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 テーマ「映画」で綴りきて  [映画・演劇雑記]

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私は この三年余の間、ソネットブログのテーマ選択肢から「映画」を選択し、拙いながらも記事を重ねてきました。
勿論 映画以外の話題も幾多あり----というより、映画とはまるで関係のないもののほうが多かったりするのですが----ブログテーマに「映画」を選んだ時点で、自分の中で迷わず決めたルールが一つあります。
それは----
「かたよりなく あらゆるジャンルの映画にふれてゆこう」 ということです。
実験映画もアートシネマも音楽映画もアニメーションも商業の劇映画も個人映画もドキュメンタリーも文化映画も、米国作品も東欧作品も北欧作品も西欧作品もアジア諸国の作品も そして日本の作品も、映画創世期から現代の最新作まで・・・・・。
これには、私が子供時代 映画というものに出逢って間がない頃に感じた疑問に基づく理由があります。

私が「世の中には映画というものがある」 と初めて認識したのは、小学校に上がるか上がらないかの頃、1.5時間弱の尺に再編集された ○曜映画劇場なるテレビ番組からでした。
「グレンミラー物語」 「ホワイトクリスマス」 「バス停留所」 「帰らざる河」 「鳥」 「雨に唄えば」 「黒いじゅうたん」 「ジョニーは戦場へ行った」 「死刑台のエレベーター」・・・・
夜九時になると リビングのなだらかな四角から流れる異国の物語を 観るともなしに観ていました。

親が洋画好きの邦画嫌いだったので、ウチではチャンネルを合わせないだけで、日本では 裕次郎や小林旭や寅さんの映画が映られていることは知っていましたし、学校の体育館で 米国のセルアニメの劇映画を体育座りで鑑賞したこともありますし、私の爬虫類好きを思ってか 父がゴジラ映画に連れ出してくれたこともありますし、大人の男の人向けに おっぱいの大きな裸の女の人ばかりが出てくる映画があることも 電柱に斜めにくくりつけられたステカンから 黙って学習していました。 
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しかし、小学校高学年になった頃----
漠然と、ただ漠然とですが、私の中に もやもやっとした不定形の疑問が湧き出でてきました。
「何でこういうのばっかりなの? もっと他にあるんじゃないの?」
----と。

「こういうの」の中には、幼い無知な私に様々な知識----ジャズという心地いい音楽ジャンルがあることや 米国ミュージカルスターの技術の高さや マリリンモンローというこの世の者とは思えないほど可憐な女性が存在していたことや 生物大発生の恐ろしさ----を吹きこんでくれ、今も反芻する度に 感嘆のため息を吐き、本当に出逢って良かった!と深く頷く作品が幾多あります。
殊に 「ジョニーは戦場へ行った」あたりは、映画という文化にまるで興味のない人も絶対に観ておくべき作品だと 変わらず思い続けています。
けれど----
私の疑問は、分裂を繰り返し増殖する細胞のように もやもやもやもやと膨らみ続け、同時にそれは、「精神の飢餓感・欠落感」でもありました。

----身体に置き換えて例えると、こういうことです。
自分が日々 家や外で食べているのは、チャーシュー ハンバーグ 角煮 ステーキ フライドチキン・・・・様々な味付けの様々な料理・・・けれど、それらはすべて 肉。
肉料理の中にはとても美味しく明らかに身体によいものも沢山あるのだけれど、なんだか肉体の深い部分でバランスの悪さを覚えずにはおれない。 身体の調子が悪い。 これは健康とは言えない。
人間の食べ物って、肉以外にも もっと他にいろいろあるんじゃないだろうか?
でも、その他の食べ物って何があるのだろう?
必ずどこかに 肉以外の食べ物がある筈なんだけど、自分はまだ それを知らない。
肉以外の食べ物も食べてみたい!
食べなきゃ 身体が壊れちゃうよ!!
----と。
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飢餓と欠落を増殖させつ中学に入り----
私は、寺山修司の書物をひもとく中で、自分が視界ゼロの霧の中で探していた映画ジャンルの一つが「アート・実験映画」と呼ばれるものであることを知り、時間に余裕の出来た三十代、研究所の講座を通じて 怒涛の数のアート・実験作品を浴び、ようやっと、精神の飢餓感・欠落感を埋め始めるスタンスに辿り着きました。
そして、資本主義社会の構造や国交事情なども 理解のできる年齢になっていました。

映画にはどのようなジャンルがあるのか一通り認識できた今現在、「どのジャンルが一番好きですか?」と問われたら、やはり 「アート・実験系です」と 間なく答えます。---無論、アート・実験系であれば何でも好き という訳ではありませんが。
ドキュメンタリーも、リーフェンシュタールのようなアート系の撮り方に魅入ってしまいます。
好きな映画を順に挙げてゆくと、どの時点で集計を取っても 7割くらいの割合で、アート・実験系が占めます。

「それなら、ブログに於いての映画感想も その比率で書けばいいじゃない。 一個人が、趣味・道楽で 金儲けとは関わりなく自己満足でやってるんだから」と言われそうです。
確かにそれはそうなのですが、私は、子供の頃に自分が覚えた疑問と同類の感情を私のブログを読んだ人が感じる可能性のあることをする----というのが嫌なのです。
単なる自意識過剰に過ぎないかも知れませんが。
けれど、おしなべる為に無理して、駄作だと感じる作品 嫌いな方向性 バランスを欠いた映像 偉大だと思えない監督・映像作家・役者さん・・・・を取りあげて心にもない持ち上げをしようとは みぢんも考えません。
以前鑑賞して自分の内にある、あるいは新たに覚えた感動の中からだけ、かたよりのないジャンルで公開してゆきたい・・・・と 固く思っています。

・・・・ともあれ、こんな私の拙いブログ。
あなたに読んでいただけて 光栄です。
ありがとう!
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タグ:映画
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 年末  [俳句・川柳]



                    こたつ知らぬミカン昭和歌謡を聴き


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 ビングクロスビー「ホワイトクリスマス」  [独り言]

皆さんにとって「クリスマスの歌といえば この一曲」というのは何であろうか?
私は、ビングクロスビーの「ホワイトクリスマス」である。
フランクシナトラやディーンマーティン歌唱のほうも決して嫌いではないが、巧みにドレープを寄せた深緑色のベルベットのようなクロスビーの歌声に、私は 最もクリスマスのマチエールを感ずる。

しかし----
もう久しく、街なかで 「ホワイトクリスマス」自体を耳にしていない。
ともす灯りがLEDライトになる事には何の異論もないけれど、クロスビーの「ホワイトクリスマス」は、街々のツリーの下で ゆうるりと堪能したい。

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 にごり酒  [俳句・川柳]


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                 ぐいのみに 「我れ」といふ語が 落ち消へて



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 映画「パサジェルカ」にみる厚情の何たるか  [感想文]

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先日、イメージフォーラム・ポーランド映画祭2012にて、1963年製作の「パサジェルカ」を観ました。

アウシュヴィッツ収容所が舞台の物語ということで 「感動はしても 自分に身近な感情が呼び覚まされることは先ずないだろう」 と我が内に独白しながらシートに座りましたが、果たして その予測は鮮烈に裏切られ、私は、「厚情というものの何たるか」について再認識し 深く共鳴し、こうしてペンを持たずにはおれなくなりました。

「パサジエルカ」(女性船客という意)はもともと----
収容所内で 女看守が一人の女囚人に向けた 己れのアイデンティティの確立を目的とした計算づくの情けが次々と空回りし 絶対的な強者である筈の自身が物理的な行動・結果とは裏腹に精神的に追いつめられ苦しみもがくこととなった 忌わしく恥ずべき封印した過去が、終戦後、新婚旅行の船上で、あの囚人かも知れぬ と思われる女性を見かけたことで まざまざとよみがえり、夫に告白せずにはおれなくなる-----
という、アンジェイ・ムンク監督による 回想型心理劇映画として公開される予定の作品でした。
ところが ムンク監督は、頭とラストの船上のシーンの編集作業と僅かな撮影を残す段階で、不幸にも交通事故で亡くなってしまいます。
よって、その二年後に、ムンク氏に近しいポーランド映画人達が 船上はスチルモンタージュで展開させ、そこに 「ムンク監督死亡のため、私達が、氏の真意は掴めなくとも 遺されたものから制作意図を読み、未結は未結のまま提示します」 という旨のナレーションをかぶせ、メタシアターという構造の映画として発表したものです。
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「厚情の何たるか」は、全く別の二つの地点から 真逆の方向性で以って 観る者に迫り来ます。

先ず一つは----
ムンク監督が 劇中で逆説的に描き切った 女看守の自分自身のための「ニセ厚情」。

収容所で 主要とはいえない任務に配属された恋人もいない女看守は、一見 儚げな佇まいの一人の女囚人に目をつけ、秘かに恋人に逢わせてやったりと彼女の喜ぶ餌を吊り下げ、自分が感謝され 尊敬され、そして、彼女の精神の隅々までも意のままにせむ と もくろみますが、女囚人の心は一分も看守を仰ぎません。
のみならず、彼女の気を引こうとすればするほど、相思相愛の恋人が存在することに嫉妬の感情を覚えたりと、女看守の精神は泥沼に嵌り込み、物理的行動とは反比例して、女囚人のほうが 精神的強者への高みへと昇ることとなります。

私はここに、「人間の精神までも支配しようったって そうはゆかない。 物理的な立場と精神とは別モノなのだ」 と ポーランド人として凛と直立するムンク氏の姿を くっきりとした輪郭で認識しました。
同時に、私の子供時代の母親との関係も 想起せずにはおれませんでした。
私は物心ついた頃から母親に虐待されて育ったので、劇中の女看守と同一の心理を 母親の中に嫌というほど見てきました。
小学三年くらいの時----
母親は、自分に仕立てた服の余り布で私の服を創り、「今日はこれを着て学校へ行け」と言ったことがあり、けれど それはいかにも中年女向けの柄だったので「どうしても嫌だ」と拒んだところ、私を二時間近く殴り続け、それでもおさまらず、今度は 隣家にも響かんばかりの奇声を上げながら、その服を、叩きつけ ねじり上げ 引き裂き、ハタキの先っちょのような細い紐状のちりぢりの残骸に変えてしまいました。
私は ころがったまま、ちりぢりのハタキの先っちょをぼんやりと眺め 「ほら、また正体 現わした・・・」 と、心の中でつぶやきました。

程度や状況の差異こそあれ、みなさんも、このような人間の心理に 一度や二度は遭遇したことがあるのではないでしょうか?
実力はないのに称賛されたくてならない 会社の上司であるとか、同世代の人間からは相手にされない故に 生徒達の人気者になりたい教師であるとか・・・・。

劇中に、犬が毒を盛られたとはつゆ疑わずに好物のチーズに喰らいつき死んでしまう、という象徴的な場面がありますが、----そう、人間は、如何に巧みに仕立てられていたとしても それがニセモノの厚情だった場合、瞬時に見抜き、表層的に応えはしても 心はみぢんも動かないものです。

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もう一つは----
監督の死後 作品をこのような形で公開へと導いた 氏に近しいポーランド映画人達の「真の厚情」です。
亡くなったのは監督一人だけで、たずさわっていたスタッフ・キャスト等ブレーン一同は存命していたのですから、「ムンク監督は こういう方向性でこういう意図で撮りすすんでいた」 と ほぼ見通せていたと察します。
詳らかに書き込みのしてある監督所有の脚本が遺されていても不思議ではありませんし 演出ノートも見つかっていたかも知れません。
当然 近しい人達は、それを全て熟読し 認識し 考察した上で、「真意は掴めずとも---」と 未結の形で発表した訳です。
発表された作品には、元女看守が夫への告白を終えた後 どのような気持ちになり どのような行動を取ったのかが描かれていません。
脚本には書かれていた筈です。
けれど、それを完結させなかった。
ムンクがやり残した仕事の 代弁 なり変わり モノマネによる完結は 一切しなかった。
ムンクの仕事はムンクの仕事として そのままに、一歩引いた位置から作品発表へと尽力した。
つまり、これは、ムンク氏に対する これ以上はない敬意の表しかたであり、これこそが「真の厚情」に他ならないと 私は思います。
もしも、「ムンクのことだから こう撮ってこう編集してたに違いないよ。 奴の表現世界は 俺達が一番よく解っているんだから」と、撮り上げ編集し上げたとしたら、それは大変な思いあがり 傲慢 ムンクの死を利用した自分達の売り込みです。

監督 突然の死により 不運にも完結に至らなかったけれど、しかし、偶然にも 劇中のテーマと同一のテーゼを真逆の方向から力強く後押しする作品となった 映画「パサジェルカ」。
類い稀なる構造の、これも 世界映画史に遺り続ける達作の一つだと 私は思います。
そして、未熟なりにも、決して 女看守のような人間にはなるまい、ムンクに近しい人達のような人間を目指そう----と、深く 固く 自身に誓いをたてずにはおれない感情に突き動かされた次第です。
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 イルミネーション  [俳句・川柳]


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                     豆電の一つつぶれど 都市銀河



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 「マッシュポテトを水辺で あの人と踊ろう」の意味 [音楽雑記]

「バケイション」という歌の中に、「マッシュポテトを水辺で あの人と踊ろう」という一節がある。
初めて耳にした小学生時、どういう方向から解釈しようと意味の通らない変てこな歌詞だなぁ と首を傾げずにはおれなかった。
そして自分は、マッシュポテトが好物なだけに、その変てこな詞は、ずっと グラタン皿の縁にこそげ取れずに乾き残る淡い白ささながらに 頭の端にこびりついていた。
それが ダンスの形体の一つ---ツイストでノリにノッた時に片足でクイックイッとやるあれだと知ったのは、三十歳を遥かに過ぎてからだった。

よく、街のイベントで、巨大カレー 巨大パエリア 巨大ピザを作ってみんなで食べよう! なんていうのがあるが、もしも 巨大マッシュポテト作りを催すのなら、やはり、大人もすっぽり隠れるほどの大ボウルの中、白いゴム長でクイックイッとこさえていただきたいものである。
勿論、ゴキゲンな50Sにノッて。

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 老夫  [俳句・川柳]


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                     レジ列に 豆腐一丁ささげ持ち




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 野坂昭如文学に出逢って  [感想文]

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「あなたが好きな小説家を三人だけ教えてください」 と問われたら、私は迷わず、カフカ 車谷長吉氏 そして野坂昭如先生を挙げます。

高校の現代国語の授業で、若い女教師が 「世の中には発禁文学というものがある」と余談していたのをキッカケに、私は 書店の野坂昭如コーナーに まだ成長しきらない指を伸ばしました。
確か 文庫本「真夜中のマリア」が、表紙イラストに惹かれての最初の一冊だったように記憶しています。

女と子供の描き方に 偽善や非現実的な美化がなくて、つきぬけるようなカタルシスを覚えました。
加えて、助詞を抜いた長いセンテンスの独特のリズムのある文体に、強烈に吸引されました。
精神の飢餓感に日々鬱々としていた私は、授業中隠れてや放課後の喫茶店で、次から次へと野坂作品を読破してゆき、中でも 「子供は神の子」 「マッチ売りの少女」 「パパが、また呼ぶ」 の辺りは、薄肌着一枚すらも剥ぎ取られたまるのままの人間が 「ほら」と裸電球の下にかざし置かれたようで、カタルシスの極地へ も一度も一度・・・・と、ボロボロになるくらい頁を捲り返しました。
逆に、代表作と成っている「火垂るの墓」の 虚構の世界には他に幾つも見られそうな優しさは、それらの作品群に対して「野坂文学らしさ」を感ずることができず、どうしてこの作品が受賞し代表作となっているのか まったく以って理解ができませんでした。 川端康成の代表作が「眠れる美女」ではなく「雪国」とされているのと同じくらいに。

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そして、ドロップ缶から、色んな味の けれど同じくらいに濃密な甘さが 舐めども舐めども転がり落ちるように、高密度の作品が 読めども読めども出てくるので、そのエネルギーに圧倒されつつ、缶がカラになるまで味わい続けむ と 読みふけりました。
しかし 思い半ばにして、私は高校を卒業するや仕事に追われ、書物そのものから彼方の場所に身を置かざるを得ませんでした。

時間に余裕のできた現在(いま)----
未読・既読小説 あるいは以降に書かれた随筆なども含め、およそ三十年ぶりに野坂文学と再会していますが、私は改めて 当時とまったく同じ感情に突き動かされています。
今でも未熟な私ですが、約三十年の人生経験は 「文学を読み込む」ということにも決して無駄ではなかったようで、ぼやけていたピントがピッと合うように、より鮮烈に その感情に突き動かされています。
野坂先生は、何かしらの手段で以って表現をせずにはおれなかった 職業としての作家以前の「真の表現者」だったのだ と、現在(いま)の私は詳らかに感じています。
何かしらの手段で以って、恨み 懺悔 同情 歓喜 憎悪 軽蔑 憧れ 後悔 屈辱 弁解 悲しみ 怒り 諸々を どろんどろんと吐露せずにはおれなかった「真の表現者」なのだ と。

野坂先生、今現在は、病気後のリハビリに励んでおられるそうです。
ご無理のない範囲で回復への登り坂を歩まれていただきたい と思います。

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タグ:野坂昭如
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 ニボシ  [俳句・川柳]


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                  塵網(ごみあみ)の 白き目玉に睨まれつ



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