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三島由紀夫のハンバーグライスの食べ方 [文学雑記]
かの三島由紀夫は、ホテルのダイナーでハンバーグライスを食べるさい、肉や付け合わせを切り刻み ライスをハンバーグの皿にぶち込み ライスがデミグラ色になるまで混ぜっ返してから食べたという。
そして 同行した編集者に、「ハンバーグはこうやって食べるのがウマいんだよ。 キミもやりたまえ」 と勧めたという。
私はこの逸話を読んだ時、アッパレだ!と 手を叩かずにおれなかった。
三島が憧れ続けた 氏の生い立ちと両極の場所に位置する「穢れた人」の 見事な具現行動だったからである。
---その願望を満たすためなら何をやったって構わないと全肯定は 決してしないが---
周りから 所詮はごっこだと瞬時に見透かされようが、なりたい自分を身を以って具現化してみる価値は十二分にあると思うのだ。
台詞を黙読するだけではなく 動いて声に出して演じてみるのと同様に、やってみなければ絶対に得られない感情やカタルシスがあるからだ。
時々、なりたいであろう自分に対して 口だけでまるで行動の伴っていない人に遭遇する。
例えば、「私って変わってるんですよー」と口癖のように発しながら 何から何まで判で押したように平凡で トレンドばかり追いかけている人---。
せめて、納豆にたっぷりの蜂蜜をたらしてご飯にかけるくらいのパフォーマンスを披露してみてはいかがだろうか。
タグ:三島由紀夫
日本人のライスの食べ方 [独り言]
フォークとナイフで皿に盛られたライスを食べる時、ほわほわっとフォークの背に乗せて食べている人を 相変わらず多く見かける。
あらゆる国の料理を日常的に口にするようになって久しくありながらも、白米を押しつけ潰すことに抵抗のある日本人はそう減っていないという事である。
おそらく、ほわほわと乗せる人は、幼い頃からつやつや炊きたての白米を口にしてき、「ほら!お米が立ってるよ! 美味しそうだねぇ」という大人達の米への誉め言葉を耳馴染ませながら育ち、そういう状態の米こそが美味いのだと信念を持たれているのだと察する。
対して、私なんぞは自慢じゃないが、米に まるで拘りがない。
茶碗にほわりと盛られていようが 洋皿に平たくのばされていようが ぽこりとドーム型に型抜きされていようが、コシヒカリだろうが ササニシキだろうが 古米だろうが 古々米だろうが、柔らかく炊けていさえすれば なんとなく曖昧に納得してしまう。
そして、「うん、白米だ」以上の感慨も以下の落胆も まず抱くことはない。
だから、平気でフォークの背で皿にぎゅーーーっと押しつけ フォークをひっくり返してしゃくり取り ナイフでペタペタやれる。
私は、食べる時は周りの人を不快な気持ちにしさえしなければ その人が美味しいと感じる食べ方をするのが一番だ と考えているので、ほわほわ派の人は、遠慮なく箸やスプーンを所望してよいのではないか と思っている。
※次回は「三島由紀夫のハンバーグライスの食べ方」を公開しやす。
タグ:ライス
もう一度観たい名作「ステイト・オブ・ドッグス」 [感想文]
もう一度観たい---しかし、観ることの叶わない名作映画というのがあります。
1998年製作 モンゴル・ベルギー合作の「ステイト・オブ・ドッグス」も、そんな作品の一つです。
極めて完成度高く仕上げられていながらも、2002年の日本初公開以降 私の知る限り再映はなく、DVD化もされていません。
モンゴルには、「犬は死ぬと人間に生まれ変わる」という言い伝えがあるそうで、その言い伝えを下敷きに、主人に理不尽に捨てられ野良犬となり果てた末、野犬狩りに射殺され、人間を信じられなくなるものの、逡巡の末 男児の命に宿ることを選ぶという 一匹の犬の魂を語りべとした 抒情的ドキュメンタリー作品です。
末端の犠牲者と成らざるを得ない犬の視点で以って、激動のモンゴルに翻弄される人々や容赦なく殺されてゆく犬達が、馬頭琴の奏でや詩を効果的に響かせながら、淡々と映し出されます。
私がこの作品を名作だと思わずにおれない最も大きな理由は----
語りと画との絶妙な距離の取り方にあります。
語りべの犬はパッサルという一匹ですが、映像中ではどの犬がパッサルとも限定されず、幾多の犬が 渇いた街をうろつき 射殺され 大赦色の荒れ地にころがり風化してゆきます。
語られる言葉の意味と画の内容も 必ずしも瞬間瞬間 一致してはいません。
つまり、作品全体が、長編朗読物のイメージ映像に近いニュアンスで、観る者の内側に果てしない世界を広げ、パッサルは あれら一匹一匹 現代モンゴルの犬すべての代弁者であり、ひいては 今は絶望的だけれど明るい光を信じてみようじゃないか、というモンゴル国そのものであるようにも感じられるのです。
是非とも もう一度、否、二度三度・・・勘定しきれないほど反芻したくてならない名作です。
タグ:ステイト・オブ・ドッグス
マニアとは [喫茶店・レストラン・カフェ]
みなさんは、何かのマニアでおられますか?
そして、ご自身を「○○マニアである」と認識される理由は どんなところにありますか?
私・ぼんぼちは、喫茶店マニアです。
映画も自分なりに愉しんではいますが、こちらは決して マニアだという自覚はありません。
---荻野茂二の「寒天」やラルフシュタイナーの「H2O」のようなマニアックな作品が好きなのだからマニアだよ
と言われそうですが、いえ、他人様にそう決定づけられてもいっこう構わないのですが---
現代のハリウッド物のようなジャンルは、招待券を貰うか 目当ての作品と日時やスクリーンを間違えてシートに座ってしまわない限り 観てみようとも思わず、別段、そのジャンルに詳しい人をすごいとも羨ましいとも感じません。
又、どれほど熱烈に好きな映像作家・監督・役者さんの仕事を前にし 感動の波にたゆたっても、「もー、この人の生み出す世界だったら 理屈抜きに何から何まで200%好きーーー!!!」と、脳内回路がショートしてしまうこともありません。
しかし、喫茶店に関しては---
世の中に現存するすべての喫茶店に一度は入ってみたいと常に考えてい、
自分が入ったことのない喫茶店に入ったことのある人が羨ましくてならず、
自分の知らない喫茶店を知っている人を尊敬せずにはおれなく、
入った喫茶店では---
アイスコーヒーが赤銅のマグで出てきたことに 「むむ!これはやるな」と、上体を嬉しく退かせ、
冷やタンが紫色なのは珍しいとVサインとともに記念写真に収め、
ウィンナーコーヒーのウィンナーがバラの花型に絞り出されていることに 乙女の如く「きゃっ!」と声をあげ、
メニューを隅々まで読み 食べもしないのにフルーツパフェがあることに幼子のようにバンザイをし、
身体的に必要としていなくともトイレットに立ち、洗面台のビニールの造花をちょんちょんとさわり、
ナポリタンに見え隠れする赤いウインナに「お久しぶりです」と会釈し、
ウェイターさんが蝶ネクタイであることを確認しては 少年野球の監督さながらに腕組みをして「よし」と頷き、
ガラスを乗せたテーブルに埋め飾られ透け見えるコーヒー豆を 刑務所の面会に来た貧しくけなげな妻のようにガラス越しにいとおしく撫でまわし、
レシートの裏にコーヒーカップのイラスト添えで印刷された「心得十カ条」を 十まで説得力ある口調で朗読し、
窓際の席から仰ぎ見える破れた幌に アラブの地平線を見やるような遠いまなざしで思いを馳せるのです。
マニアとは、全面的に肯定姿勢で対峙し、そうでない人からしたら「だから一体何だというのだ?」と取るに足らない一つ一つに狂乱できる・してしまう・せずにはおれないものではないか、と思うのです。
マニアの語源は、ギリシャ語のmadness(マッドネス)=狂気 で、和訳すると○○マニア=○○狂 なのですから。


そして、ご自身を「○○マニアである」と認識される理由は どんなところにありますか?
私・ぼんぼちは、喫茶店マニアです。
映画も自分なりに愉しんではいますが、こちらは決して マニアだという自覚はありません。
---荻野茂二の「寒天」やラルフシュタイナーの「H2O」のようなマニアックな作品が好きなのだからマニアだよ
現代のハリウッド物のようなジャンルは、招待券を貰うか 目当ての作品と日時やスクリーンを間違えてシートに座ってしまわない限り 観てみようとも思わず、別段、そのジャンルに詳しい人をすごいとも羨ましいとも感じません。
又、どれほど熱烈に好きな映像作家・監督・役者さんの仕事を前にし 感動の波にたゆたっても、「もー、この人の生み出す世界だったら 理屈抜きに何から何まで200%好きーーー!!!」と、脳内回路がショートしてしまうこともありません。
しかし、喫茶店に関しては---
自分が入ったことのない喫茶店に入ったことのある人が羨ましくてならず、
自分の知らない喫茶店を知っている人を尊敬せずにはおれなく、
入った喫茶店では---
アイスコーヒーが赤銅のマグで出てきたことに 「むむ!これはやるな」と、上体を嬉しく退かせ、
冷やタンが紫色なのは珍しいとVサインとともに記念写真に収め、
ウィンナーコーヒーのウィンナーがバラの花型に絞り出されていることに 乙女の如く「きゃっ!」と声をあげ、
メニューを隅々まで読み 食べもしないのにフルーツパフェがあることに幼子のようにバンザイをし、
身体的に必要としていなくともトイレットに立ち、洗面台のビニールの造花をちょんちょんとさわり、
ナポリタンに見え隠れする赤いウインナに「お久しぶりです」と会釈し、
ウェイターさんが蝶ネクタイであることを確認しては 少年野球の監督さながらに腕組みをして「よし」と頷き、
ガラスを乗せたテーブルに埋め飾られ透け見えるコーヒー豆を 刑務所の面会に来た貧しくけなげな妻のようにガラス越しにいとおしく撫でまわし、
レシートの裏にコーヒーカップのイラスト添えで印刷された「心得十カ条」を 十まで説得力ある口調で朗読し、
窓際の席から仰ぎ見える破れた幌に アラブの地平線を見やるような遠いまなざしで思いを馳せるのです。
マニアとは、全面的に肯定姿勢で対峙し、そうでない人からしたら「だから一体何だというのだ?」と取るに足らない一つ一つに狂乱できる・してしまう・せずにはおれないものではないか、と思うのです。
マニアの語源は、ギリシャ語のmadness(マッドネス)=狂気 で、和訳すると○○マニア=○○狂 なのですから。
タグ:マニア
三鷹 「珈琲家(かふぇや)」 [喫茶店・レストラン・カフェ]
三鷹「珈琲家(かふぇや)」は、2014年8月31日に たくさんのお客さんに惜しまれつつ閉店しました。
オーナーさん スタッフのみなさん、最高のくつろぎの空間と味を ありがとうございました。
喫茶店マニアを自認する私の中で、珈琲家さんは、最高峰の喫茶店の一つでした。
以下、2013年夏に書いた記事になります。
喫茶店好きの私が、もう十年通っている店があります。
中央線・三鷹駅南口からほど近い小路に 鮮朱の看板も温かに迎えてくれる「珈琲家(かふぇや)」です。
煉瓦の壁にコーヒー色の椅子とテーブル、幾種類ものブレンドおよびストレートコーヒー、目にも愉しいバリエーションコーヒー、本日のサービスコーヒー、クリームソーダやレモンスカッシュなどのその他のソフトドリンクス、サンドイッチ各種、気が利きつつも客を緊張させない店員さん達の接客、主張し過ぎずたゆたうモダンジャズ・・・・
----そう、ここは、特別何のてらいもないスタンダードな喫茶店なのです。
スタンダードでありながら、一つ一つがすべていい。
さながら、素顔に白いブラウスでいながらもどこもかしこも造作の整っているために誰れの目にも美しいと映る 正統派美人のような店なのです。
つまり、「飽きない心地良さ」を与えてくれる店なのです。
私と同じに思う人は多いようで、平日の昼間から ビジネスマンや普段着の年配のかたが後から後から扉を押され、慣れた様子で新聞のコーナーに手を伸ばしたり 店員さんとちょっとした世間話をしたりしています。
恥ずかしながら 私はコーヒーの味はよく解らないのですが、通のかたが仰るには コーヒーそのものもかなり美味しいそうで、豆を求めに訪れる人もしばしば見られます。
個人的には、メニューではホットプレスサンドが 殊 気にいっています。
電器ではなく直火にかけるタイプのプレス器で丁寧に焼いてくださるからでしょうか、とても香ばしく、自分が今まで口にしてきたプレスサンドの中で最も美味しいと感じています。
カウンター越しに、プレス器を裏返す店員さんの背や とりどりのホーローポットを眺め、また今日も、穏やかな私の時間が、心地良く ゆうるりと流れてゆきます。


オーナーさん スタッフのみなさん、最高のくつろぎの空間と味を ありがとうございました。
喫茶店マニアを自認する私の中で、珈琲家さんは、最高峰の喫茶店の一つでした。
以下、2013年夏に書いた記事になります。
喫茶店好きの私が、もう十年通っている店があります。
中央線・三鷹駅南口からほど近い小路に 鮮朱の看板も温かに迎えてくれる「珈琲家(かふぇや)」です。
煉瓦の壁にコーヒー色の椅子とテーブル、幾種類ものブレンドおよびストレートコーヒー、目にも愉しいバリエーションコーヒー、本日のサービスコーヒー、クリームソーダやレモンスカッシュなどのその他のソフトドリンクス、サンドイッチ各種、気が利きつつも客を緊張させない店員さん達の接客、主張し過ぎずたゆたうモダンジャズ・・・・
スタンダードでありながら、一つ一つがすべていい。
さながら、素顔に白いブラウスでいながらもどこもかしこも造作の整っているために誰れの目にも美しいと映る 正統派美人のような店なのです。
つまり、「飽きない心地良さ」を与えてくれる店なのです。
恥ずかしながら 私はコーヒーの味はよく解らないのですが、通のかたが仰るには コーヒーそのものもかなり美味しいそうで、豆を求めに訪れる人もしばしば見られます。
個人的には、メニューではホットプレスサンドが 殊 気にいっています。
電器ではなく直火にかけるタイプのプレス器で丁寧に焼いてくださるからでしょうか、とても香ばしく、自分が今まで口にしてきたプレスサンドの中で最も美味しいと感じています。
カウンター越しに、プレス器を裏返す店員さんの背や とりどりのホーローポットを眺め、また今日も、穏やかな私の時間が、心地良く ゆうるりと流れてゆきます。
タグ:珈琲家
映画的おわりかた・落語的おわりかた [映画・演劇雑記]
私は、エッセイに近い文体の散文詩を しばしば綴っています。
又、散文詩に近いマチエールのエッセイも。
両者の間に歴然とした境界線はないと考えていますが、一応 私の中では、以下の基準で以って分類分けしています。
結びの一文が、ふわりと中間色的で 読者にゆだねる形をとっているのが 散文詩。
物理的・感情的に明確で、いわゆる「オチ」のつくのがエッセイ----と。
これは、前者が 映画的おわりかた、後者が 落語的おわりかた、とも言えるかも知れません。
映画も落語も、私はどちらの世界観も それぞれに好きだったりします。


又、散文詩に近いマチエールのエッセイも。
両者の間に歴然とした境界線はないと考えていますが、一応 私の中では、以下の基準で以って分類分けしています。
結びの一文が、ふわりと中間色的で 読者にゆだねる形をとっているのが 散文詩。
物理的・感情的に明確で、いわゆる「オチ」のつくのがエッセイ----と。
これは、前者が 映画的おわりかた、後者が 落語的おわりかた、とも言えるかも知れません。
映画も落語も、私はどちらの世界観も それぞれに好きだったりします。