2025年03月06日

令和6年版中学校歴史教科書Ⅱ(15)倭寇---全社が前期倭寇の中に朝鮮人の存在を記す

かつては〈日本人は倭寇で中国と韓国を苦しめた〉という物語が存在した

 倭寇については、以下の3点の分析項目を設定した。
  ①前期倭寇に朝鮮人や中国人も入れているか
  ②後期倭寇が中国人中心と書かれているか
  ③倭寇の多面的性格が書かれているか


 この3点から教科書を評価すると、平成27年版と比べると少しの改善ではあるが、平成18~23年使用版と比べると相当に改善されたなという感じである。10数年前までは、倭寇に関しては〈日本人は倭寇で中国と韓国を苦しめた〉という物語が語られていた。それゆえ、前期倭寇の中に朝鮮人や中国人がいたことを隠してしまうのが多数派であった。しかも、後期倭寇にそもそも触れないか、触れても中国人が中心だったことを隠してしまう教科書が多数派であった。しかも、倭寇が海賊である同時に、或いは海賊である以上に商人であったことを記さない教科書も半数ほど存在した。 *拙著『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社、2009年)参照。

改善された倭寇の記述

 しかし、今回の検定合格本を見ると、全社が➀の前期倭寇に朝鮮人や中国人も入れている。それどころか、山川出版は「日本や中国、朝鮮半島など、さまざまな地域に根ざした人々」としているし、自由社は単元本文で「日本人のほか朝鮮人が多数ふくまれていました」と記すとともに、「倭寇」の絵のキャプションで「朝鮮側の史料には、朝鮮の民が日本人の服を着て徒党を組み、乱暴を働く者が多く、倭寇のうち日本人は10 ~20%といわれています」とも記している。
 
 また②の後期倭寇についても、日文、教育出版、山川出版、自由社、育鵬社の5社は中国人中心と明記しているし、東京書籍と学び舎は明記しないものの、16世紀の記述として「中国人の倭寇の船」(東京書籍)と「倭寇の中心人物、王直の交易船」(学び舎)としている。後期倭寇は中国人中心であったと読める書き方を、帝国書院以外の全社がしていることが注目される。
 
 さらに⓷の倭寇の性格であるが、これについても貿易に従事したことが全社で書かれている。ともかく、倭寇については、著しく改善されたといってよいだろう。歴史学の成果が反映されるようになっただけなのか、一種の「つくる会」効果なのか、明確には分からない。両者とも当てはまっているように感じる。
 


令和6年版中学校歴史教科書Ⅱ(15)倭寇

〇東京書籍
①前期倭寇……朝鮮人・中国人も多数
②後期倭寇……明確に書かれないが、鉄砲伝来の部分で「中国人の倭寇の船」
③倭寇の多面的性格が書かれていない
備考④倭寇の蛮行有り。余り誇張なし
①③④
第3章2節「ユーラシアの動きと武士の政治の展開」
単元3【東アジアとの交流

■日明貿易
 14世紀になると、中国では漢民族が明を建国し、モンゴル民族を北に退けました。同じころ、西日本の武士や商人、漁民の中に、集団で船をおそい、大陸沿岸をあらして品物をうばう者が現れ、倭寇と呼ばれました。
 足利義満は、明の求めに応じて倭寇を禁じる一方、正式な貿易船に、明からあたえられた勘合という証明書を持たせ、朝貢の形の日明貿易(勘合貿易)を始めました。日本は刀・銅・硫黄・漆器などを輸出し、かわりに銅銭・生糸・絹織物・書画・陶磁器などを大量に輸入ました」(84頁)。
側注⓵ 倭寇の中には、日本だけでなく朝鮮や中国の人もいました。いったん収まった倭寇の活動は、16世紀になって再び活発になりましたが、明の軍によってしずめられました。
*前回は側注⓵
倭寇のなかには、朝鮮人や中国人など、日本人以外の人々も多くいました。(80頁)
 傍線は前々回無かった部分

・倭寇と明軍の戦いの絵(84頁)

第4章1節「ヨーロッパ人との出会いと全国統一」
単元3【ヨーロッパ人との出会い】

■鉄砲の伝来
1543年、ポルトガル人を乗せた中国人の倭寇の船が種子島(鹿児島県)に流れ着きました。このポルトガル人によって日本に鉄砲が伝えられました。 (104頁)
・後期倭寇について、倭寇が国際的な商人であることが、きちんとは書かれない。


〇日文
➀前期倭寇……朝鮮人・中国人も含まれていた。
②後期倭寇……中国人中心
③倭寇の多面的性格が書かれている
①③
第3編「中世の日本と世界」
3節「室町幕府と下剋上」
単元2【東アジアとの交流――求められた倭寇のとりしまり】

■明とのかかわり
 日本では南北朝時代のころから、九州北部の島々や瀬戸内の武士や商人などが、朝鮮や中国との貿易を行いました。それらの人々はときには海賊となって朝鮮や中国大陸沿岸をおそったので、倭寇とよばれておそれられました。このころの倭寇には、日本のみならず、朝鮮や中国の人々も含まれていました。明は、倭寇をとりしまるため、民間の貿易を禁止しました。足利義満は明の求めに応じて倭寇をとりしまる一方、日本国王として明に朝貢するかたちをとって日明貿易を始め……(88頁)
側注②こののち16世紀に明において密貿易が盛んになるにつれて、倭寇の構成員の多くは中国人となりました。 (88頁)
・倭寇と明軍の戦い、略奪する倭寇、二つの絵(88頁)

〇教育出版
①前期倭寇
 ……日本人中心、中国人、朝鮮人
②後期倭寇……中国人が大部分
③倭寇の多面的性格……「密貿易」
備考④倭寇の蛮行有り。余り誇張なし
①②
第3章「中世の日本と世界」
2節「ユーラシアの動きと武家政治の変化」
単元9【行き交う海賊船と貿易船】

■倭寇の出現
 14世紀に入り、日本や元・高麗の国内が乱れると、倭寇の活動が活発になりました。倭寇は、松浦や対馬・壱岐(長崎県)などを根拠地にして、密貿易を行ったり、朝鮮半島や中国の沿岸を襲い、食料をうばったり、人をさらったりしました。このころの倭寇は、日本人が中心でしたが、中国や朝鮮半島の人々も加わっていました。(78頁)
側注欄◆【解説】倭寇
 古くから九州北部や瀬戸内海の沿岸に住み、交易をして暮らす人々の中から、武装して海賊をはたらく者が現れました。朝鮮半島や中国の人々は、彼らを倭寇とよんで恐れました。倭寇の活動は、15世紀になると一時おとろえましたが、16世紀に再び活発になりました。このころの倭寇は、中国の人々が中心でした。(72頁)
・倭寇と明軍の戦いの絵 (128頁)


〇帝国書院
➀前期倭寇……日本人中心+朝鮮人・中国人
②後期倭寇……日本人が中心であるかのように書く。
③密貿易や海賊行為
①③
第3章第2節「武家政権の内と外」
単元3【東アジアの交易と倭寇】

■倭寇の出現と明の成立
 南北朝の内乱が続いていた14世紀半ばから、東シナ海では倭寇の活動が盛んになり、朝鮮や中国を苦しめていました。倭寇は、松浦地方(長崎県・佐賀県)や対馬・壱岐(長崎県)などを根拠地とし、密貿易や海賊行為をしていました。このころの倭寇は、日本人が中心で、ほかに朝鮮人や中国人なども加わっていたと考えられています。(86頁)
・倭寇と明軍の戦いの絵 (86頁)

第4章第1節「大航海によって結びつく世界」
単元3【東アジアの貿易と南蛮人】

■東アジアの中継貿易
 東アジアから東南アジアにかけての貿易は、15~16世紀を通じて中国の商工業の成長とともに行われ、ヨーロッパ人の来航以前から盛んでした。中国の明は、外国から貢ぎ物を受けて返礼する形で貿易しており、公式には自国から海外へ商人を派遣できませんでした。そのため、代わりに必要な産物を集める琉球の貿易船や倭寇などが中継貿易を盛んに行いました。 (112頁)。
■「鉄砲の伝来」
 1543年、種子島(鹿児島県)に漂着した倭寇の船に乗っていたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝わったとされています。(112頁)
・「倭寇」に付いた側注⓵ 密貿易や海賊行為を行う集団で、日本人や中国人、朝鮮人など、さまざまな人が一緒に活動し、日本人があまりいない集団もありました。 (112頁) ……後期倭寇について、このように書くとは?
 

〇学び舎
① 前期倭寇……日本人中心だが、日本人と朝鮮人ということか。
②後期倭寇……中国人中心と明記せず。ただし、「倭寇の中心人物、王直」という記述
③後期については多面的性格、前期については海賊
④倭寇の残虐性と朝鮮側の勇敢さを詳細に描写。真偽不明確。

第2部第3章「武士の世」
単元9【境界に生きる人々―14世紀の東アジア-】

■倭寇とよばれた人たち
1380年7月、朝鮮西岸の錦江河口に、武装した一隊があらわれ、川をさかのぼって村々をおそいました。家を焼き、米や財産をうばい、人を連れ去りました。8月には内陸にも侵入し、これを防ごうとした高麗の将軍を戦死させました。高麗や明では、このような人々を、倭寇とよんでおそれました。
9月にも、倭寇が錦江上流の山城を攻めました。このなかで目立った働きをしたのは、阿只抜都(ルビはアキバツ)という15~16歳の青年でした。阿只抜都は、敵が戦うのをさけたほど、勇敢でしたが、高麗の武将・李成桂の強い弓によって倒されました。この青年は済州島の生まれだともいわれています。東シナ海では、さまざまな出身の人びとが、海を生活の場として、活動していました
(72頁)
■朝鮮王朝の成立
14世紀の後半は、倭寇がもっともさかんな時期でした。南北朝の内乱の影響もあって、有力な領主や悪党なども人さらいや略奪をおこないました。このころ、倭寇の日本での主な根拠地は、九州の島々でした
 朝鮮・中国は日本に、倭寇の取りしまりを要求しましたが、九州地方には、まだ室町幕府に従わない勢力がありました。
 李成桂は、倭寇の制圧に功績をあげ、1392年、朝鮮王朝を開きました。李成桂は、倭寇の根拠地だった対馬に攻め入りました。また、降参して従った倭寇には、土地や官職をあたえて、略奪をやめさせました。
朝鮮王朝は、儒教を重視して国づくりをすすめ、都から役人を派遣して政治をおこなわせました。きびしい身分制度もとり入れました。 (72-73頁)
■明を中心とした東アジア世界
②③
第3部「近世」
第4章「世界がつながる時代」
単元3【倭寇がもたらした火縄銃―鉄砲とキリスト教―】

■火縄銃の伝来
1543年、種子島(鹿児島県)に、1隻の大きな船が流れつきました。船に乗っていた2人のポルトガル人は、もっていた火縄銃を試し撃ちして、島の人びとをおどろかせました。銃は東南アジアでつくられたものと考えられています。
この船は、東アジアの海をさかんに行き来し、活動していた倭寇の中心人物、王直の交易船であったことが明らかになっています。硝石や硫黄など、火縄銃には欠かせない品々の交易もおこなっていたようです。(92頁)

〇山川出版
➀前期倭寇……日本や中国、朝鮮半島など、さまざまな地域に根ざした人々
② 後期倭寇……中国人中心
⓷倭寇の多面的性格……「密貿易」、海賊
➀②
第3章「中世の日本」
2節 武家社会の成長
単元3【東アジアの変動と日本の国際関係】

■東アジアの変動と倭寇
元(モンゴル)の支配力はおとろえ、各地で反乱が起こり、中国では元から明へ、朝鮮半島では高麗から朝鮮へ王朝が交代した。
 こうした変化は、東シナ海で行われていた貿易活動にも混乱をもたらし、日本や中国、朝鮮半島など、さまざまな地域に根ざした人々が中国沿岸部や朝鮮半島をおそうようになった。これらは倭寇と呼ばれておそれられた(前期倭寇)。倭寇をどのようにおさえこむかが、東アジア諸国に共通する国際課題となった。
■明の海禁・朝貢体制と勘合貿易
 明は、治安の回復を図るために、倭寇の活動や民間の海上交易を禁止し(海禁)、そのかわりに、各国からの朝貢使節に対してのみ貿易を許す体制をとった(朝貢体制)。これによって、各国の王に倭寇を取りしまることを義務付けた。 (86頁)

第4章「近世の日本」
2節「近世社会の成立」
単元1【ヨーロッパ人との出会い】

■鉄砲伝来と倭寇
 15世紀末ごろから、東アジア諸国の間では、明の弱体化にともない、朝貢貿易に対する関心がうすれていった。また日本では、勘合貿易の実権が、室町幕府から有力守護大名の細川氏や大内氏に移り、それぞれの派遣した船が中国で争うなど、外交上の混乱がしばしば起こった。混乱の中で、中国人を中心に倭寇(後期倭寇)の動きが活発となり、16世紀半ばには密貿易が盛んに行われるようになった
 1543(天文12)年、中国の商人(倭寇)の船に乗って、ポルトガル人が種子島に来航した。(112頁)
・「倭寇図鑑」の絵……東書などと同じ絵。
 キャプション「16世紀半ばの東アジアで海賊としても活躍した後期倭寇と、それを討伐した明の軍隊の活躍をえがいた中国の絵画。 (112頁上段)


〇令和書籍
① 前期倭寇……日本人、明国人、朝鮮人。
② 後期倭寇……中国人が大部分
③ 倭寇の多面的性格……「密貿易」を少し書く。
➀②③
第三章「中世」
二「室町時代」
ハ倭寇と日明貿易

 十四世紀前後から朝鮮半島や大陸沿岸部では、密貿易や略奪行為、他の船舶に対して海賊行為をはたらく倭寇という武装貿易集団が活発化していました。倭寇には日本人も含まれていましたが、しだいに明国人や朝鮮人が多くを占めるようになりました。こうしたなか、明の洪武帝は我が国に朝貢と倭寇の取り締まりを求め、九州の大宰府に使節を送り、南朝の懐良親王が明の国書を受け取りました……そのころの明では民間人の海外渡航や海上貿易を禁止した海禁政策を敷いていて…… (156~157頁)

第四章
一安土桃山時代
ハ鉄砲の伝来と南蛮貿易

天文12 (1543)年、ポルトガル人を乗せた倭寇の船が種子島(鹿児島県)に漂着し、我が国に鉄砲(火縄銃)が伝えられました。 (190頁)


〇育鵬社
①前期倭寇……日本人のほかに朝鮮人
②後期倭寇……中国人が大部分
③倭寇の多面的性格……「密貿易」を少し書く。
①③
第2章2節「武家政治の動き」
単元4【室町幕府と東アジア】

■明の建国と倭寇
 14世紀後半の中国では、漢民族によって明が建国され、元は北に追われました。明を苦しめたのは、大陸沿岸一帯に大きな被害をあたえていた海賊でした。彼らは倭寇とよばれました。(84頁)
側注①
 倭寇は前期(14~15世紀)と後期(16世紀)に分けられる。前期は北九州の日本人のほかに朝鮮人もおり、おもに朝鮮半島で活動した。後期はその多くが中国人で、九州や琉球を根拠地として、おもに中国の南沿岸部で略奪と密貿易をくり返した。 (85頁)

第3章「近世の日本」
第1節「ヨーロッパとの出会い」
単元4【ヨーロッパ人の来航】

■鉄砲の伝来とその影響
 1543(天文12)年、種子島(鹿児島県)に流れ着いた中国船にポルトガル人が乗っていました。 (106頁)

〇自由社
➀前期倭寇……日本人と朝鮮人
②後期倭寇……中国人が大部分
⓷前後期とも、倭寇の多面的性格が書かれている
①②③
第2章2節「武家政治の展開」
単元26【東アジアとの貿易と交流】

■日明貿易
 14世紀後半から15世紀にかけて、東アジアは大きく動きました。中国では、1368年、漢民族の王朝である明が建国され、元は北方に追われました。明は、日本に、倭寇の取りしまりを求めてきました。
 倭寇とは、かつて元の襲撃を受けた対馬・壱岐や松浦地方を根拠地とする武装貿易船団で、日本人のほか朝鮮人が多数ふくまれていました。彼らは、ときには数百人にもおよぶ船団を組み、朝鮮半島や中国大陸の沿岸に上陸して密貿易や略奪を行ったり、他の船舶に対して海賊行為をはたらいたりしました。 (96頁)
86頁上段に「倭寇」の絵……他社の絵と同じ。
 キャプション「徒党を組んで沿岸部をおそいました。左側が明船、右側が倭寇。朝鮮側の史料には、朝鮮の民が日本人の服を着て徒党を組み、乱暴を働く者が多く、倭寇のうち日本人は10 ~20%といわれています。(86頁)
②③
87頁上段に「東アジアの海上交易のネットワークと倭寇の経路」
 後期倭寇は中国人を中心とした多国籍集団で、彼らは明の海禁政策をかいくぐり、貿易や海運を行ういっぽう、中国の沿岸を荒らしたので、明は国力を弱めました。また、鉄砲やキリスト教宣教師が倭寇の船によって日本に到達しました。
(87頁)

第3章「近世の日本」
第1節「世界の動きと日本の統一事業」
単元33【ヨーロッパ人の来航】

■鉄砲の伝来とキリスト教の布教
 1543(天文12)年、シャム(現在のタイ)からポルトガル人を乗せた中国船が、暴風雨にあって種子島(鹿児島県)に漂着しました。 (110頁)

  転載自由


ラベル:Ⅱ中世
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posted by 小山常実 at 22:54| Comment(0) | 令和6年版歴史教科書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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