夢を。
ずっと、夢を見ている。
無数の少女に切り刻まれる、悪夢。
一方的に肉と骨を削られていく中で、狂気的な笑い声を響かせていた、同じ顔をした少女達。
終末を告げる風が北の大地に吹き荒れた。
大精霊の
「夢に負けてはいけない。ベル、どうか、再戦を諦めないで欲しい」
低い声音にバッと振り返る。
おかしい。痛みが消えた。夢? ああこれは夢かと彼の顔を見て自覚する。いつの間にか周りの景色が消えている。白一色の不思議な空間は夢の賜物。僕の前に立っているのは猛牛の武人、アステリオスさん。
「必ずや、再戦を──目を覚ませ、ベル」
彼は筋骨隆々とした体を屈めると、次には
「ーーーーーーーー!? ーーーーーーーーーー!?」
こえが でない!
ってアレ痛くないぞ? ああそっかこれは夢だったのかと納得して顔を上げると、そこにはアステリオスさんの気まずそうな顔があって
「すまない、やりすぎた……愛ゆえに」
「えっ」
喉の奥から変な声が出て、そこで急激に意識が遠のいていく。夢が終わる。いやホント変な悪夢だったなあと汗を流しながら、僕は体に力を込めた。角を抜こうとしたんだけど、抜けない。
「すまない、やりすぎた……愛ゆえに」
「……」
アステリオスさんがモジモジしている。ちっとも可愛くないし気持ち悪い。
「ベル、自分は実は
「……」
なんだ今のカミングアウト。
アステリオスさんが女の子って、そんなわけあるか!
ホント変な夢だ。
僕は最後にそう思った。
◆
──『強くなれたら良いな』。
僕、ベル・クラネルは昔から『英雄』に憧れていた。小さな頃は漠然と。具体的にどうすれば良いかはわからなかったし、調べようともしなかった。ただし正体不明の
少しでも強くなれば恐怖心が薄れるかもしれない。
そう思って素振りを始めたのが七歳の時。一年半ほど継続した。少し筋肉がついたから自信を持ってゴブリンに突撃したら、押し倒されて胸の肉を食べられてしまい、それ以降は引きこもりがちに。おじいちゃんによれば危うく乳首がなくなるところだったらしい。男でも乳首がないのは困るから、不幸中の幸いだったと彼は安心していた。何がどう困るのか僕が知るのは、随分と後になってからのこと。
──『強くなれたら良いな』。
九歳の誕生日を迎えた頃には、努力することを完全にやめていた。ゴブリンに殺されかけて、外に出るのが怖くなったからだ。おじいちゃんと家で過ごすことが増えて、英雄譚を聞かせてもらっては夢想した。自分が英雄になって、強いモンスターをバッタバッタとなぎ倒し、女の子達からモテモテになっている姿を。
──『強くなれたら良いな』。
十歳になっても同じ悪夢を見ていた。同じ顔の少女達に切り刻まれた後、喋るミノタウロスが出てくる不気味な夢を。
ただし変化もあった。
夢の最後に優しい少女が出てくるようになったのだ。僕を切り刻む少女達と同じ顔の、アイズさんという超絶美少女。はじめは恐怖心を抱いてしまったけど、アイズさんは狂った少女達とは違って攻撃的ではなく、一緒に昼寝をしてくれる素敵な女の子だった。
──『なんて可愛いんだ』。
怖いばかりの悪夢の最後には、しばしばアイズさんが出てきてくれるようになった。不思議なことに前回のやり取りを彼女は覚えていて、僕達は夢の中で友人になった。そんな彼女から教えてもらったことは、屋敷の中でも素振りはできるということ。
目からウロコとはこのことだ。僕は意気揚々と素振りを再開した。木刀がすっぽ抜けておじいちゃんの顔面に直撃してしまい、危うく殺してしまうところだった。
──『強くならなきゃいけない』。
木刀顔面直撃事件が発生した翌週、おじいちゃんが本当に死んだ。僕の目の前でゴブリンの群れに袋叩きにされて「ひょえ〜」と崖から落ちていった。おじいちゃんを始末したゴブリン達は次は僕に牙を剥き、一斉に襲いかかってきた。
『ガアァッ!』
『ゴブゴブッ!』
『ガアアアアッッ!』
「う、うあああああああっ!?」
今度は胸の肉だけではすまない。いかに
『オオオオオオオオオオオオオン!!』
『ゴビュッ!?』
『ガッッッ』
『ゴヒュッッッ』
返り血が次々と降り注いでくる中、僕は恐る恐る顔を上げた。そこにいたのは二足歩行する牛。黒銀に輝く筋骨隆々の体を持った『ミノタウロス』だった。
「ひ、ひいっ!?」
『……』
そのミノタウロスは僕をじっと見ながら、いかにも人間らしくコキコキと肩を鳴らした。次には腕を組んでの仁王立ちに変わり、威風堂々と
ミノタウロスとはこんな動きをするものなのだろうか。してもしなくても関係はなかった。どうせ僕は食い殺されて終わりだ。
『……』
「……」
『……』
「……?」
だが、おかしい。黒銀のミノタウロスは襲ってくることはなく、何度もウンウン頷きながら僕を見ていた。なんだ、何が起こっているんだ。まさかどこから食べるか悩んでいるのか。どうせなら苦しまないように一撃でお願いしますと願っていると、そのミノタウロスの口が開いた。
『ベル、再戦を』
「……えっ」
落ち着きのある声で喋った。
いやいや幻聴だろう。だってモンスターだし有り得ないと乾いた笑いを浮かべる僕に、彼はズンズン近寄ってきて、大きな右手を差し出してきた。目を白黒させる僕の手を握って、握手をしてきた。
『自分はアステリオス。どうかベル、再戦を』
「……えっ?」
握手の力加減は優しい感じで、あとやっぱり喋ってた。それとアステリオスって言った。夢の中に出てくるミノタウロスと同じ名前。そういえば良く見なくても姿形が全く同じだ。と、なればこの後の僕が辿る運命は……串刺し?
「……角でグサリは、やめて、クレマセンカ」
『馬鹿なことを言わないで欲しい。そんなことをしたら子供はすぐに死んでしまう。自分は幼児虐待に興味はない。本当だ』
いや本当だって言われても……。僕はへなへなと尻もちをついて、大の字になって倒れ込んだ。
なんなんだ、一体。ひとまず殺すつもりはなさそうだけど、かといって手放しで喜ぶことなんて出来なかった。おじいちゃんは死んでしまった。また夢を見てるならそうだと言って欲しかった。アステリオスさんでも誰でも良いから、これは非現実の世界での出来事だって慰めて欲しかった。
『ずっと、夢を見ていた。君と再会し、いずれ再戦を果たすという壮大な夢を』
「……ひっく」
彼は何か言っていた。けど、しゃくり上げて泣き始めた僕は、ほとんど耳に入ってこなかった。
強くなれたら良いな、ではダメだった。
漠然と願っているだけなら誰でもできる。僕に必要だったのは身を削ってでも強くなるという覚悟であり、行動。正体不明の恐怖心から逃げ続けた結果、最愛の祖父を見殺しにしてしまった。自分が頑張らなかったからおじいちゃんは死んだのだと、この時の僕はそう思えてならなかった。
「……うっ」
『ベル、どうした』
「頭が、われる……」
不意に視界がグラリと揺れた。続けてやってくるのは頭が砕けたと錯覚するほどの強烈な頭痛。目の前にバチバチと火花が散る中、僕は夥しい数の怪物と、空に巻き上がる死体の山を幻視した。
飛び回る人肉に怪物達が食らいつく地獄絵図。
確信する。この光景はいつか実現してしまう、文字通りのこの世の地獄であると。根拠はなかった。でも本能が告げていた。
みんな死ぬ、と。
僕はのたうち回って苦しんだ。胃の中身をぶちまけてぶちまけて最終的には吐血する。強くならないと全てが終わる。そんなのは嫌だ。そんなことになるのだけはダメだ。
──『強くならないとダメだ。何にも、誰にも負けないくらい強く』
僕は気を失い、目覚めた時にはアステリオスさんに運ばれていた。おんぶだった。
ベル・クラネルが本当の意味で強さに焦がれるようになったのは、きっとこの時。死んでもあの光景だけは回避するのだと、使命感の炎が燃え盛り、僕の心を焼き焦がした。