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ぬし [詩・詞]
冬了り-----
庭の睡蓮鉢の水が 木枯らしでもないのに 「くわん」と 揺れることがあった
「蛙かな」 と思った
「蛙だろうな」 と思った
若葉 萌え初むるころ-----
鉢の縁に 私のこぶし大ほどの蛙が 肘をはり 真一文字に口を結び 我が邸を 「むん」と 凝視していた
さながら 小さな庭の「ぬし」だった
次の日 窓を開けると-----
「ぬし」は 同じように 「むん」と そこに居た
その次の日も 「むん」と居た
次の次の日-----
睡蓮鉢の縁は 雑草に隠れかかっていた
「ぬし」がやっぱり「むん」と居るのかどうか 私は 履き物に泥がつくとめんどうなので 庭に歩み出なかった
いつしか-----
睡蓮鉢ぜんたいが 雑草におおわれた
あいかわらず 「ぬし」は「むん」と「ぬし」をやっているのかな と思ったが
私は 着ている物が草の露に濡れるとめんどうなので 部屋から出なかった


庭の睡蓮鉢の水が 木枯らしでもないのに 「くわん」と 揺れることがあった
「蛙かな」 と思った
「蛙だろうな」 と思った
若葉 萌え初むるころ-----
鉢の縁に 私のこぶし大ほどの蛙が 肘をはり 真一文字に口を結び 我が邸を 「むん」と 凝視していた
さながら 小さな庭の「ぬし」だった
次の日 窓を開けると-----
「ぬし」は 同じように 「むん」と そこに居た
その次の日も 「むん」と居た
次の次の日-----
睡蓮鉢の縁は 雑草に隠れかかっていた
「ぬし」がやっぱり「むん」と居るのかどうか 私は 履き物に泥がつくとめんどうなので 庭に歩み出なかった
いつしか-----
睡蓮鉢ぜんたいが 雑草におおわれた
あいかわらず 「ぬし」は「むん」と「ぬし」をやっているのかな と思ったが
私は 着ている物が草の露に濡れるとめんどうなので 部屋から出なかった
タグ:蛙
DVD「勇者ヨシヒコと魔王の城」 [感想文]
余りにも大きな感動に突き動かされると、熱にうかされた内なる温度をほどよく冷却し 冷静に言葉にまとめるのに 一寸時間がかかるものです。
私は今春、まさに それに匹敵する作品を鑑賞しました。
「勇者ヨシヒコと魔王の城」
2011年に 深夜の連続テレビドラマ(全十二話)として放映されていた、勇者であることのアイコニックさの突端を抽出したような青年ヨシヒコが ふとしたきっかけで同行することとなった三人と 疫病を蔓延させ悪の支配下におかむともくろむ魔王を倒しにゆく というロードムービー型コメディをDVD化したものです。
監督・脚本は 「大洗にも星はふるなり」の 福田雄一氏。
一体 私は、この作品のどこに、冷却期間をおかねばならぬほどの感動を覚えたのか------。
それは-----、不条理演劇的コントさながらの脚本に 主演の山田孝之氏をはじめとする高い技術をそなえた役者さん達が 真正面から対峙され、だからこそ、そうでなければ絶対に成立しない面白さが大きく立ち上がっているところです。
加えて、山田氏の 作品に注がれている並々ならぬエネルギーにも、こちらまで精神力がふくらみ溢れるような 力の伝播を強く感じました。
殊に、如実にそれらを認識した場面を具体的に挙げると-----
瞬間 脱力し、すっと別人格になり変わるところ(剣に魂を移し 奥底の人格が出現する という設定) や、自身の意志とは裏腹に身体が動いてしまう という演技(ヨシヒコが アキーモから去ろうとするが、座布団に戻ってしまうショット) や、日頃 使い慣れている物を 初めて目にし 初めて扱い 初めての感情が芽生える と演る芝居(リモコンを手に エアコンに涼む件り) や、無対象(透明の案内人の頬を叩く) に対してです。
基礎レッスンがそのままタブローになったような ごまかしの一切きかない 役者さんの力量が剥き出しになる 最高の「見どころ」です。
又、台詞の内容を解するだけでは勿体無さ過ぎる 「聴きどころ」も、そこここにちりばめられています。
同一の時空には先ず同居しないような言葉が ひとまとまりのダイヤローグに入っていたり(「ヒップホップの時間」と「賢者の鎧」)、その言葉をそのように発することなど普通ならあり得ないという台詞(深刻に「巨乳が舞いこんだ・・・」の長台詞や 「ブスだって人間・・・」と 切々と仲間に説く件り)等々。
私達には、無意識のうちに 言葉の持つイメージの刷り込みがあります。
例えば、「こんにちは」とか「ありがとう」とかは、日頃から様々な感情で発しているので イメージの幅も広く持っています。
しかし、狭いイメージの語である「巨乳」や「ブス」を 真顔で重々しく となると、これは 漠然と想像するより 遥かに難解です。
だからこそ、全身全霊で重厚に語り切っておられる芝居に 不条理的な面白さが呼吸(いき)づく訳です。
台詞の中には 古語も多く登場します。
これは逆に、現代の私達にとっては、ほぼ外国語と言えるほどに馴染みのない 刷り込みのないに等しい言語です。
刷り込みのない言葉に「血を通わせる」ということは、これも又、役者さんがたは なんなく発しておられるように聴こえますが、実際やってみると そうそう簡単ではないと解ります。
それらの 一筋縄ではゆかない台詞の数々が、極めて演劇的な「間」により 効果的に立ち、私達を魅了します。
「間」に どれほど心が砕かれ 細かな演出がつけられているかが 全編を通して明確に感じられます。
他にも、決して書き落とせない 強烈な感動要因があります。
山田氏の「表情の深さ」です。
中でも、盾を金持ちのラドマンの前で持ち出そうとしても持ち出せなかった時の 思いつめたまなざし や、オイッスの村でイガリヤから靴を受け取り 「(笑わせられなかった者を牢屋にぶちこむのは) やめとくよ」 と言わせた時の 笑み には、つくづく改めて、山田氏が 名優中の名優であることを 深く頷かずにはおれなく、繰り返し観入っては、その度に 感嘆のため息を長く吐いてしまいます。
私は、十二話の話を それぞれ十回ほど観、当記事を書くにあたって 冷却期間をおこうと何日か空けていますが、書き終わるや、再び 感動の海に船出するつもりです。
きっと、何百回も何千回も 漕ぎ出でると思います。
熱にうかされるほどに大きな感動を与えてくれる表現は又、鑑賞者を そうせざるを得ない行動にも突き動かすものです。


私は今春、まさに それに匹敵する作品を鑑賞しました。
「勇者ヨシヒコと魔王の城」
2011年に 深夜の連続テレビドラマ(全十二話)として放映されていた、勇者であることのアイコニックさの突端を抽出したような青年ヨシヒコが ふとしたきっかけで同行することとなった三人と 疫病を蔓延させ悪の支配下におかむともくろむ魔王を倒しにゆく というロードムービー型コメディをDVD化したものです。
監督・脚本は 「大洗にも星はふるなり」の 福田雄一氏。
一体 私は、この作品のどこに、冷却期間をおかねばならぬほどの感動を覚えたのか------。
それは-----、不条理演劇的コントさながらの脚本に 主演の山田孝之氏をはじめとする高い技術をそなえた役者さん達が 真正面から対峙され、だからこそ、そうでなければ絶対に成立しない面白さが大きく立ち上がっているところです。
加えて、山田氏の 作品に注がれている並々ならぬエネルギーにも、こちらまで精神力がふくらみ溢れるような 力の伝播を強く感じました。
殊に、如実にそれらを認識した場面を具体的に挙げると-----
瞬間 脱力し、すっと別人格になり変わるところ(剣に魂を移し 奥底の人格が出現する という設定) や、自身の意志とは裏腹に身体が動いてしまう という演技(ヨシヒコが アキーモから去ろうとするが、座布団に戻ってしまうショット) や、日頃 使い慣れている物を 初めて目にし 初めて扱い 初めての感情が芽生える と演る芝居(リモコンを手に エアコンに涼む件り) や、無対象(透明の案内人の頬を叩く) に対してです。
基礎レッスンがそのままタブローになったような ごまかしの一切きかない 役者さんの力量が剥き出しになる 最高の「見どころ」です。
又、台詞の内容を解するだけでは勿体無さ過ぎる 「聴きどころ」も、そこここにちりばめられています。
同一の時空には先ず同居しないような言葉が ひとまとまりのダイヤローグに入っていたり(「ヒップホップの時間」と「賢者の鎧」)、その言葉をそのように発することなど普通ならあり得ないという台詞(深刻に「巨乳が舞いこんだ・・・」の長台詞や 「ブスだって人間・・・」と 切々と仲間に説く件り)等々。
私達には、無意識のうちに 言葉の持つイメージの刷り込みがあります。
例えば、「こんにちは」とか「ありがとう」とかは、日頃から様々な感情で発しているので イメージの幅も広く持っています。
しかし、狭いイメージの語である「巨乳」や「ブス」を 真顔で重々しく となると、これは 漠然と想像するより 遥かに難解です。
だからこそ、全身全霊で重厚に語り切っておられる芝居に 不条理的な面白さが呼吸(いき)づく訳です。
台詞の中には 古語も多く登場します。
これは逆に、現代の私達にとっては、ほぼ外国語と言えるほどに馴染みのない 刷り込みのないに等しい言語です。
刷り込みのない言葉に「血を通わせる」ということは、これも又、役者さんがたは なんなく発しておられるように聴こえますが、実際やってみると そうそう簡単ではないと解ります。
それらの 一筋縄ではゆかない台詞の数々が、極めて演劇的な「間」により 効果的に立ち、私達を魅了します。
「間」に どれほど心が砕かれ 細かな演出がつけられているかが 全編を通して明確に感じられます。
他にも、決して書き落とせない 強烈な感動要因があります。
山田氏の「表情の深さ」です。
中でも、盾を金持ちのラドマンの前で持ち出そうとしても持ち出せなかった時の 思いつめたまなざし や、オイッスの村でイガリヤから靴を受け取り 「(笑わせられなかった者を牢屋にぶちこむのは) やめとくよ」 と言わせた時の 笑み には、つくづく改めて、山田氏が 名優中の名優であることを 深く頷かずにはおれなく、繰り返し観入っては、その度に 感嘆のため息を長く吐いてしまいます。
私は、十二話の話を それぞれ十回ほど観、当記事を書くにあたって 冷却期間をおこうと何日か空けていますが、書き終わるや、再び 感動の海に船出するつもりです。
きっと、何百回も何千回も 漕ぎ出でると思います。
熱にうかされるほどに大きな感動を与えてくれる表現は又、鑑賞者を そうせざるを得ない行動にも突き動かすものです。
タグ:勇者ヨシヒコと魔王の城
すぐそこ [独り言]
歩くのが好きなので、ポケットに財布だけつっこんで サンダル履きで、片道一時間くらいは ひょこひょこと 日常的に散歩する。
私にとって 徒歩一時間の距離は「近所」、二十分から三十分くらいなら ちょいと「すぐそこ」である。
友人らに 飲食店や図書館の場所をたずねられ、つい自分の基準で「それなら すぐそこだから」と教えると、次回は ふぐちょうちんのようなふくれっ面と対面することとなる。
「ぜんっぜん すぐそこじゃないじゃないーーーー!!」 と。
「あっ! しまった! 悪かったな」と思うが、自分以外の人間にとって その距離が「少しだけ遠い」のか「かなりの遠さ」なのか「遥かかなた」なのか、今ひとつ把握できないでいる。
無論、たずねる側一人一人の感覚にも差異があるだろう。
そして又、答える私自身の基準も 常に一律 ではない。
散歩日和のこの時節は、「近所」は 片道二時間、「すぐそこ」は 一時間ほどに延長されたりするからである。
今春、私は 幾つのふぐちょうちんを破裂させてしまうのだろう・・・・・


私にとって 徒歩一時間の距離は「近所」、二十分から三十分くらいなら ちょいと「すぐそこ」である。
友人らに 飲食店や図書館の場所をたずねられ、つい自分の基準で「それなら すぐそこだから」と教えると、次回は ふぐちょうちんのようなふくれっ面と対面することとなる。
「ぜんっぜん すぐそこじゃないじゃないーーーー!!」 と。
「あっ! しまった! 悪かったな」と思うが、自分以外の人間にとって その距離が「少しだけ遠い」のか「かなりの遠さ」なのか「遥かかなた」なのか、今ひとつ把握できないでいる。
無論、たずねる側一人一人の感覚にも差異があるだろう。
そして又、答える私自身の基準も 常に一律 ではない。
散歩日和のこの時節は、「近所」は 片道二時間、「すぐそこ」は 一時間ほどに延長されたりするからである。
今春、私は 幾つのふぐちょうちんを破裂させてしまうのだろう・・・・・
新劇便覧1975 [感想文]
古書店・古本市にて 予想だにしない貴重な一冊を掘りあてたことのあるかたは 結構おられるのではないだろうか。
私の場合、十年ほど前に 中野サンプラザ前の青空古本市で発見した これである。
新劇便覧1975
(株)テアトロ発行の、表題通りの 1975年版新劇手引書である。
先ず、役者さんがたの顔々々が 劇団別に並ぶ。
文学座、文化座、俳優座の欄には 千田是也氏のお顔が最初にある。
民芸は滝沢修氏から始まり 次に 宇野重吉氏。 米倉斎加年氏は 二十人目くらいに登場する。
私達の多くがお声で印象深い役者さんのい並ぶ テアトルエコー。
四季、青年座、青俳、雲、早稲田小劇場、安部スタジオ・・・・・・。
フリー・その他の中には、今や、商業演劇の演出家と成り 日々 勢いよく灰皿を飛ばされているかたのお顔もある。
頭髪豊かな大駱駝艦艦長もおられる。
-----と、ここまで読んで、「?」と 思われたかたは多いのではないだろうか。
「何故、これら全てが、しかも 早稲小や安部スタジオまでもが新劇あつかいなの?」 と。
それは、この時代は未だ、現代演劇内のジャンル分けが 明確に確立していなかったからである。
歌舞伎や能などの古典以外は、全部「新劇」と ひとくくりに呼ばれていたのである。
今でこそ何の迷いもなく、例えば----「六十年代にアングラが出現し・・・」等と話されるが、アングラは 誕生した当初から「アングラ」とカテゴリーされていた訳ではない。
現代演劇の劇団が雨後の筍の如く萌芽し 様々に枝を伸ばし 葉をつけ 幾度も季節をくぐり抜けてゆく中、それを俯瞰する者達が、「余りにも多彩なので ある種の方向性で以って分類分けしようじゃないか」と、揺れつつブレつつ 今現在の分類に至った訳である。
国内外の劇作家の略歴と代表戯曲のシノプシスも掲載されている。
木下順二氏は やはり「夕鶴」と 「オットーと呼ばれる日本人」。
久保栄氏は、「火山灰地」 「林檎園日記」。 別役実氏なら「象」。
ブレヒトは「三文オペラ」 「肝っ玉おっ母とその子供たち」。 ミラーは、他でもなく「セールスマンの死」と「るつぼ」。
シェイクスピアは、流石に 九作品載せられている。
芝居全編を観にゆかねば という程ではないけれど 概要はおさえておきたい作品を知るのに非常に重宝する。
国内外の劇場の地図には、「ジャンジャンは無くなって つくづく悲しい」とか「アートシアター新宿文化は この場所に在ったのか!」 等と 思いを馳せる。
書籍として出版されている国内の戯曲の目録も入っている。
そして、演劇関係団体の所在地、役者さんの所属・住所・電話・特技までもが載せられている。
当時は、この便覧をたよりに 感想文やファンレターを投函した 熱烈な演劇ファンもいたのだろう。
演劇という文化を通して 三十七年の時代の変貌を実感できる 貴重な発掘品である。


私の場合、十年ほど前に 中野サンプラザ前の青空古本市で発見した これである。
新劇便覧1975
(株)テアトロ発行の、表題通りの 1975年版新劇手引書である。
先ず、役者さんがたの顔々々が 劇団別に並ぶ。
文学座、文化座、俳優座の欄には 千田是也氏のお顔が最初にある。
民芸は滝沢修氏から始まり 次に 宇野重吉氏。 米倉斎加年氏は 二十人目くらいに登場する。
私達の多くがお声で印象深い役者さんのい並ぶ テアトルエコー。
四季、青年座、青俳、雲、早稲田小劇場、安部スタジオ・・・・・・。
フリー・その他の中には、今や、商業演劇の演出家と成り 日々 勢いよく灰皿を飛ばされているかたのお顔もある。
頭髪豊かな大駱駝艦艦長もおられる。
「何故、これら全てが、しかも 早稲小や安部スタジオまでもが新劇あつかいなの?」 と。
それは、この時代は未だ、現代演劇内のジャンル分けが 明確に確立していなかったからである。
歌舞伎や能などの古典以外は、全部「新劇」と ひとくくりに呼ばれていたのである。
今でこそ何の迷いもなく、例えば----「六十年代にアングラが出現し・・・」等と話されるが、アングラは 誕生した当初から「アングラ」とカテゴリーされていた訳ではない。
現代演劇の劇団が雨後の筍の如く萌芽し 様々に枝を伸ばし 葉をつけ 幾度も季節をくぐり抜けてゆく中、それを俯瞰する者達が、「余りにも多彩なので ある種の方向性で以って分類分けしようじゃないか」と、揺れつつブレつつ 今現在の分類に至った訳である。
国内外の劇作家の略歴と代表戯曲のシノプシスも掲載されている。
久保栄氏は、「火山灰地」 「林檎園日記」。 別役実氏なら「象」。
ブレヒトは「三文オペラ」 「肝っ玉おっ母とその子供たち」。 ミラーは、他でもなく「セールスマンの死」と「るつぼ」。
シェイクスピアは、流石に 九作品載せられている。
芝居全編を観にゆかねば という程ではないけれど 概要はおさえておきたい作品を知るのに非常に重宝する。
国内外の劇場の地図には、「ジャンジャンは無くなって つくづく悲しい」とか「アートシアター新宿文化は この場所に在ったのか!」 等と 思いを馳せる。
書籍として出版されている国内の戯曲の目録も入っている。
そして、演劇関係団体の所在地、役者さんの所属・住所・電話・特技までもが載せられている。
当時は、この便覧をたよりに 感想文やファンレターを投函した 熱烈な演劇ファンもいたのだろう。
演劇という文化を通して 三十七年の時代の変貌を実感できる 貴重な発掘品である。
タグ:テアトロ