。覚えてる?私、あなたに捨て猫みたいだって言われたの。」
その言葉にアゼルは少しだけ目を細め、ため息をつく。
「確かに言ったかもしれないな。」
「ひどい言い方よね。でも、あのときの私は本当にそうだったの。迷子で、居場所がなくて、どうしたらいいかも分からなくて……」
アリーゼの声が徐々に小さくなる。いつの間にか足を止め、彼女はそっと空を見上げていた。その表情には、かつての自分を思い返す切なさが浮かんでいる。
「でも、あのときあなたが拾ってくれた。それで、私の居場所ができたの。」
アゼルは静かに彼女を見つめ、軽く肩をすくめた。
「拾ったなんて大げさだ。」
「大げさじゃないわ。本当に……あのとき、あなたがいなかったら、私はどうなってたか分からないもの。」
その言葉には飾らない感謝が込められていたが、アリーゼの瞳には、それ以上の感情が滲んでいた。それを知る由もないアゼルは、視線を逸らしながら少し歩調を緩める。
「…大したことじゃない」
アゼルの言葉に、アリーゼは小さく笑いながら一歩身を寄せた。その動きは自然で、まるで彼と並ぶ場所が自分の定位置だとでも言いたげだった。
「そういうところが本当に不思議よね、アゼル。」
「どこがだ?」
アゼルは視線を前方から逸らさず、淡々とした声で問い返す。それがまた、アリーゼの心をくすぐった。
「全部よ。あまり話さないのに言葉が重いところとか、気づくと誰よりも周りを見てるところとか……。あと、なんていうのかしら……」
アリーゼは少し顔を上げ、アゼルを横目で見た。その端正な横顔は、どこか冷静でありながらも柔らかさを感じさせる。そして、そのカッコよさに胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……頼りになるのに、全然それを誇らないところ?ずるいくらいにかっこいいのよね。」
アゼルはその言葉にちらりと視線を向けたが、すぐに興味なさげに前を向いた。
「そうか?」
その一言に、アリーゼは少しだけ頬を膨らませる。
「そうよ。アゼルだけが気づいてないの。ほんと鈍いんだから……。」
アリーゼの声にはわずかに拗ねた響きが混じっていたが、どこか楽しそうでもある。彼女は一歩前に出て、アゼルを振り返った。
「本当に不思議なの。あなたがいるだけで、どんな状況でも大丈夫って思える。私、他の誰にもそんな風に感じたことないのよ?」
アゼルは微かに眉を寄せるも、何も答えない。アリーゼは彼の反応がいつも通りなことに少し笑い、話を続けた。
「それにね、あなたのその優しいところ、全部私は気づいてるんだから。」
「優しい?俺が?」
「そうよ。気づいてないの?言葉には出さなくても、ちゃんと行動で見せてくれるんだから。」
アリーゼはまた一歩近づき、袖を軽く引っ張った。その仕草はどこか甘えるようで、だが本人はそれを自然なことだと思っているようだった。
「あなたのそういうところ、本当に好き……大好き」
一瞬だけ言葉を選び直したアリーゼは、照れくさそうに微笑んだ。その様子にアゼルは少しだけ視線を投げるが、何も言わない。
(本当に気づいてないのね……鈍感にもほどがあるわ。)
アリーゼはそんな自分の心の中の声に苦笑しながらも、どこか満たされた気持ちで彼の隣を歩き続けた。
「ねえ、アゼル。」
「なんだ?」
「これからも、一緒にいてくれる?」
突然の問いかけに、アゼルは歩調を少しだけ緩めた。その顔に驚いた様子はなく、ただ淡々とした声で答える。
「……気が向いたらな。」
「絶対一緒にいてよね。あなたがそばにいてくれるだけで、きっと何だって乗り越えられるんだから。」
アリーゼは明るく言いながら、ふわりと微笑む。その瞳には、冗談ではない想いが溢れていたが、アゼルはそれに気づく様子もなく、ただ前を向いて歩き続けた。
(――そばに、か。)
アゼルはその言葉を胸の中で反芻する。どこか満たされるような響きに、同時にかすかな苦味を覚える。足元に目をやり、顔をわずかに伏せた。
(そんな未来が本当に来るのだろうか。いや――叶うべきなのだろうか。)
一瞬浮かんだ思考を振り払うように、アゼルは視線を正面に戻した。歩調を緩めることなく、変わらない冷静な足取りを保ちながらも、その胸には小さな棘のようなものが刺さっている。
「ほら、急いでよ。みんな待ってるんだから!」
アリーゼが楽しげに声をかける。その明るさに、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのをアゼルは感じた。
「ああ、分かったよ。」
短く応じた言葉には、どこか柔らかな響きが含まれていた。その背後で、アリーゼが弾むような足取りで並んで歩いてくる。
(この穏やかな時間もあと僅か)