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桜餅 [独り言]
ちょっとひつこいくらいの濃いめのピンクの八重桜を見上げる度に、「あぁ、道明寺桜餅が生っているな」 と思われるかたは 少なくないのではないだろうか?
私もその一人である。
だから、基本的に甘い物をあまり得意としなくとも、あのひつこいピンクがぼてぼてと揺れている間は 道明寺桜餅が食べたくなる。
否、正確に言うと、食べなければ、次の 牡丹や藤や菖蒲の季節が自分にだけ訪れてくれないような 取り残されるような不安にかられてしまうのだ。
あまり得意でないくらいだから、こだわりの菓子屋などあろう筈もなく、近所の都民生協コープの二個入りパックを一つだけ求め、それを「甘い甘い」と独白しながら二日もかけてちびちび舐めれば おおいに満足なのである。
家からほど近い井の頭線・久我山駅脇の公園に、ちょっと珍しい薄い黄緑色の八重桜が 十株ばかりい並んでいる。
食紅ならぬ食緑で染めこさえた 道明寺桜餅である。
味はなんとなく ほんのり淡い塩味であるように思う。
これなら私でも、一度に三個くらいはいけそうである。
タグ:桜餅
シナリオを読みながら---「勇者ヨシヒコと悪霊の鍵」 [感想文]
お気に入りの映像作品のシナリオを読むのは至福である。
じっくり黙読しながら 役者さんの台詞や間や動きを脳裏によみがえらせてみたり、自分でも声に出して発してみたり、本編DVDと照らし合わせながらパラリパラリとやってみたり・・・・
作家の全集や月刊シナリオに収められているものは、大抵 完成台本ではなく決定稿なので、現場で変更された箇所が詳らかに判り そこがまた興味をそそられる大きな要因でもある。
殊に、十年ほど前に 安部公房全集からコピーをとったシナリオを自分で小冊子に綴じた「他人の顔」と「砂の女」は、頁が反りかえるほど繰り返しパラパラやっている。
と、昨年暮れ、私の最も好きな役者さん・山田孝之さんの公式サイトを覗いていたところ、山田さん主演のテレビドラマ「勇者ヨシヒコ」シリーズの二作のシナリオが発売されていることを知り、早々に購入した。
シリーズ第一章の「勇者ヨシヒコと魔王の城」本編は 既に勘定不可能なくらい反芻しているが、第二章となる「勇者ヨシヒコと悪霊の鍵」のほうは未だ観ていないので、シナリオを先に読む運びとなった。
----思い返してみると、舞台作品に関しては、三島由紀夫の近代能楽集であるとか ベケット諸作品であるとか、戯曲を先に読み後で公演を・・・といった順序は幾らもあったが、映像作品で先にシナリオは初めてである。
「勇者ヨシヒコと悪霊の鍵」、毎夜、読みすすむ内 つい時を忘れ、ふと顔を上げれば もはや就寝時間・・・というほどに引き込まれてしまっている。
「魔王の城」同様、山田さんをはじめとする役者さんがたの芝居の観どころ・聴きどころがぎゅぎゅっと詰め込まれているのが如実に判り、また、本書中の解説にもあるように 前作よりストーリーに展開・うねりが見られ、未だ観ぬ映像に思いを馳せては胸を高鳴らせている。
今回は、何度も何度もシナリオを読んで、それから、本編DVDをプレイスタートしようと考えている。
とりどりの牡丹の花弁が溢れるように開くのを待つのと同じくらいに 期待高まる春さなかである。
タグ:勇者ヨシヒコと悪霊の鍵
観くらべ聴きくらべ読みくらべ [独り言]
毎年年頭に、「今年は特にこんな企画に重きをおいて記事を挙げてゆこう」といった小さな目標を 自分なりに立てています。
私小説めいた虚構の作文であったり 短編暗喩小説であったり 詩に近い形のエッセイであったり・・・・
今年は----ゆるゆるのんびりと逡巡している内に、早 公園の花もとりどりの時節と成ってしまいましたが----「観くらべ聴きくらべ読みくらべ」なるものを 幾つか取り上げてゆけたら と考えています。
同じ戯曲や脚本を 別の演出家・監督・役者さんが演られているのを観くらべるのは、実に興味深いものです。
同様に、同じ楽曲を 違うミュージシャンが各々の解釈で仕上げているのに耳を傾けるのも。
又、一つの外国文学作品を 複数の訳者が翻訳しているのを読みくらべるのも、思わぬ発見をさせられることしばしばです。
何を書いても未熟な私ではありますが、本年は、こんな所に力点をおいた感想文を、折りにふれ 盛り込んでゆく予定です。
隠花植物 [詩・詞]
タンポポより スミレより サクラソウより ミモザより
私は隠花植物に惹かれる
ぬめりとした触感や
へにゃりとした傾ぎもさることながら
何より 私が隠花植物に惹きつけられる要因は
隠花植物には 己れは隠花植物であることが疎ましくてならない という匂が 隠せど隠せど匂い立つことにある
顕花植物へと終ぞ進化できなかった 悲しみ 憂い 失望 嫉妬 寂しさ 恨み が 胞子の一つ一つに充満し 寄る辺ない浮遊をし続けていることにある
私は 隠花植物の胞子を 肺いっぱいに味わう
愛おしさにむせかえり 涙しながら


私は隠花植物に惹かれる
ぬめりとした触感や
へにゃりとした傾ぎもさることながら
何より 私が隠花植物に惹きつけられる要因は
隠花植物には 己れは隠花植物であることが疎ましくてならない という匂が 隠せど隠せど匂い立つことにある
顕花植物へと終ぞ進化できなかった 悲しみ 憂い 失望 嫉妬 寂しさ 恨み が 胞子の一つ一つに充満し 寄る辺ない浮遊をし続けていることにある
私は 隠花植物の胞子を 肺いっぱいに味わう
愛おしさにむせかえり 涙しながら
間違った言い方をする人 [映画・演劇雑記]
「映画はかなり勉強しています!」と揚々と目を輝かせてまっすぐにこちらに向く人と映画についての話をしてみると、まるでダイヤローグが成立しないことがある。
妙な間ができ、「いやぁ、私はまだまだ勉強が足りませんねぇ」と、あわててその間を埋めむが如く つとめて明るく頭を掻いたりするので、「はて?この人は、一体映画の何について学んできたのだろう?」と心の首を傾げ、どこの学校・研究所に通っていたのかと問うと、「・・・・いえ、学校や研究所に行ったことはないんです」、やや目の勢いを弱めて答える。
「独学で学ばれたのですね。 映画の何について勉強されたのですか? 映像理論ですか?映画史ですか?脚本ですか?演技ですか?機材ですか?もしくは・・・」と 可能な会話の糸口を探ると 「・・・あ、いえ・・・それも 何も・・・・」 視線を自身の膝の辺りに迷走させる。
よくよく聞いてみると、単に「映画が好きで 漠然と楽しく観ている」だけだったと判る。
「勉強として映画を観る」というのは、「この脚本家は、小道具を使って登場人物の性格を表わすのが巧いな」とか 「この時代の役者さんの演技は、現代(いま)とはメソッドが違うから 呼吸と感情が連動していないな」とか、基礎的な理論を踏まえた上で、主観的な感情とは別に 技術や感性を 肯定的にも否定的にも吸収してゆくことである。
どの分野に於いても、基礎を何一つ学んだ経験のない者が観たり聴いたりするのは、どれほど真剣に神経を研ぎ澄まして対峙しようと 「鑑賞」である。
---無論、私は、「鑑賞」がくだらぬ無意義な行為だなどとはみぢんも思っていない。 私だって、ブルース音楽に関してはCDの収納に困るほどに数多の「鑑賞」をしている。
「鑑賞」を重ねて分厚く豊かになるのは 「心」「感性」、「勉強」で蓄積されるものは 「理論的理解」「方法論の会得」と、ベクトルがまるで違うものだ と言っているのである。
基礎を学んできた者が、「勉強しながら鑑賞する」ことはいくらもあるだろうが。
話の流れで、「あー、今日は時代劇観たから 日本史の勉強になったねー」などと言うのは笑って頷ける。
こういう時の勉強とは、「今日はいっぱい散歩したから荷風の気持ちが解ったよ」という程度の半ばジョークだからである。
テレビでお馴染みの有名人を偶然街で見かけたことを 「会った」という人がいる。
その言葉を疑わずに 「どこで会ったのですか?」と聞くと、「昨日の夕方、新宿の紀伊国屋書店の裏を歩いていたらバッタリ!」などと 勢いづいた返事が来る。
ということは、パーティーに出席したら その有名人が来賓として来ていたとか あるいは司会進行役をやっていたとか、自分が勤めている会社や店に取材で来たとか ではないのだから、元々の知り合いなのだな という解釈になる。
「○○さんとはどういうご関係なのですか?」と尋ねると、「・・・いや、知り合いじゃないですけど・・・・」 ちょっと口ごもる。
「でも、『会った』のでしょ?」
「会いましたよ! 絶対間違いなく○○でしたよ!!」
・・・・・ただ一方的に「見かけた」だけだという訳である。
「会った」というのは、双方共に認識し、会話こそ交さずとも目と目を合わせ 心の中で「あ!久しぶり!こんにちは~」とか 「チッ! 相変わらずの様子だぜ」などと言いあうことである。
たとい本名や職業や住んでいる所は知らずとも、「バー○○のカウンターの端っこで いつもジントニックをやってる競馬好きの奴だ」くらいに個人として識別していることである。
もしも「会った」という言葉の定義が「見かけた」と同義であれば、「今日は新宿まで出たから 何万人もの人達と会ってきたよ」と 大真面目に話すこととなる。
街の商店の一つがその場所で営業をしなくなったことを全て「つぶれた」という人がいる。
勿論その場所で営業をしなくなる理由の一つには 本当に「つぶれた」場合もあるだろうが、別の場所に移転するのも 道路拡張で引っ込んでまた営業するのも 内装工事でしばらくシャッターが閉まっているのも 全て「つぶれた」という語を使う人がいる。
「つぶれる」というのは、多大な負債を抱えて倒産することである。
そういう言い方をする人は、自分が勤める会社が別のビルに移転したら、「俺の会社つぶれちゃってさー」と言うのだろうか?
いずれも、二、三分話を聞いているうちに何を言はむとしているのか判明する 別段こちらの生活に支障をきたすこともない程度の間違った言い方に過ぎないのだが、流行語でも プロ以外は正しく認識していなくとも仕方のない専門用語でも 「自分の勤めている会社」を「私の会社」「自分の注文するコーヒー」を「私はコーヒー」というような慣用語でもないのに、一体何故、いい大人になってこんな間違った言い方をする人がいるのか はなはだ疑問に感ずる。
こういう人と話をするのは 非常にイライラさせられ、同時にその人となりに大きく失望させられる。