田端義夫
物語は、東京・新橋の沖縄料理店に始まる。その夜、歌手の田端義夫が飲んでいた。
戦前に「別れ船」、終戦後は「かえり船」などのマドロス歌謡で知られた田端だが、昭和30年ごろからはヒット曲に恵まれず、数千を数えた後援会員はわずか8人に減っていた。
くすぶる田端を前に、5人組の少女が歌いだした。「赤い蘇鉄(そてつ)の実も熟(う)れるころ…」
「これだ。こういう歌を俺は探していたんだ」。戦前から奄美で歌い継がれる「島育ち」だった。田端はさっそく所属のテイチクに持ち込んだが、幹部は「これは売れない」と口をそろえた。反対を強引に押し切っての録音は自身のギターと太鼓のみという最小編成だったが、レコードは売れた。あれよと40万枚を超え、自ら出演した同名映画も封切られた。
「奇跡の復活」と書かれたが田端は後年の本紙の取材に「それは違う。言うなら執念のヒット。この歌でもう一度勝負しようと、命懸けで歌った」と答えている。空前の奄美ブームが巻き起こり、田端が「島育ち」で初出場を果たした38年の紅白歌合戦では、仲宗根美樹「奄美恋しや」、三沢あけみ「島のブルース」、朝丘雪路「永良部百合(ゆり)の花」を加えて、奄美群島を歌う4曲が競演した。
田端が客船「八坂丸」で奄美に「凱旋(がいせん)」した際には、歓迎の島民が名瀬港を埋め尽くした。港を見下ろす赤崎の高台には、今も「島育ちの碑」がある。
三界稔
「島育ち」は奄美の作詞家、有川邦彦が病床で書いた叙情豊かな恋の歌だ。奄美・龍郷の作曲家、三界稔が曲をつけて14年に新民謡として誕生し、主に島内で歌われた。
三界は明治34年生まれ。東洋音楽学校(現東京音大)で学び戦前には「上海だより」のヒットがある。三沢の「島のブルース」を作曲した渡久地政信は沖縄生まれの奄美育ち。三界の龍郷の家に下宿もした直弟子だ。渡久地も「お富さん」「上海帰りのリル」「長崎ブルース」など多くの作品を残した。
三界は昭和36年6月、60歳で亡くなった。田端が新橋の沖縄料理店で「島育ち」に出合うのは37年のことだから、三界は、「島育ち」の大ヒットを知らぬまま逝ったことになる。
MAYURA∞三界
物語は、東京・神田のガード下にある奄美料理店に続く。その名も「奄美」という小さな店は何を食べてもうまいので、会社帰りにしばしば立ち寄る。
店内に「島育ち」が流れた。田端の癖の強い歌唱とは対照的な、あくまで素直な歌声に耳を奪われた。店主に「歌っているのは誰」と聞くと、「そこで飲んでいますよ」。振り返るとピンク色の髪の女性が、にこにことグラスを傾けていた。
歌手の、MAYURA∞三界(マユラ・みかい)さん。三界稔の孫なのだという。後日、改めて話を聞いた。
マユラさんの母は、三界の最初の妻の娘だが、マユラさんの誕生時にすでに三界は亡く、母も早くに亡くした。祖父が「島育ち」の作曲者だったことは聞いていたが、「MAYURA」の名でポピュラーを歌いだしても特に興味は持たなかった。
父も亡くして独りになり、令和3年、初めてルーツをたどる旅に出た。奄美空港では神々しい空気を感じた。タクシーでも宿でも、誰もが祖父のことを知っていた。島のFM局に探訪の相談を持ちかけると、すぐに出演が決まってしまった。
さまざまな伝説も聞いた。元の姓は「三会」だったが、流刑中の西郷隆盛が「世に出ていくなら世界の界に」と改姓の背を押したのだとか。西郷が龍郷に流されたのは安政6(1859)年だから、事実なら三界稔の曽祖父の代だったろう。
東京でプロデューサーと相談し、「島育ち」「徳之島小唄」「月の白浜」といった祖父の曲や、渡久地の「島のブルース」をレコーディングし、アルバム「島育ち~結~」を発売した。祖父のDNAを感じつつ、あくまで「私は私の歌い方で」。
「三界」は仏教用語で欲界、色界、無色界を指す。これを過去、現在、未来に置き換え、祖父の曲の伝承や現代との融合、未来への継承を目指す。島の年配者からは奄美独特の裏声やハト(指笛)を取り入れたら、と助言されるが、「50代、60代には評判がいいんです。僕らはビートルズ世代だからって」。
こうして西郷に諭された「三界」の名で、世に出ている。(べっぷ いくろう)