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お洒落と私 [ファッション]
私は、お洒落をするということに 並々ならぬ感情を持っている。
愛着・・・・否、情熱・・・・否、執念・・・・そう、執念といった言葉が相応しいかも知れない。
お洒落のためなら 食べたいものを食べずにいる事も平気だし、「~な服とか着ないの?」の一言で その知人と一切の人間関係を絶った事も一度や二度ではなく、一着の服をどう着ようかあれこれ思い巡らすのは至福の時で 気がつくと二、三時間はあっという間に過ぎていたりする。
本格的にお洒落の世界に足を踏み入れたのは 中学一年の時である。
----勿論、それ以前からも執着はあったのだが、小学校を出るまでは、生活上 親が購入したものの中から歯噛みするほどストレスを感じながらも選択するしか術がなかったのだ。
中学に上り、まとまったこずかいを貰い都心の中学に通うという環境におかれ、私はお洒落の世界の大海原に向かった。
しかし----
新宿 渋谷 銀座 池袋・・・・都内主要都市のデパートやファッションテナントビルの店々の商品を隅から隅まで詳らかに見てまわっても、私の欲する服はなかった。
私は途方にくれた。
トラディッショナル主流の時代であった。
私は当時も そして無論今も、トラディッショナルは最も嗜好に合わないのだ。
己れの青春期に最も嗜好に合わない方向性が流行っている事を恨めしく呪いながらも、それでも毎週末 街々を彷徨うしかなかった。
原宿に降り立った。
その頃の原宿は、ファッション関係や広告関係の事務所が点々と在る 他所の土地のしかも中学生が遊びに来るような色合いの街では まるでなかった。
古着屋があった。 骨董品店があった。 退廃的な後染めの服ばかりの並ぶ 後年で呼ぶところのインディーズブランド直営店があった。
軍物払い下げ品 フェルト帽子 擦り切れた革の箱型鞄 50Sの豹柄コート 古銭 昭和初期の着物 黒マント・・・・
これだ!と思った。 これらに手を加え組み合わせれば 自分の求むるお洒落世界に辿り着ける!と思った。
以降、週末は、学校の専門科目の授業よりも真剣に原宿通いをし、一つ また一つと、服 鞄 靴 アクセサリー及びその材料を買い増やしていった。
心の飢餓感が、一つ また一つと減り、私は解き放たれていった。
※徘句をひとつ挟んで 次々回は、「古着の魅力」を公開しやす。
句読点 [独り言]
文章を書くときには、自分なりにではあるが、句点 読点 一文字空け 一行空け 句点語の無改行 にも心を砕いている。
基本的に、声に出して朗読するときの間(ま)・切り方で それらを振り分けている。
間の短い順に挙げると、一文字空け 読点 句点後の無改行 改行(句点) 一行空け となる。
又、殆ど間をおかない箇所であっても、立てたい言葉の前や 単一の熟語でもないのに漢字が続いたりひらがなが続いたりする場合も 一文字空白を取るようにしている。
読んでくださるかたそれぞれの頭蓋に、私の声が、解り易く 適切なテムポ・リズムで以って すっと届けば・・・・と 思う次第である。


基本的に、声に出して朗読するときの間(ま)・切り方で それらを振り分けている。
間の短い順に挙げると、一文字空け 読点 句点後の無改行 改行(句点) 一行空け となる。
又、殆ど間をおかない箇所であっても、立てたい言葉の前や 単一の熟語でもないのに漢字が続いたりひらがなが続いたりする場合も 一文字空白を取るようにしている。
読んでくださるかたそれぞれの頭蓋に、私の声が、解り易く 適切なテムポ・リズムで以って すっと届けば・・・・と 思う次第である。
タグ:句読点
やせこけた犬 [詩・詞]
魚の骨 さびた釘 鼻緒のちぎれた片方だけのビーチサンダル・・・・
やせこけた犬は そんな物らを前に座っていた
両前足に 守るように抱えながら
うすっぺらいガラスさながらの目玉を まばたきもさせずに
ある日
私は 朽ちた木片を 彼の前に差し出した
やけこけた犬は 尻尾を振って木片を咥えた
次の日
私は へこんだ空き缶を鼻先にかざした
彼はやはり 尻尾をちぎれんばかりに振り 空き缶を抱え 愛おしそうに舐めまわした
その次の日
私は 金彩の施された白磁皿にサーロインステーキを盛り 彼の前に立った
やせこけた犬は 目玉を動かしもしなかった
ステーキの皿を 目の前に突き出した
彼は 小さく「ううう・・・」と 威嚇した
鼻っ面にくっつけた
ガラスの目玉が歪みくぼみ 「わん!」と一声吠えるや 魚の骨らにうずもれるように 身を伏せた
私は嘲笑した
やせこけた犬は
清貧者でも 美徳者でも 強固な精神の持ち主でも何でもないのだった
ただ 己れがやせこけた犬であることを自認したくないだけなのだった
私はサーロインステーキをむしゃむしゃと食みながら やせこけた犬から遠ざかった
うすっぺらいガラスさながらの目玉が怨みがましく光ったまま 小さくなっていった


やせこけた犬は そんな物らを前に座っていた
両前足に 守るように抱えながら
うすっぺらいガラスさながらの目玉を まばたきもさせずに
ある日
私は 朽ちた木片を 彼の前に差し出した
やけこけた犬は 尻尾を振って木片を咥えた
次の日
私は へこんだ空き缶を鼻先にかざした
彼はやはり 尻尾をちぎれんばかりに振り 空き缶を抱え 愛おしそうに舐めまわした
その次の日
私は 金彩の施された白磁皿にサーロインステーキを盛り 彼の前に立った
やせこけた犬は 目玉を動かしもしなかった
ステーキの皿を 目の前に突き出した
彼は 小さく「ううう・・・」と 威嚇した
鼻っ面にくっつけた
ガラスの目玉が歪みくぼみ 「わん!」と一声吠えるや 魚の骨らにうずもれるように 身を伏せた
私は嘲笑した
やせこけた犬は
清貧者でも 美徳者でも 強固な精神の持ち主でも何でもないのだった
ただ 己れがやせこけた犬であることを自認したくないだけなのだった
私はサーロインステーキをむしゃむしゃと食みながら やせこけた犬から遠ざかった
うすっぺらいガラスさながらの目玉が怨みがましく光ったまま 小さくなっていった
タグ:犬
パフェと女の子 [独り言]
とある喫茶店の午下がり----
ちょうど、私の視線の先の席に 一人の女の子が着いた。
胸囲が1メートル50センチほどありそうな ふくよかな、二十代後半くらいの、きつね色の髪が伸びて黒髪とだんだらになった 女の子である。
女の子は、座るやケータイを取り出し、眉間にしわを寄せ 悲痛そうに 店ぢゅうに声を響き渡らせた。
「ねぇ! 5000円しかないんだけど・・・・・・・・はぁ?・・・・それはもう とっくに下ろしちゃったよ・・・だって・・・・・・・・ねぇ5000円でどうやってやっていけばいいの?!」
ここは個人経営の喫茶店なので、メニューの中で最も安いホットコーヒーでも500円はする。
実質4500円である。
こういう店に来てしまって大丈夫なのかなぁ?と 他人事ながら気になっていると----
「・・・どうすればいいのぉ?! ・・・明日ケータイ止められちゃうよ!・・・・・・・・しょうがないって・・・そっ・・そんな言い方ってないじゃない・・・・」
タオル地のハンカチでひーんと目を押さえ、半ば涙声である。
----と、ウェイターが注文を取りに来た。
「チョコレートパフェ」
間髪入れず、案外ふつーに目線を向けた。
そして又すぐに、ひーんとタオル地で押さえ、
「どうすればいいのよぅ~、これじゃあ生活できないよぅ~~」
もはや泣き崩れんばかりである。
ややもして、相手から切られたのか、タオル地を両手で掴み 顔をおおってうつむいてしまった。
メニューを確認すると、チョコレートパフェは850円。
残り4150円----。
ケータイを止められた明日から 4150円であと何日生活しなければならないのだろう?
こんな状況下で 嗜好品であるパフェにお金を使ってしまって大丈夫なのだろうか?
他人事と百も承知の上、ますます気になっていると----
チョコレートパフェが運ばれてきた。
通常の店がテッポウユリならこの店のはカサブランカくらいの特大の器である。
チョコレートソースをぐるぐるとまといつつ 高々とうずまく生クリームの頂上のチェリーの脇には、リンゴの飾り切り、ポッキー 2、3本、のみならず コーンソフトクリームまでささっている。
パフェが置かれるや、彼女は、当たり前の様子でケータイ写真を撮り、幾度もぼたぼたと せり出した胸の上にクリームを落としては大雑把にぬぐいながら、右手の長いスプーンと左手で以って、大食い選手権の最終決戦さながらの勢いで 4、5分で完食した。
そして、再び 両手にタオル地でひーんとやると、レシートをつまみ レジに向かった。
ガラスのカサブランカの内側に、クリームとチョコレートがだんだらに垂れ流れていた。


ちょうど、私の視線の先の席に 一人の女の子が着いた。
胸囲が1メートル50センチほどありそうな ふくよかな、二十代後半くらいの、きつね色の髪が伸びて黒髪とだんだらになった 女の子である。
「ねぇ! 5000円しかないんだけど・・・・・・・・はぁ?・・・・それはもう とっくに下ろしちゃったよ・・・だって・・・・・・・・ねぇ5000円でどうやってやっていけばいいの?!」
ここは個人経営の喫茶店なので、メニューの中で最も安いホットコーヒーでも500円はする。
実質4500円である。
こういう店に来てしまって大丈夫なのかなぁ?と 他人事ながら気になっていると----
「・・・どうすればいいのぉ?! ・・・明日ケータイ止められちゃうよ!・・・・・・・・しょうがないって・・・そっ・・そんな言い方ってないじゃない・・・・」
----と、ウェイターが注文を取りに来た。
「チョコレートパフェ」
間髪入れず、案外ふつーに目線を向けた。
そして又すぐに、ひーんとタオル地で押さえ、
「どうすればいいのよぅ~、これじゃあ生活できないよぅ~~」
もはや泣き崩れんばかりである。
ややもして、相手から切られたのか、タオル地を両手で掴み 顔をおおってうつむいてしまった。
メニューを確認すると、チョコレートパフェは850円。
残り4150円----。
ケータイを止められた明日から 4150円であと何日生活しなければならないのだろう?
こんな状況下で 嗜好品であるパフェにお金を使ってしまって大丈夫なのだろうか?
他人事と百も承知の上、ますます気になっていると----
チョコレートパフェが運ばれてきた。
通常の店がテッポウユリならこの店のはカサブランカくらいの特大の器である。
チョコレートソースをぐるぐるとまといつつ 高々とうずまく生クリームの頂上のチェリーの脇には、リンゴの飾り切り、ポッキー 2、3本、のみならず コーンソフトクリームまでささっている。
パフェが置かれるや、彼女は、当たり前の様子でケータイ写真を撮り、幾度もぼたぼたと せり出した胸の上にクリームを落としては大雑把にぬぐいながら、右手の長いスプーンと左手で以って、大食い選手権の最終決戦さながらの勢いで 4、5分で完食した。
そして、再び 両手にタオル地でひーんとやると、レシートをつまみ レジに向かった。
ガラスのカサブランカの内側に、クリームとチョコレートがだんだらに垂れ流れていた。
タグ:パフェ
映画「ドグラ・マグラ」 [感想文]
全てのジャンルの中で あなたが最も好きな映画は何ですか? と問われたら、私は 寸分たりとも迷うことなく この「ドグラ・マグラ」を挙げます。
同名の夢野久作の怪奇探偵小説を、1988年に日本を代表する映像作家・松本俊夫氏が劇映画化したものです。
シノプシスは、心理遺伝なる遺伝性精神病が在るとの設定の元、一人のその病であるらしい記憶喪失者が彼を治療する二人の医科大博士に別々に導かれ 自身がおかしたらしい心理遺伝に因する殺人事件をひもとかむ、とするものですが、これは まるまる彼が自分を主人公として病室で書いた小説そのものかも知れないし、彼が 寝ては忘却し覚めては同じ謎を追究する日々の一片とも捉えられ、又あるいは、この映画の中で展開する一切は 彼がつかのまに見た悪夢だったのかも知れない----と、様々な解釈の成り立つ あえてつじつま合わなく計算された何層もの複雑な入れこ式構造を取った創りとなっています。
つまり、劇映画なので 見る者は無意識のうちにその脳内で具象的につじつまを合わせようとやっきになりますが、やっきになればなる程、翻弄され 裏切られ 突き放されて、果たして 正常と異常の分け隔てとは一体何なのか?---と、作品テーマを、劇中の主人公の体験のみならず メタシアター的スタンスからも同時につきつけられる仕掛けとなっている訳です。
私個人は、己れの精神がえもいわれぬカタルシスの大海原に解き放たれるのを痛感しない訳にはゆきませんでした。
己が脳細胞の一つ一つが「気持ちいい!」と 歓喜の声をあげるのを聴かない訳にはゆきませんでした。
何故なら、このような構造の劇映画など、当作品を知るまで観たことがなかったからです。
それまで観てきた劇映画というのは、例外なく、喜劇にしろ悲劇にしろ 何者が主役にしろ 何処を舞台としているにしろ 起承転結があり、夢は夢でした 回想は回想でした 妄想は妄想でした、と結論づけられ 疑問を残さず終結する---という作品ばかりだったからです。
勿論、そのような劇映画を否定しているのではありません。
それらの中にも名作は勘定不可能なほど在り、私自身、心底惚れ込んでいる作品が幾多あります。
けれど----
私の中には 常に飢餓感がありました。
「劇映画って もっといろいろあっていいんじゃない? 劇映画の表現って もっと多様な筈でしょ」---と。
そこに カチリとパズルが嵌るように出現したのが、この「ドグラ・マグラ」だったのです。
私は、この作品が世に存在していなかったら、ここまで映画好きにはなっていなかった、と断言できます。
「ドグラ・マグラ」があるから、飢餓を感じずに 安心して 従来の基本にのっとった創りの映画も愉しめる---というのがあります。
私にとって「ドグラ・マグラ」は、己が心が安息に帰りつく場所であり、その他の劇映画は それぞれの距離に越境して遊びにゆく所なのです。
そういった点からも、「ドグラ・マグラ」は、私にとって一種特別な映画といえます。


同名の夢野久作の怪奇探偵小説を、1988年に日本を代表する映像作家・松本俊夫氏が劇映画化したものです。
シノプシスは、心理遺伝なる遺伝性精神病が在るとの設定の元、一人のその病であるらしい記憶喪失者が彼を治療する二人の医科大博士に別々に導かれ 自身がおかしたらしい心理遺伝に因する殺人事件をひもとかむ、とするものですが、これは まるまる彼が自分を主人公として病室で書いた小説そのものかも知れないし、彼が 寝ては忘却し覚めては同じ謎を追究する日々の一片とも捉えられ、又あるいは、この映画の中で展開する一切は 彼がつかのまに見た悪夢だったのかも知れない----と、様々な解釈の成り立つ あえてつじつま合わなく計算された何層もの複雑な入れこ式構造を取った創りとなっています。
私個人は、己れの精神がえもいわれぬカタルシスの大海原に解き放たれるのを痛感しない訳にはゆきませんでした。
己が脳細胞の一つ一つが「気持ちいい!」と 歓喜の声をあげるのを聴かない訳にはゆきませんでした。
何故なら、このような構造の劇映画など、当作品を知るまで観たことがなかったからです。
それまで観てきた劇映画というのは、例外なく、喜劇にしろ悲劇にしろ 何者が主役にしろ 何処を舞台としているにしろ 起承転結があり、夢は夢でした 回想は回想でした 妄想は妄想でした、と結論づけられ 疑問を残さず終結する---という作品ばかりだったからです。
それらの中にも名作は勘定不可能なほど在り、私自身、心底惚れ込んでいる作品が幾多あります。
けれど----
私の中には 常に飢餓感がありました。
「劇映画って もっといろいろあっていいんじゃない? 劇映画の表現って もっと多様な筈でしょ」---と。
そこに カチリとパズルが嵌るように出現したのが、この「ドグラ・マグラ」だったのです。
私は、この作品が世に存在していなかったら、ここまで映画好きにはなっていなかった、と断言できます。
「ドグラ・マグラ」があるから、飢餓を感じずに 安心して 従来の基本にのっとった創りの映画も愉しめる---というのがあります。
私にとって「ドグラ・マグラ」は、己が心が安息に帰りつく場所であり、その他の劇映画は それぞれの距離に越境して遊びにゆく所なのです。
そういった点からも、「ドグラ・マグラ」は、私にとって一種特別な映画といえます。
タグ:ドグラマグラ