【往復書簡】ヘイ彼女、俺と一緒に脱獄しない?
壇珠さんの記事へのお返事です。
壇珠さん、おはようございます!!前回の記事を書いた時、あまりにも自分のことばかり書き過ぎて「絶縁状を叩きつけられるのではないか」とビクビクしたことを白状します。蓋を開けたらビックリ、絶縁状どころか「まだまだこんなもんじゃねえだろう」と焚き付けられる内容で、発奮しました!!発奮だぁ!!生とはつまり発奮だぁ!!
壇珠さんが「半分本気だから面白い」と言ってくれたこと、とても嬉しかったです。勝手な連帯感を持って言うのですが、俺たち、半分本気で半分冗談と言うよりも、全部本気で全部冗談で生きていると思いませんか?論理的には破綻してるし、辻褄も合わないのですが、百あるとしたら、百の本気と百の冗談。合計が百を超えていると思うのです。百点満点のテストで、俺たちは五億点くらい取ろうとしている気がするのです。だから、堅気の人から狂人扱いされちまうのだと思います。
我々の努力は、九十点取った人が九十五点取るための努力ではなくて、人生的には二点だけどこの瞬間は五億点だと思うという、極めて個人的な、採点不可能というか、採点を拒否する偉業を成し遂げることに、向けられている気がするのです。空振り三振だけどスイングの思い切りがよかったから五億点とか、会社を休むことはよくないことだけど海に行く道を選んだ俺は五億点とか、みんなと同じゲームをみんなと違うルールでやっているような気がするのです。壇珠さんとの出会いは「あ、ここにも同じ遊びをしている人がいた!」という、驚きと喜びに満ちあふれていました。採点をする人が、外側ではなくて、内側にいる。同じだと言うのもおこがましいほどに、痺れるくらい、壇珠さんは凄まじい遊び人だと思いました。
私は母を亡くしてから、自分の真の憧れというのは、子どものころから「こんな風にはなりたくない」「こうなったら負けだ」と反発心を爆発させてきた、素朴で、地味で、質素で、つましくて、約やかで、従属的な母の在り方だったのだと、ちょっと気がついたとか、そうかも知れないと思ったのではなく、焼き土下座(『賭博黙示録カイジ』参照)による懺悔をもって認めました。
壇珠さんの言葉の一切合切に大反応をしてしまって、終わりなきおしゃべりを死ぬまで楽しみたい願望に駆られてしまうのですが、勇気を出して、今回は「死」をテーマに書きたいと思いました。人が死ぬと言うことについて、世間一般では「悲しいこと」「大変なこと」「残念なこと」など、ネガティブなものとして捉えられていると思います。だから、身近な方が亡くなった方には「大変だったね」と、心配なのか、哀れみなのか、その両方なのか、腫れ物に触れるような扱いになっていることに、前々から違和感を感じていました。
私の頭がイカれているだけかもしれませんが、身近な人の死に触れると、私は「少なくとも、この人はもう苦しまなくてもいいのだ」と思います。また会えないさみしさや悲しさも当然あるのですが、死ぬということは、死んだ人の問題ではなくて、生き残った側の問題なのだなと思います。誤解を恐れながら言うと、さみしさよりも、悲しさよりも、なんならちょっと羨ましいと思います。周りの人たちは「まだ若いのに」とか「これからなのに」など、いろいろなことを言いますが、私は「大往生じゃないか」と思います。大往生に条件はなくて、極端な話かもしれませんが、戦争に巻き込まれて死んでしまったこどもも、大往生だと思うのです。大往生だと思うことが、死者に対する礼儀であり、供養であるように思うのです。
金や死やセックスなど、話題にすることさえ憚られるような、無数のタブーがこの世の中にはあるのだと思います。タブーとされているからこそ、本当はこれについて語り合いたいと思っている人は、決して少なくないと思うのです。「大変だったね」というおふだを貼られて、本当の思いが封印されて、キョンシーの如く立ち尽くすしかなくなってしまった人が、たくさんいるように思うのです。自分が体験したことが、巷にあふれる「大変なこと」「悲しいこと」「残念なこと」として一般化されてしまう前に、言葉としては不適切かもしれませんが、その体験からしか掴み取ることのできなかった『宝』があるように思うのです。自分だけの宝が、世間語によって一般化されてしまう前に、自分の体験を、自分の言葉で刻みつけることで、永遠に生き続けるように思うのです。
またしても勝手な連帯感を持って言うのですが、俺たち、いつだって最悪な状況(要するに死)を想定しながら生きていると思いませんか?おそらくなのですが、一般的な人は「結婚して家を買ってこどもを育てて車も買って、老後はのんびり旅にでも」などという風に、死ぬことは一旦脇に置いて、積み上げ式の思考をしているように思います。だけど、俺たち風神雷神(またの名を狂人)は、いつだって「明日死ぬとしたらこれをやるだろうか?」みたいな感じで、死というワードが日常に頻出していると思うのです。そんな人間に将来設計なんて無理な話で、何が起こるかわからねえ、わからねえからおもしれえ、おもしれえからやめられねえ、俺たちに明日はねえ、明日はねえから今日が輝く、みたいになる気がするのです。
俺たち風神雷神(またの名を狂人)、コンプラコンプラとやかましい世の中に風穴を開けると同時に、死や金やセックスなどのタブーを突貫工事して、風通しをよくしていけたらなあと思うとります。不謹慎だと怒られるかもしれないけど、不謹慎って、多分、本当。誰かにおふだを貼る前に、誰かにおふだを貼られちゃう前に、俺たち風神雷神、狂気の不謹慎ブラザーズになりやしょう!!
しかし自分は愚かですので、現実的には必ずやもう一度地球にリターンできるように策略したく、執着まみれで死んでやり直しを食らって念願叶ってまた生まれてきて、プールと海と湖と川で遊んで、釣りをして、今ご縁の深い人とまた会って、お寿司を食べて、焼き鳥と、あんみつと、やきそばUFOを食べて、パクチーが苦手な人に無理矢理パクチーを食べさせて克服を強要して、、、あとは、自転車で爆走して、また一人子どもをもうけて、それから外国にも暮らしてみたりして、あれ?あとはなんだ…うおおダメだ小せえ!俺は小せえやつです!!大欲が持てないやつです!!最大で、宇宙人の友達を作るとか、自分の家系に代々かかってきた呪いを解くとか、創作をいっぱいして死ぬとか、そんな感じになっちまいます!!ぜひとも圭吾さんの大欲を聞かせてくだせえ!!刺激をくだせえ!!
またまたしても勝手な連帯感を持って言うのですが、俺たち、本当のところは「どっちでもいい」と思って生きていると思いませんか??輪廻転生どっちもおっけー。生まれ変われたら儲けモン。そしたら再び遊び倒せる。生まれ変われなくても儲けモン。死後の世界を堪能できる。普通、執着って言葉は悪いものとして使われますが、壇珠さんが使う執着は、軽やかでありながらひたすら重く、それでいてやっぱり軽やかであるという、狂気の矛盾を感じます。何を隠そう、狂気の矛盾は私の中にもしっかりあり、執着を捨てることよりも「おもくそ執着しまくって生きるのが生だろ」と思っているのです。いつ死んでもいいとか思いながら、どちゃくそ生に執着しているのです。そして、それでいいとシラフで思っているのです。
昔、ハワイ島で宿を経営している日本人女性にお会いしました。彼女は「ハワイ島に惚れ込んだ私は絶対にハワイ島で宿をやると決めた。それのためならなんだってやる。使えるものは全部使う。結局、私はハワイ人の旦那を見つけて、旦那に家を建てさせて、開業に漕ぎつけた。私はハワイ島に執着しまくった」と言っていました。私は、こういう執着っていいなあと思いました。小さな欲望には、自分が置かれた環境の中でうまいこと立ち回る小器用さとか小賢しさとか政治的な力を感じるのですが、大きな欲望には「是が非でも現状を突破させる推進力」みたいなものを感じます。
私は、勝手ながら壇珠さんにその力を感じます。私なんぞ比較にならないほど、強烈に逞しく、強烈に眩しい、推進の力を感じます。そこに惚れ込んで、俺も行けるところまで行きたい、この人に食らいついていきたいと思っている雷神が俺です(※風神でも可)。手前味噌で恐縮ではございますが、私にとっての大欲は「死ぬことに対する恐怖から人間を解き放つこと」です。まだまだ全然途上ですが、自分がそれをやりたいからやっているというよりは、自分の生き方や自分の考え方を振り返って見た時に、俺がと言うよりは、俺の体がそれをやりたがっているように思います。超絶いい意味で「やらされている」のだと思います。
そうして会社を辞めてしまうと、猛烈な自己嫌悪に襲われ、その毒性ときたら水銀よりも強くて、日々考えられることと言えば、自分がいかに激しい思いで、ごく一般的な普通の人への憧れを持っているか、それを確認するだけに限られてしまうのです。あれから歳を重ねて、あのようにして仕事を辞めるという無責任なことは決してしてはならないと思うようになった自分は、少なくとも自分がシャバで生きている間は、二度と一般企業に勤めてはならないのだという、セルフ執行猶予付きの人生を歩んでいます。
またまたまたしても勝手な連帯を持って言うのですが、俺たち、人一倍ビビリな性格だと思いませんか???世間の方々から「あなたみたいに強くなるにはどうすればいいですか」などと聞かれたりするのですが、逆、逆、逆、強いんじゃなくて弱いんだよ、弱いから強がるんだよ、極真空手の大山倍達も「恐怖を感じるのは真っ当である。恐怖を感じるからこそ、対策が取れるのである」的なことを言っていました。ビビりながら、ビビりを超越する。死を拒絶しながら、死と手を繋ぐ。連いて来れない奴は置いて行くと同時に、全員連れて行く。自分の家族は自分とは関係ない存在であると思いながら、一族の血を生きる。これらは決して交わることなく、一つの体の中に同時に強烈に存在する。これが真髄なのかなと思います。
壇珠さんの「セルフ執行猶予付きの人生を歩んでいます」との言葉に、声をあげて笑いながらも、同時に強烈な切なさを感じました。わかる。めちゃめちゃわかる。俺たちいつでも檻の中。だからこそ、一般企業で働いちゃならねえとか、カタギを巻き込んじゃならねえとか、女子供を泣かせちゃならねえとか、謎の自制心だけは人一倍発達したのだと思います。自分をおかしいと思うからこそ、自分を律する無数のルールが必要だった。泣ける話じゃありませんか。この世で一番いたいけで、この世で一番いじらしいではありませんか。
先日、ショーシャンクの空にという映画を見ました。無実の罪で刑務所にぶち込まれた男性が脱獄をする話なのですが、ああ、彼は俺だと思いました。セルフ執行猶予の檻の中から、精神的な脱獄を図る。この、愚かな自作自演こそが俺なのだと思いました。アメリカの刑務所にぶち込まれた主人公は、メキシコにある海岸沿いでホテルを開業することを夢見ます。刑務所の仲間は彼の夢を無理だと笑うのですが、彼は夢を信じ続けて、脱獄の穴を掘り続けました。太平洋の別名は「記憶のない海」と言うそうです。過去も未来も全部がなくなり、生きている今が明瞭に輝く。そんな桃源郷のような場所を彼は夢見て、希望は素晴らしいものだとか言いながら、夢を実現させるのです。
死ぬことに対する恐怖から人間を解き放つことを夢見る私は、記憶のない海になりたいのだと思います。記憶のない風神に、記憶のない雷神になりたいのだと思います。歩く災害に、生きる治外法権に、天下無敵の無一文になりたいのだと思います。海に抱かれるか、俺に抱かれるか、お前の好きな方を選んでくれと言いたいのだと思います。海(※俺でも可)に抱かれて、すっからかんになって、すっからかんなまま幸せになってくれと言いたいのだと思います。記憶のない海で、水を掛け合ってじゃれあう風神雷神になりたいのだと思います。ものすごく異様で、ものすごく美しい、映画のワンシーンにはならないような、それでいて、俺たちの心のワンシーンには永遠に残り続ける、メモリアルな時の重なりを生きたいのです。
長々と書いてしまいました。普段の記事は三十分程度で書いているのですが、往復書簡には三時間かけて書いています。これだけの熱量を込めて、何かを伝えたいと思わせてくれる人がいることの歓喜!!俺たちいつでも檻の中!!セルフ執行猶予付きの人生ならば、セルフ脱獄を図り続ける往生際の悪い人生でも、悪くないですよね?!?!悪くないと言ってくれ!!神よ!!仏よ!!風神よ(※雷神も可)!!俺たちいつでも塀の中。ヘイヘイヘーイ。口説き文句は「ヘイ彼女、脱獄しない?」。脱獄しよう。そうしよう。俺たち、この世で一番ファンキーで、この世で一番ラブリーな、極彩式の脱獄ブラザーズになりやしょう!!
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