あなたは「呼び屋」という職業をご存じだろうか。海外のアーティストを招いて公演を実現させることを生業とする彼らは、長年に渡ってその手腕で日本の音楽史を彩ってきた。
本書の著者は、マドンナやボン・ジョヴィの日本初公演を実現させるなどして、呼び屋として名を揚げた。茨城県の小さな村で生まれた男は、いかにして多数の著名なアーティストを日本に招聘できるほどの大物となったのか。
本連載では、『呼び屋一代 マドンナ・スティングを招聘した男』(宮崎恭一著)より一部抜粋・再編集して、50年にもわたって国内外のアーティストと関わってきた著者の人生の軌跡と、彼が支えてきた日本の音楽シーンの変遷についてお届けする。
『呼び屋一代 マドンナ・スティングを招聘した男』連載第12回
『“東京ドームで夢の4日間“…「スティング」とBOØWYのボーカル「氷室京介」がジョイント・コンサートを実現できたワケ』より続く
全国ツアー中にまさかのトラブル
それからまもなくして(90年ごろ)、僕は西武を辞めました。いろいろ揉めることがあったからです。それである人と共同で招聘会社を始めたのですが、相性が合わなくてそれも半年で辞めることになりました。そして今度は自分の会社「ザックコーポレーション」が呼び屋としての舞台となるわけです。
最初に手掛けたのが92年1月の「スティング」の来日公演。彼を直接手掛けるのは2回目で、全国10ヵ所を予定していました。ところが、来日コンサートの最中、2公演が終わったあとのオフの日に、スティングは知り合いとゴルフに行って風邪をひいてしまうのです。
彼が「ゴルフに行きたい」と言うから、僕は「こんな寒いときに行くのか」と引き留めたのですが、彼は言うことを聞きませんでした。僕は「君は自然を守る運動をやっているけど、ゴルフ場は自然破壊の最たるものだ」と嫌味を言ったのですが、彼は「趣味と信条は別だ」とか言って出かけてしまったのです。