監督:ジャック・ベッケル
公開:1960 年
原作:ジョゼ・ジョヴァンニ
出演:マルク・ミシェル ( ガスパール )
:フィリップ・ルロワ ( マニュ )
:ジャン・ケロディ ( ロラン )
:ミシェル・コンスタン ( ジョー )
:レイモン・ムーニエ ( ボスラン )
この記事は、よくある味気ないストーリー解説とその感想という記事ではなく、『 穴 』の哲学的解釈と洞察に重点を置き、"考える事を味わう" という僕の個人的欲求に基づいています。なので、深く考えることはせずに映画のストーリーのみを知りたい、あるいは映画への忠実さをここで求める ( 僕は自分の思考に忠実であることしかできない )、という方は他の場所で映画の情報を確認するべきです。しかし、この記事を詳細に読む人は、自分の思考を深めることに秘かな享楽を覚えずにはいられなくなるという意味で、哲学的思考への一歩を踏み出す事になるといえるでしょう。
1. 『 穴 』 は果たして "脱獄劇" なのか?
a. ジャック・ベッケルの遺作。この作品は単なる娯楽的な脱獄劇ではないと言えるでしょう。脱獄をテーマにしつつも、その裏側で蠢く人間心理を露にしているのです。ただし、その様子は映画のラストまで秘かに蓄積され、ラストにおいて圧倒的な描写によって爆発します。
b. この映画が単なる脱獄劇でない事を示す分岐点は、以下のシーンでしょう。5人の仲間は部屋の床に穴を掘り続け、地下の下水道脈に通じるのですが、マニュとガスパールの2人はそこから刑務所外のマンホールへと到達する事に成功します・・・。
c. ここで2人は脱獄の成功という誘惑に負け、仲間を置いて2人だけで逃げる選択肢も可能なのですが、そうせずに仲間の所に戻ります。脱獄に成功したにも関わらず、そこから引き返すというこの場面によって、"単なる脱獄という行為" から "脱獄にまつわる人間心理劇" へと移行していく事が示されているのです。
2. 異端分子ガスパール
a. この後のラストの伏線として、脱獄をしないと決めたジョーの話があります。
b. もう後は、全員で脱獄するのみという時になって、ジョーはここに残る事を伝えます。理由は病気の祖母に警察の捜索が及ぶ事を心配しての事ですが、誰も特に反対する事なく受容れます。このシーンは後のガスパールへの疑惑とは対照的なものとして描かれているのです。ジョーの決断に対して誰も"裏切りではないのか"という疑惑を向ける事はありません。この事は、もとから仲間だった4人の連帯意識が変わりない事を示しているのと同時に、後から仲間に加わったガスパール1人が異端分子である事を後のシーンでハッキリさせる為の予兆として機能しています。
3. 仲間を裏切る事の出来ない人の良いガスパール・・・
a. ガスパールは急遽、所長に呼び出され、妻が訴えを取り下げる旨を聞きます ( ガスパールは夫婦喧嘩の際、誤って妻を負傷させた事で訴えられていた )。
b. 脱獄前に、こんな話を聞いてもガスパールは当然、素直に喜べるはずもありません。脱獄をやめる事は仲間への裏切りになるからです。さて注意すべきは、ガスパールは所長の話を真面目に受け取り、悩み始めてしまった 事です。所長の話が本当かどうか疑う事をしません。ここに彼の人の良さが出ています。彼は所長が自分の人の良さを利用しようとしている事に気付かないのです ( 彼自身、自分の人柄に安住しているタイプです。それが周囲にどのように受取られるか、あるいはどう利用されるかという事には無頓着だといえます )。
c. そう、所長は彼の人柄の良さを利用している のです。ここでは妻の訴えの取り下げが本当かどうかは問題ではありません。仮にそれが所長による嘘であり、ガスパールが信用しないとしても ( いや、彼は信用するでしょう )、人の良い彼はこのやりとりを仲間に話すしかないのです。そうするとこの時点で彼の話を聞いた仲間は、真実がどうであれ、ガスパールと所長の話し合いという事実自体が、"裏切り" の符丁である としてガスパールを怪しむ事になるという訳です。人の良い彼は脱獄をやめないと言うのですが・・・。
d. やはり仲間は彼を信用しないようです。
e. ガスパールは自虐的になって落ち込む・・・。
4. 脱獄の失敗、そして4人と1人・・・
a. 5人がいよいよ脱獄しようとする夜、見回りが様子を見に来て立ち去るのを見張り役のジョーがガラスの破片を張り付けた歯ブラシで確認します。ドアの覗き穴から歯ブラシを出して通路の様子を見るという訳ですね。有名な小道具です。この歯ブラシを反対方向に向けた時、そこには看守達がズラリと勢ぞろいしているというこれまた有名なシーンによって一気にラストシーンに流れ込みます。ガスパールはそれまでの落ち着いた役柄から豹変して "違う!俺じゃない" と叫びます。それと同時にマニュはガスパールに飛びかかり首を執拗に絞めようとしつつも、なだれ込んできた看守たちによって引き離されるのです。このシーンはそれまで蓄積していたガスパールへの疑念が一気に噴出し、脱獄という目的がとうに吹き飛んだ混乱を示しています。
b. 4人は看守たちに取り押さえられ、服を脱がされ通路の壁に手をついて立たされます。1人 部屋の中に立ち尽くすガスパールは現れた所長の指示に促された看守によって独居房に向かわされます。部屋を出る時、ロランと顔が合うのですが、その時のロランのセリフが印象的です、 "哀れだな"。
c. このロランのセリフをどう理解すべきでしょう? 俺たちを裏切った挙句に自分も所長に裏切られるとはなという意味でしょうか。そうすると相変わらずガスパールは裏切り者と見られているという事になりますが、そのセリフを発するのがロランではなく、マニュであればその通りでしょう。それに対してロランはガスパールが所長に利用されていた事を理解した上で ( 所長が現れてガスパールを独居房へ連れて行くよう指示したのを見ていたでしょうから )、ガスパールの存在自体に対して "哀れだな" と言っていると解釈すべきでしょう。
d. ある意味、ガスパールのような人間にとっては、裏切り者の烙印を押されるより、自分の存在を哀れまれる方がキツイかもしれません。なぜなら裏切り者と言われるだけなら、前のシーンで叫んだように自分の誠実さでもって "違う" と言い返す事が出来る。しかし、誠実であるはずの自分の存在自体が哀れまれるのなら、もはやガスパールは言い返す事すら出来ない、つまりガスパールは自分の存在に向き合うしかないという重荷を背負う事になるのです。
e. このようなガスパールの異質性は、"脱獄" という元々の4人の行動目標を宙吊りにしてしまうものとして機能しています。もちろん、それは所長の思惑によってなされるものであるのですが、4人の脱獄という目標への一直線のベクトルが、異質な1人の存在によって呼び起こされる仲間内での心理的疑惑によって壊れてしまうという意味で成功している といえるでしょう。なのでガスパールが4人の部屋に送り込まれた時点で、"脱獄"それ自体は既に失敗していたと考えられます。故にこの作品は単なる "脱獄劇" ではなく、"脱獄にまつわる心理劇" であったと解釈できるのです。
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クリント・イーストウッド主演の脱獄映画。
『描かれた者の中で、一番弱い者に優しい光を当てると見えてくるもの』
水道の蛇口の修理に来た鉛管工が盗みを働いた.
班長に訴えたら、彼らの望み通り、班長は鉛管工を呼んで来て、彼らの房の中に残した.
彼らは二人の鉛管工を殴りつけた.鉛管工達が盗んだ物を返しても更に殴った.
殴って、殴って、殺しかねないほど殴りつけたのだったが.....
『済んだか』もう一度やって来た班長は、そう言って鉛管工と一緒に出ていった.
のだけど.....
確かに、班長は鉛管工を連れてきて房の中に残せば、彼らが鉛管工に暴力をふるうであろうと予想していたと思う.そして予想通りの結果になったのだが.
けれども、班長は鉛管工に暴力をふるって良いとは一言も言っていない.詭弁だと言われるかもしれないが、決してそんなことは言っていない.
もし、鉛管工達の盗みを班長が解決したとすればどうなるのか?.
鉛管工達は懲罰房に入れられることになるはずだ.
では、盗みの出来事を囚人同士で解決したのなら.....鉛管工達は懲罰を受けずに済む.
だから、班長は自分達で問題を解決するようにと、鉛管工達を連れてきたのであり、殴ってよいと言ったわけでは無い.
殴っても構わないと、囚人たちが勝手に思い込んでいるの過ぎないのである.
班長は盗みを働いた鉛管工を救ってやろうと連れてきたのだが、囚人同士は互いに救い会おうとはしなかった、情けない出来事だったと言える.
ガスパールが所長に呼ばれて戻ってくるまでに随分と時間があったので、戻ってきたときには逃走経路は全て調べられていたであろう.
何故、所長はすぐに全員を捕まえなかったのか?.
何故、ガスパールは房に戻されたのか?.
現実の出来事なので、映画のように話を面白くする為ではなかろう.
ガスパールが逃亡計画を告白することによって、彼の罪が軽くなるとしたら.....なるはずである.
ならば、ガスパールが所長に告白してしまったことを仲間に話して、皆が逃亡を中止したとしたら.....全員が、罪が軽くなったはずだ.
鉛管工の事件も同じであり、囚人同士が互いに救い会えば、自分達で自分達の罪を軽くすることが出来た.
けれども、ガスパークは本当のことを言えば殺されると思って、言うことが出来なかった.
囚人同士が許しあうのではなく、反対に暴力で痛めつけたがために、こんな惨めな結末になったのです.
コメントありがとうございます。早速ですがコメントに対する僕の意見を書かせて頂きますね。少しキツイ言い方に聞こえるかもしれませんが、率直に言う事がコメ主さんに対する誠意だと思って書かせてもらいますね。
コメ主さんの最後の結論、「・・・囚人同士が互いに救い合えば、自分達で自分達の罪を軽くすることが出来た・・・」、「囚人同士が許しあうのではなく、反対に暴力で痛めつけたがために、こんな惨めな結末になったのです」という事なのですが、これを読む限り、コメ主さんは根本的に誤解をされているようです。監督のジャック・ベッケルは囚人達が団結して脱獄する話などこれっぽっちも考えていないからです。もしそうならば最初からそういう映画を撮っていた事でしょう。そうしなかったのは彼は単なる脱獄映画ではなく、脱獄の計画を通じての囚人達の微妙な心理、その変化、そして脱獄の失敗で露になる個々の囚人達の胸の内に押さえていた緊張状態が爆発してしまうというラスト、等が描きたかった訳です。だから僕は記事の中で、この映画は "単なる脱獄劇ではなく、脱獄にまつわる人間心理劇" だと書いたのです。脱獄というシチュエーションに囚われている事が哲学的考察を妨げているかもしれません。この場合は、少数の人間集団のまとまりが、個々人の状況によって心理的にいかに脆い集団になるかという事を哲学的に考える必要があります。この映画はそんな哲学的考察に耐えうる深みがあるのだから、囚人達が互いに協力すればどうにかなったかもしれないという結論は十分に哲学的ではない甘い認識でしかないと言わざるを得ないのです。という事になるので宜しくお願いします。
書き加えさせていただけば、
ジャック・ベッケルは哲学者ではなく芸術家です.このことは世界中の皆が認める事実のはず.
『描かれた者の中で、一番弱い者に優しい光を当てると見えてくるもの』を描く芸術家なのです.