あなたは「呼び屋」という職業をご存じだろうか。海外のアーティストを招いて公演を実現させることを生業とする彼らは、長年に渡ってその手腕で日本の音楽史を彩ってきた。
本書の著者は、マドンナやボン・ジョヴィの日本初公演を実現させるなどして、呼び屋として名を揚げた。茨城県の小さな村で生まれた男は、いかにして多数の著名なアーティストを日本に招聘できるほどの大物となったのか。
本連載では、『呼び屋一代 マドンナ・スティングを招聘した男』(宮崎恭一著)より一部抜粋・再編集して、50年にもわたって国内外のアーティストと関わってきた著者の人生の軌跡と、彼が支えてきた日本の音楽シーンの変遷についてお届けする。
『呼び屋一代 マドンナ・スティングを招聘した男』連載第9回
『楽屋で「来日コンサートをやらない」と“大騒ぎ”の末、しぶしぶ「開演」…不服だったフレディ・マーキュリーが「30代半ばの呼び屋」を見てステージから手を振っていたワケ』より続く
パトカーの先導でフレディの私邸に招かれる
コンサートが終わって、渡辺美佐さんから「宮崎君、今夜、暇でしょ?」と聞かれました。「フレディの家でホーム・パーティがあるから一緒に来て」と言われ、美佐さんの車に乗せられました。すると、白バイとパトカーの先導がついて、続いて黒いリムジンが2台。最初の車にドラムとベースの二人、次のリムジンにフレディとブライアン・メイが乗り、その後ろに僕らの車、そしてその後にさらにパトカーと白バイが付きました。
驚いたことに、ウエンブリーからフレディの自宅のあるケンジントンまで、信号が全部、青。「なんでですか?」と美佐さんに聞いたら、「クイーンだからよ」という答えです。アッと言う間に到着しました。
ホーム・パーティには、フレディの友人や関係者30〜40人が呼ばれていました。日本人は美佐さんと僕だけでした。そこに「ワム」のジョージ・マイケルが来ていたのです。僕は彼の大ファンだったから、片言の英語で「君のコンサートを日本でやりたい」とか言って話していました。その様子をフレディはじっと見ていたのです。
そのあと、フレディとブライアン・メイによるリクエストタイムという余興があって、フレディが突然僕のところに来て、「ザック、リクエストしてくれるか」と聞くんですよ。僕は「ザック」という愛称で呼ばれていました。