感謝している人がいる。
なんてことはない、ありきたりな話だ。
他の人からすれば、なんて生ぬるい経験だと笑われるかもしれない。
それは、父の商いで
それにもかかわらず不用意に路地裏に足を踏み入れてしまった私は怪しげな者たちにとり囲まれていた。
抵抗し声を上げかけた私に苛立った者が凶器を振り上げ、振り下ろす。
その瞬間、乱入者が現れた。
気づけば、取り囲んでいた者たちは地に伏していた。
乱入者だけが立っている。
私はへたり込んでいた。
彼らが私を狙った目的が何なのか、彼らが何者だったのかは私にはわからない。
当時
そんなことはどうでもよかった。
私は目を見開いて、それを見た。
乱入者は
そして、振り向く。
空色の虹彩に囲まれた瞳がこちらを見た。金の髪の一部がフードからこぼれる。
それ以外の詳しい容貌は、目から下を覆う覆面に阻まれている。
暗く薄汚れた悪意うごめく路地裏で、それは場違いに高潔な存在─まるで闇の中の光─に見えた。
ただその光景が、
その乱入者は、そのまま体ごと私の方に向き直る。
正面から見るとフードの中には細く長い耳がかろうじて確認できた。
外套の隙間から除くのはブーツやショートパンツ。
私は呆気にとられていたが、それでも頭は無意識下で仕事をし、視覚情報を総合し乱入者はエルフの女性だろうと判断した。
『彼女』に助けられたのだ。
それを理解しつつ、私は呆気にとられたまま動き出すまでしばしかかった。
その間に近づいてきた彼女は、私に「無事ですか」と声をかけた。
その声で確信する。
やはり女性──というより、少女だ。
かすれる声で私が返事した直後、「どこだリオン!」という大声を聞く。
同時に現れたのは幼女──いや、
道にバタバタと人が倒れている光景に目を見張った
「ったく一人で……やがって……」「ダンジョン……に………なよ」
毒のない声音で小言らしきことを言い終えた後、
そしてその場を
彼女は道すがら、「慣れない場所で路地裏に一人で足を踏み入れないほうがいい」「大通りでも気を抜いてはいけない」と私に説教する。
同じことを父に言われたときは幼稚な反抗心を燃やしてしまったものだが、実際に危ない目にあった今、そしてその危機を救ってくれた張本人に言われた今は真摯にその言葉を受け止めることができた。
私は頷いた。
別れの直前、今の今まで礼を忘れていたことに気づいた私は、なんとか感謝の言葉を滑り込ませ、続いてお礼はどうしたらいいかと尋ねた。
見上げる私に「貴方はそんなことを気にしなくていい」と言い残すと彼女は俊足で去っていった。
追いかけて礼の話を食い下がろうかと思ったが、それは再び一人で路地裏に入ることになるので踏みとどまった。
私達人類は、一部の例外を除き非力な存在だ。
だが、【
あのエルフの少女は『恩恵』を授かっているのだろう。
さらに、都市外で『恩恵』持ちの戦いを目にしたことのある私は、その者たちと彼女との間には越えられない差があると感じた。
彼女はきっと器の昇華に至っているのだろう。
歩きながら考え事をしていると、襲撃の衝撃でざわめいていた心が落ち着きを取り戻してきた。
子供ながら商いの世界を見て育ってきた私にとって、彼女の言動―─危険に飛び込んで見知らぬ他人の危機を救っておきながら見返りを求めないこと―─が理にかなっているとは思えなかった。
普通は──そう普通は、そんな事があれば裏を疑う。
だが、あのエルフの少女には、その『理』や『普通』は当てはまらない気がした。
礼をすることはできなかったが、感謝の言葉は何とか伝えられたので良しとしよう。
あとはこの感謝の念をいつまでも忘れずにいようと心に誓った。
そして目を閉じ、目に焼き付いたあの光景を瞼の裏に映す。
きっと、生涯忘れまい。
父のところへ戻った私は、起こったことを話した。
言いつけを破り危険な目にあった件を叱るのもそこそこに、父は猛った。
「借りはすぐ返せ!負債を残すな!」と言う。
つまり、礼をしろというのだ。
礼を断られたと言う私に父は再度雷を落とし、何がなんでも礼をすることを約束させた。
とはいえ、自己紹介など交わしておらず、相手の顔すら覆面で満足に確認できていない。これでは礼をする先がわからない。
私は途方に暮れそうになった。
しかし、そこで思い出す。
つまり彼女たちは冒険者で、エルフの彼女は『リオン』の名で通っているのではないか。
それらをヒントに調べ始めると、そこからは早かった。
【アストレア・ファミリア】の【疾風】だ。
覆面という情報すら特定に一役買った。彼女は普段から覆面で活動しているらしいのだ。
【アストレア・ファミリア】は、近年
なるほど、と私は思った。
きっと私を助けてくれたのも、『正義』の行いだったのだ。
彼女に、そして彼女の所属する【アストレア・ファミリア】に、改めて感謝した。
恩人がどこの誰かを特定した私と父は、すぐに行動を起こした。
ギルドを訪れ『献金』手続きを取る。
これは眷族ではない一般人が【ファミリア】を支援するための制度で、ギルドに一定の手数料を取られる代りに【ファミリア】側を煩わせることなく確実に対象の【ファミリア】へ送金できるものだ。
【ファミリア】への支援という括りであれば信者達によるものもあるが、そちらは特定の【ファミリア】に縛られ、様々な
より気軽かつ何にも縛られずに支援するには、この制度を利用するのが手っ取り早かった。
もちろん、不正な取引に使われないよう、送金する側の身元確認は必要となるし、【ファミリア】側に脅されていないかは入念に確認される。
なお、父からはこの制度を活用せず直接相手の
『献金』には短いメッセージを添えることができた。
ただし【ファミリア】へ私的な要求を記載することは禁止されている。
仮にギルドの確認をすり抜けて私的な要求を書けたとしても【ファミリア】がその通りに動くとは考えられないし、そもそも【ファミリア】側が逐一メッセージを確認しているとも限らないが。
メッセージはあくまで、添え物だ。
大多数の『献金』者にとっては、無くたって別にいいものだ。
手続きは、先に父がした。
救われた子の父親として礼をこめ、金額とメッセージを記載していく。
そしてその手続きの流れを手本として、私もなけなしの小遣いをつぎ込み、メッセージを添えた。
『 』
ある日の夕方、滞在先で父の帰りを待っていた。
夕日が市壁の向こうに消えてしばらく、茜色だった空が色を失っていく頃、突如、窓の外から大きな音が聞こえた。
ビクリと身を縮める。
やがて、物騒な音が遠くから近づいてきた。
こわごわと窓から通りを窺うと、数人の男女が入り乱れ、追いつ追われつ戦っているのが見えた。通行人が逃げていくのも見える。
どこの誰が何故争っているのかは、私にはわからなかった。
戦場の中から【アガリス・アルヴェシンス】!という叫びが上がった。
直後、赤髪の少女が燃え上がった。
誰かが少女に炎の攻撃をしかけたのかと思ったが、ほどなく、そうではないらしいと気づいた。
両手足と得物だけが炎に包まれている。
それは私が生まれて初めて目にする
だんだんと暗くなってゆく街の通りの真ん中で、あかあかとした炎をまとったその少女は一段と目を惹いた。
戦う者たちは激しく動き回り、戦場は別の場所へと移っていく。
視界から消えていった戦いの結末を私は知らない。
しばらくして、父が無事に帰ってきた。
その日の夕食時、同席した大人たちから、炎をまとっていた少女が【アストレア・ファミリア】の団長だと聞いた。