〈 Chapter1 〉 誰の "関心" の事を言っているのか
〈 a 〉 『 関心領域 』…… 、このタイトルは誰に向けられているのか、誰を暗に非難しようとしているのか、誰を不安にし怖がらせようとしているのか、このことを今一度よく考える事で、その試みが上手くいっているのか、上手く観せる事に成功しているのか、を判断する事が出来るでしょう。
〈 b 〉 ジョナサン・グレイザーの言葉に従うなら、このタイトルは観客に向けられている。収容所と壁で仕切られて隣接するルドルフ・ヘス所長の家での日常生活の方のみを描き出す事で、ここでは描かれない収容所の異常な残酷性を、日常の家庭がその余白で予感させるという間接的恐怖を与える訳ですね。
〈 c 〉 通常ならば、一家の日常を描く事は、人間の幸福の方へ向かったり、その逆で一家の悲惨な未来へ向かう、などのいずれにせよ、一家自身の人生に関わる事に繋がるものなのですが、この映画においては、一家の日常が隣接する収容所の地獄とはまるで無関係であるかのように成立する日常が描かれる。つまり、収容所の地獄を直接的に描き出す恐怖ではなく、隣接するその地獄に無頓着でいるという "無関心性" が収容所を取り囲む "縁" となる事 ( 壁はまさにその比喩となっている )で、その内部ではあたかも残虐行為は何も起きてはいないかのような疑似ゼロ度の恐怖を与えるのです。
〈 d 〉 しかし、そうすると、この映画のタイトルは一家の収容所に対する無頓着性・無関心性の事を示しているのか、と思う人も出てくるかもしれない。しかし、そうではない。一家の主人であるルドルフ・ヘスは同時に収容所の所長であるのだから、ユダヤ人について、その処遇・管理という点で誰よりも関心を持ち続け、その職務に邁進していた。ただし、この場合、ユダヤ人は尊厳のある "人間" としてではなく、"もの ( Das Ding )" として関心を持たれている。パゾリーニが『 豚小屋 ( 1969 ) 』でユダヤ人を家畜のように扱うナチスを暗に批判する意味で持ち出す "もの性" でもある。
〈 e 〉 とするならば、『 関心領域 』とは、関心を持たれるべき領域が、無関心性の向こうには実在する事を示しているのであり、その無関心性はヘス一家と同様に、外部の私たち観客によって担われている。自らの日常生活に没頭する外部への無関心性は、その日常が恐るべき地獄と壁一枚で隣接し地続きとなっている事への無知でもある。ジョナサン・グレイザーは、この無知である故の地獄への無関心を観客に反省的かつ恐怖的に味合わせようとしていると言える。観客である私たちの日常のすぐ隣側には未知の地獄があるのかもしれないのに、それに無関心・無頓着である事の怖さがあるという訳です。
〈 Chapter2 〉 "関心と無関心" 、または "主体と対象" の弁証法的絡み合い
〈 a 〉 さて、ここで避けたいのは、無関心は良くない、歴史的な悪行を忘れないようにすべきだ、などという疑似道徳的な短絡判断です。この映画はナチスの悪行を告発する事に焦点を絞った倫理的作品とは少し趣が違うからです。例えば、スピルバーグの『 シンドラーのリスト 』や、クロード・ランズマンの『 ショア― 』などのように、ナチスの犠牲になったユダヤ人を崇高な対象へとして、その対象の方に、私たち外部の観客主体が無関心性の殻から脱け出して歩み寄らざるを得ない強力な倫理的作品がある。
〈 b 〉 しかし、『 関心領域 』は違う。倫理性を訴えているのではない。哲学的に考えるならば、対象に向かう以前の無関心な主体であること自体が、主体それ自体の根源的かつ病的な成立条件である事を無意識的に描き出している。私が他人ではない私であること自体が他人への無関心性と引き換えに成立している事の存在論的恐ろしさがそこにはある。
〈 c 〉 他者 ( 対象 ) の崇高性を全面的に認める、あるいは屈服してしまっては、主体は自分が存在しなくとも他者の全能性に揺るぎないとして存在する事が出来ない。例えば宗教においては、その信仰者は私がいなくとも神は存在すると考える。私がいなければ神は存在出来ない、とはならない。つまり、極端に考えるならば、主体は自らが存在する事自体の、他者を無視した原罪を負っているのであり、だからこそその取り除けない原罪の贖罪の為に神に従属するというキリスト教的パラドクスが発生する事になる。この意味で古代の教父アウグスティヌスは人間主体の成立における精神分析的真理を述べていたと解釈する事が出来るでしょう。
〈 d 〉 このように主体はどれほど他人に依存しているように見えても、根源的には他者の崇高性・存在性を無視して、または無関心になってしか生き続ける事が出来ない ( 例えば経済的に自立出来ず庇護下にある子供が自分の主体性を親に激しく主張するように )。そうでなければ主体は他者の崇高性の前にして自分の姿を消すことしか出来なくなってしまう。主体が生き続ける事には、他人の存在性を無視する・無関心になる事と引き換えになっている恐るべきトレード関係が秘かに含まれている。
〈 e 〉 これこそがヘス一家のみならず観客の私たち主体が主体で在り続ける限り避ける事の出来ない罪であり、存在論的恐怖なのです。なので『 関心領域 』はたんにナチスとその一家の罪を描いているのみに留まらず、観客に人間主体それ自体の無関心的存在性の恐ろしさを反省的に与えているといえる。
〈 Chapter3 〉 『 関心領域 』における箱型構図
〈 a 〉 最後に付け加えておきたいのは、『 関心領域 』における特徴的な箱型構図です。その構図は、真正面からの横への拡がりを捕らえた空間性の箱型ショット ( 庭から映し出される家など ) にたんに留まるのみならず、そのショツトの中のセット自体も箱型になっていて混成的な箱型構図を形作っているというものです。
〈 b 〉 以上の箱型構図を見てピンときた方もおそらくいるでしょう。これは、ジョナサン・グレイザーが撮影を担当したジャミロクワイのMV『 Virtual Insanity ( 1996 ) 』の構図と同じものだ、と。
〈 c 〉 ジャミロクワイ ( これはバンド名 ) のジェイ・ケイが動いているかのように見える床 ( 撮影費用の制約上、実際には壁を動かしている ) の上で柔らかく滑らかに踊る印象的なMVを覚えている人も多いでしょう。興味深いのは、その歌詞からも分かるように『 Virtual Insanity 』の世界観は、テクノロジーの進歩が利益をもたらすのと同時に、人間を自由に生きずらくする閉塞性の中に追い込んでいるという危惧を訴えるものです。
〈 d 〉 その閉塞性のモチーフは圧迫的な壁で取り囲まれた箱型セットとして表わされ、その窮屈な空間の中でもジェイ・ケイはしなやかに踊る事で何とか閉塞性の中で生き延びようとする人間の様子をパフォーマンス化している ( 彼のこの閉塞性モチーフは人々が行き交う日本の地下街からインスパイアされている )。
〈 e 〉 ジェイ・ケイが提示した閉塞性モチーフをセットで具現化したジョナサン・グレイザーは、このアイデアを再生産して『 関心領域 』で使用している。彼はたんに人間の動きを無条件に撮るのではなく、箱型構図を固定化し、その制約の中で動く人間を撮る事で閉塞性をより強調するのに成功している。その構図は余りにも滑らかに溶け込んでいるので、注意して観ないとスルーしてしまうでしょう。
【 END 】