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三枚目の爪 [独り言]
みなさんの爪は何枚目でやしょうか?
あっし・ぼんぼちの左足親指の爪は、三枚目でやす。
いえ、決して、一人どんよりと落ち込む夜更けに 道化を演じて笑かしてくれる爪 というわけじゃあありやせん。
物理的に 三度目に生えてきた爪 でやす。
あれは、ぼんぼちが物心つくと同時にひねくれ始めた四才の時----
左足親指がヒョウソウになってしまったのでやす。
爪を剥がされ その下にじくじくと充満する膿をぬぐいえぐられ 消毒され・・・・
何カ月か後----
それまでよりも 少し固くて分厚い新たな爪が完成しやした。
そして、身体能力は低いくせに ひねくれ街道だけはものすごいスピードで疾走し続けていた小学三年の時----
風呂場で、いっぱいに水の入った大きなバケツをそうっと置くつもりが あまりの重さにドスン!と落としてしまったのでやす。 偶然にも、左足親指の真上に。
何日かすると、透かし見える爪の向う側が血豆の色のように赤黒くなり 爪は根元からぽろぽろと剥がれ取れ、結果、も一つ新しい爪の誕生と相成ったのでやす。
三度目に生えてきた爪は、二度目のよりも より固く 分厚く、右足のそれと比べると、一人の人間の対を成す身体の部分だとは およそ信じがたいものがありやす。
その爪だけは いわゆる一般的な爪切りでは対応不可能で、ペンチのような形状ので バッッッッチン!!とやってやす。
このペースだと、もしも長生きできたら、左足の親指の爪は五枚目くらいになっていることでやしょう。
その時は、ホンモノのペンチでないと バッッッッチン!!できないと思いやす。
タグ:爪
グルメ雑誌や飲食物の広告で不快に感じること [喫茶店・レストラン・カフェ]
よく、グルメ雑誌をパラリとやると 店の紹介に、「夜は三回転します」とか「お客さんと意気投合して飲みに行っちゃうこともあるんですよ byマスター」などというのがある。
アルコールやソフトドリンクスの広告に、「業界売上№1!」というのを見る。
しばしばその上に 「2年連続 3年連続」という枕詞がついていたりもする。
私はそれらを目にする度に、「だから一体何だというのだ? 客にはまるで以って関係のない事柄なのに」 と、首を傾げ眉間にしわを寄せずにはおれなくなる。
せっかく 誌面なり中吊りスペースなりを割いてアピールするのなら、何故、ターゲットとしている客という立場の人間に有用な情報に使わないのだろうか? と。
確かに、自分の店が大繁盛している様や プライベートでも付き合える常連を掴めたことや 自社商品がトップを獲得した名誉は 世の中の一人でも多くの人に言いたくて仕方がない、という気持ちは理解はする。
理解はするものの、しかし かといって、それを一般の客を対象としたステージで披露するのは、はなはだ場違いなのではあるまいか、と思うのだ。
披露すべき場は、飲食店経営業界誌や経済新聞の「我が社の成功の秘訣」なるコーナーであろう。
そこでの見出しで、「私の店は夜は三回転します!」とやり、本文にて「その戦略とは・・・」と明かせば、本当にそれらの情報を欲している同業者に詳らかに伝えることが出来、一般客に 見たくもないものを見せてしまう結果も呼ばずに済むわけである。
無論、人間いろいろなので、単なる客という立場の者であっても、舞台裏を覗き知りたい人もいるだろうし、世の中には 単純に理屈抜きに 「流行っています」「売れています」と掲げられるものが好きな人 というのも存在する。
それらの人達と私のような者の比率は 私には知る由もないが。
私が客として、雑誌や広告で知りたいのは----
メニューにはどんなものがあるのか その価格は幾らくらいなのか 内装はどのような雰囲気なのか 照明はどの程度の明るさ・暗さなのか BGMはどんなジャンルでどのくらいの音量なのか 味・香りにどのような特徴があるのか、である。
心底、店舗空間・商品を利用してほしいと 客の立場になり変わって考えるのなら、これらの事柄で 与えられた誌面・スペースは埋まり、余計な主観的感情が入り込む余地などないと思うのだが・・・・。
※画像のお店・商品は、記事本文とは関係はありやせん。


アルコールやソフトドリンクスの広告に、「業界売上№1!」というのを見る。
しばしばその上に 「2年連続 3年連続」という枕詞がついていたりもする。
私はそれらを目にする度に、「だから一体何だというのだ? 客にはまるで以って関係のない事柄なのに」 と、首を傾げ眉間にしわを寄せずにはおれなくなる。
せっかく 誌面なり中吊りスペースなりを割いてアピールするのなら、何故、ターゲットとしている客という立場の人間に有用な情報に使わないのだろうか? と。
理解はするものの、しかし かといって、それを一般の客を対象としたステージで披露するのは、はなはだ場違いなのではあるまいか、と思うのだ。
披露すべき場は、飲食店経営業界誌や経済新聞の「我が社の成功の秘訣」なるコーナーであろう。
そこでの見出しで、「私の店は夜は三回転します!」とやり、本文にて「その戦略とは・・・」と明かせば、本当にそれらの情報を欲している同業者に詳らかに伝えることが出来、一般客に 見たくもないものを見せてしまう結果も呼ばずに済むわけである。
それらの人達と私のような者の比率は 私には知る由もないが。
私が客として、雑誌や広告で知りたいのは----
メニューにはどんなものがあるのか その価格は幾らくらいなのか 内装はどのような雰囲気なのか 照明はどの程度の明るさ・暗さなのか BGMはどんなジャンルでどのくらいの音量なのか 味・香りにどのような特徴があるのか、である。
心底、店舗空間・商品を利用してほしいと 客の立場になり変わって考えるのなら、これらの事柄で 与えられた誌面・スペースは埋まり、余計な主観的感情が入り込む余地などないと思うのだが・・・・。
※画像のお店・商品は、記事本文とは関係はありやせん。
安部公房「人間そっくり」 [感想文]
人それぞれに カタルシスを感ずる小説というものがあります。
カタルシスの極地へと降り立ちたいが為に、幾へんも幾へんも 頁を捲らずにはおれない小説というものがあります。
私にとっては、「人間そっくり」が それにあたります。
「人間そっくり」----
「こんにちは火星人」という番組を担当するラジオの放送作家宅に、ある日、「私は火星人です」と自称する どう見ても平凡な一人の男が訪ねて来、「私が火星人でないと思われるなら その証明をしてください」と、数学の証明問題をつきつけるが如くに 緻密さの度が過ぎて常軌を逸した しかし同時に ちろりとも矛盾の尻尾を出さない徹底した理論思考で以って 放送作家のありとあらゆる あしらい・異論・抵抗を打破してゆき、結果、放送作家は自己崩壊し、自分自身ですらも人間か火星人か否か確信が持てなくなる----というシノプシスを通して 物事の本質の危うさをこれ以上はないシニカルさで描き放った、私が思うに 安部公房の真骨頂です。
私は何故 この作品に、これほどカタルシスを覚えるのかというと----
私自身の中に、作中の火星人男のような気質が少々存在しているからです。---否、正確には、少なからず、かも知れません。
現実の生活に於いては、相手の中に自己矛盾を見ても、険悪な空気になることを回避したり、相手のアイデンテイティの崩壊を危惧したり、私自身が鼻持ちならない嫌われ者とされてしまうことを恐れたりして、「あぁ、これ以上突っ込んではいけないな」というところで 口をつぐみます。
けれど、私は本質的には、白黒ハッキリつけたくて仕方がなく カチッとパズルが組み合わされ完成するような話の結末をみないと気持ちが悪く 意地が悪く 大人げなく 心がせまい人間なので、いつも奥底では、「あぁ、こう言ってやりたいなぁ」という思いがとぐろを巻きます。
「こう言ったら、相手は必然的にこう反論してくる筈なので、そしたら そう切り返そう。 そう切り返したら、次は選択肢はあの言葉しかなくなる訳だから あの言葉が出たところで 待ってましたとばかりに突けば ぐうの音も出ないのだ」 と。
自分が社会生活を送る上でやりたくとも抑えていることを、「人間そっくり」の火星人男は、東京ドーム狭しと踊る創作舞踏家さながらに ねちねちねっとりぐるんぐるんと 薄笑みをたたえつつ存分に披露してくれる訳です。
私は、作中の火星人男に 己の代償行為を見ることで、どろどろと沈殿するとぐろが洗い流され、スッキリと明日の方角を向くことが出来るのです。
---男性と楽しいひとときを過ごすことに縁遠い女性が お姫様物語のラブロマンスにうっとりと酔いしれたり、平凡な生まれ育ちで平凡なレールの上を淡々と歩むサラリーマンが 人生裏街道をしたたかに渡り金と女を欲しいままにする主人公の大衆小説を 咥え煙草で斜に構えて読みふけるのと同じです。
「あぁ、またどろどろが溜まってきたな」と自覚すると、私は夜更けに、自室の書棚の一番手前にスタンバイさせている「人間そっくり」に 指を伸ばします。
安部先生ご自身も、随筆やインタビューで自己分析されている通りに 極めて理論的な作家で、だから このようなテーマを貫通して追求せずにはおれなかったと察しますが---まぁ、人間というのは ないものねだりをしたくなるものなのでしょう---ご自身は、対極の 感覚の塊のようなスタンスに越境されたかったようで、安部スタジオの実験的な舞台などでも 夢の断片に材を取った 安部式感覚作品を遺されています。
しかし、以下は完全に 私の主観的感情ですが---
安部先生には、徹底的に 数学的理論思考の世界をただひたすらに独走していただきたかった という気持ちがあります。
感覚的で理論に弱い作家など、世に数え切れないほど存在するのですから。
けれど、「人間そっくり」は、安部作品中、そういった感覚への憧れがみじんも介入していない。
だからこそ、安部先生の得意とする部分のみで構築された この「人間そっくり」が、安部公房世界の真骨頂だ と思わずにおれないのです。
直毛から天パへ [独り言]
みなさん 髪の毛は、直毛でやしょうか? 俗に天パと言われる天然パーマでやしょうか? それとも、その両方を経験しておられる---つまり、どちらかからどちらかに移行された---でやしょうか?
あっし・ぼんぼちは、直毛から天パになりやした。
いえ、いくら あっしがひねくれた変わり者だからといっても、ある朝 気がかりな夢から目覚めたら 前夜までのお菊人形の如きの髪が突如として雷様に変貌していた という訳じゃあありやせん。
およそ三十年ほどの年月を経て、つららさながらのつんつんが、大きなロッドでゆる~くパーマをかけたようなゆるゆるうねうねに成ったのでやす。
中学卒業の日からスタイルこそ変えど 長年のパーマ人生、四十代半ばで 強くかけ続けて痛みが目立ったのを理由にちょっとやめてみた所で 初めて気づかされやした。
合わせ鏡で己が後ろ頭を眺め、これが自分だとは未だ信じられぬながらも 同時にかなり嬉しいものもこみ上げてきやす。
この調子なら、あと十年でハカセタロウ、喜寿でベートーベン、百まで生きたら大仏様になれそうでやす。


あっし・ぼんぼちは、直毛から天パになりやした。
いえ、いくら あっしがひねくれた変わり者だからといっても、ある朝 気がかりな夢から目覚めたら 前夜までのお菊人形の如きの髪が突如として雷様に変貌していた という訳じゃあありやせん。
およそ三十年ほどの年月を経て、つららさながらのつんつんが、大きなロッドでゆる~くパーマをかけたようなゆるゆるうねうねに成ったのでやす。
中学卒業の日からスタイルこそ変えど 長年のパーマ人生、四十代半ばで 強くかけ続けて痛みが目立ったのを理由にちょっとやめてみた所で 初めて気づかされやした。
合わせ鏡で己が後ろ頭を眺め、これが自分だとは未だ信じられぬながらも 同時にかなり嬉しいものもこみ上げてきやす。
この調子なら、あと十年でハカセタロウ、喜寿でベートーベン、百まで生きたら大仏様になれそうでやす。
タグ:天然パーマ
「十二人の怒れる男」観くらべ [感想文]
「十二人の怒れる男」----陪審室での評決に至る過程を通して、あたかも フラットな面がノミで彫りすすめられ十二のまったく違うレりーフがぐぐっと浮かび上がるが如くに 十二人の人物像に焦点があてられる、密室劇といえば先ず最初にタイトルの挙がる みなさん御存じの人間ドラマです。
私は中学時、舞台で演られているのを観、その後 何十年もの間、何の疑いもなく 「アメリカ現代演劇を代表する作品のひとつなのだろう」と思い込んでいました。 「ミラーか誰れかの作なのだろう」 と。
しかし、正しくは、元は戯曲ではなく 1954年に 主にテレビの仕事をしていたレジナルド・ローズによって 米国・テレビドラマ用に書き下ろされた脚本だったと知り、若干の驚きを否めませんでした。
この作品はそれくらい、大仰な装置を必要としない一場物の密室演劇として 違和感を感じさせぬ完成されたものだったからです。
どこの劇団だったかは失念してしまいましたが、演技に対しては、---まぁ、およそ35年も前なので、どの役者も 無駄に大げさに動きまわったり 喉に力を入れ過ぎる発声をしていたり と、いわゆる現在(いま)でいう「新劇調」で、「これこそが演劇だ!」と主張せむばかりの姿勢に 当時から甚だ疑問を抱いていた私は、本への感嘆とは裏腹に、心の上体を退かせ眉をひそめ口をゆがめない訳にはゆきませんでしたが。
そして先日、今度はDVDで以って 三つの「十二人の怒れる男」の扉を押してみました。
先ず一つは、1957年・米・映画版「十二人の怒れる男」
1954年のテレビドラマが好評だったために ローズの脚本を使って映画化されたものなのだそうです。
54年テレビドラマのほうは、現時点では日本ではDVD化されていないので 観くらべられないのが何とも残念ですが----折り重なる台詞と間の緩急、机上の手・挙手の手を捉えるキャメラ、雨音の効果---殊に、最後の一人の男の「・・・無罪だ」の台詞の後で 感情を裏打ちする形で使われている個所などは、息を飲み強烈に吸引されました。
二つめは、1997年に やはり米国でリメイクされたテレビ映画「十二人の怒れる男--評決の行方」
基本的には、前述の映画と同じ---つまり、最初のテレビドラマと同一の脚本から起こされているのが判りますが、時代設定がこのテレビ映画が創られたリアルタイムなので、それに伴い 変えるに相応しい細部は変わっています。
又、今回は、十二人の中に黒人も何人か加わっており、この点も 米国の時代の変遷として見落とせない所です。
感嘆の溜息をつきつき何度もリプレイし観入ったのは、ジャックレモン演ずる唯一最初に異論を唱えた男が、足をひきずり室内を歩き時間を計るショットを その男目線で撮ることにより、男の内側からの感情と 他の男達にどんな感情をぶつけられているかを 観る者にリアルに迫り来させ 際立たせていたことです。
そして三つめは、2007年・ロシアにより創られた「12」
こちらは、元の「十二人の---」が 真犯人追及ではなく評決という一つの石の投げ入れによる十二人十二様の波紋に力点が置かれているのに対して、死刑廃止となっている当国の現実やチェチェン問題を背景に、現代ロシアでこその解釈と脚色で以って展開させた これもまた達作です。
陪審室が事情で使用できないという設定で隣の学校の体育館が舞台となるのですが、観すすむ内、館内に置かれている大小様々な用具が 実に上手く小道具大道具として活かされ 「あぁ なるほど! 体育館とはよく発想したものだ!!」と 腹の底から唸らずにはおれませんでした。
密室劇のスタンダード演目として光衰えぬ「十二人の怒れる男」
これからも 様々な国に於いて様々な脚色・演出で 繰り返し上映・上演され続けてゆくことと思います。
またどこかで新たな「十二人---」に出逢ったら 是非、観くらべてみたいと考えています。
タグ:十二人の怒れる男