ウェブCM赤いきつね「おうちドラマ編」は〝性的〟か 「猥褻」と「性的モノ化」は別問題だ
〝男性ののぞき見〟感覚で作られている
ちなみに管見の限りでは、すでに出そろった感のある映像の性的解釈そのものは、(CM中で描かれている熱々のつゆに比して)はるかにぬるいと言わざるをえない。このCMははっきりと(男性)視聴者の窃視(のぞき見)感覚を満足させるような作りになっている。自室というプライベートな空間で、メガネを外して無防備に涙を流している女性を、視聴者が一方的に見ているという構図である。女性の正面に回り込んだカメラはその印象を強めている【図1】。
このとき、カメラは女性が見ているテレビの位置にある。女性から視聴者の姿が見えることはなく、視聴者は安全地帯から一方的に女性をまなざすことができる(私秘性の侵犯、注3)。緑のたぬきのウェブCM(「放課後先生編」)にそのようなアングルはない。どころか、天ぷらを反射させた瞳のクロースアップは、依然として男性が「見る主体」であることを主張しているかのようである(注4)【図2】。
「ドラマを見ている女性」を見ている視聴者という構図は、彼女がきつねうどんを食べていることにも敷衍(ふえん)できる。つまり「おいしそうにうどんを食べている女性」を視聴者がおいしくいただくというわけである。それが成り立つためには、女性自体がおいしそうでなければならない。涙や湿度の高い空間設計は、女性をおいしそうに見せるための調味料に過ぎない。つゆを滴らせるほどにうるおいをおびて柔らかくなっている揚げは、性的に準備が整っていることを暗示するだろう【図3】。食べることはしばしば性的な比喩として用いられる。相手と性的な関係を持ったことを「食った」とか「いただいた」とか表現するのはその典型である。 【図3】赤いきつね 緑のたぬきウェブCM 「ひとりのよると赤緑」 おうちドラマ編、maruchanchannel(@maruchanchannel、YouTube)、最終閲覧日2025年2月27日、 https://youtu.be/UKSyu8gZ_rs?si=x5Ojeh0gq9VxIL7P 注1=岸田秀『ものぐさ精神分析』中公文庫、1982年、164ページ。 注2=「性的モノ化」の概念を詳しく知りたい向きは、ティモ・ユッテン(木下頌子訳)「性的モノ化」、(『分析フェミニズム基本論文集』慶應義塾大学出版会、2022年、120〜52ページ)などを参照されたい。入門書的なところでは、田中東子編『ガールズ・メディア・スタディーズ』(北樹出版、2021年)の第2章「広告の“もうひとつ”の光景」(上村陽子、16〜30ページ)や、林香里・田中東子編『ジェンダーで学ぶメディア論』(世界思想社、2023年)の第1章「表現の自由――なぜフェミニズムの議論は表現の自由と緊張関係を持つのか」(小宮友根、12〜27ページ)などが参考になるだろう。 注3=「「猥褻」とは、裸体や性器そのものに対して与えられた形容ではない。私秘的なものが「場違い out of place」に公的領域に登場すること、その文脈の混乱が「猥褻」感をよびおこす」(上野千鶴子『発情装置 新版』岩波現代文庫、2015年、121ページ) 注4=たとえば上野千鶴子の次の議論を参照されたい。「カメラマンと言うからには、ファインダーを覗くのは、つねに男なのである。たんにカメラというテクノロジーを操るのが男の特権だというだけではない。近代に「視線の優位」が確立して以来、「見る主体」はつねに男であった。そして「見られる客体」は女」(同書、123ページ)
映画研究者・批評家 伊藤弘了