この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。
車谷長吉作品・己れにつきたてる刃の深さ [感想文]
自分は 精神的飢餓感を強く持った人間である。
そんな自分が、救われ 細胞の一つ一つまでもが 得も言われぬ幸福を感ずる時がある。
それは、複製不可能な己れという鍵に探しあぐねていたピッタリの鍵穴を発見した という程に、この人物は自分にとって特別だと思える表現者に遭遇し その作品に浸る時である。
今までの人生の中、自分は 計五人の 特別な鍵穴の表現者に出逢ってきた。
中学の時に、短歌 演劇 映画と 多方面で独自の世界を展開させた 寺山修司氏に。
二十代で、映像界の巨匠 松本俊夫氏に。
三十代で、同じく映像の 塚本晋也氏。
そして、数年前に 作家 車谷長吉氏を知った。
ふとしたきっかけで手に取った 代表作「赤目四十八滝心中未遂」を読み終えた瞬間、本を閉じ 顔をあげると、氏は 自分の四人目の特別な表現者の場所に立っておられた。
「赤目四十八滝心中未遂」----- 昭和二十年生まれの氏は、時代はバブル直前の三十代のある時期 健康保険証をも持てぬ身となり、阪神尼ケ崎にて 豚や鶏の臓物を串に刺すことを生業とする。 そして、そこで出逢った ヤクザの兄を持つ朝鮮人アヤちゃんに魅かれ、兄の借金のカタに売られる彼女と 心中未遂に至る という長編の私小説である。
私小説というものは、己れの内臓深くに刃をつきたて 生臭い臓物を引きずり出す行為だと 自分は思っている。
時々 自己弁護とエゴイズムで包装に包装を重ねた私小説なるものに遭遇するが、ああいったものは 読んでいて 胸やけがするだけである。
人間には 無論 それらの感情がついてまわる訳だが、そんなことは 飲み屋のホステスや人のいい友人にでも吐くのが相応しい。
趣味の世界にとどまる日曜文士ならまだしも それで金を得ようというプロの物書きなら、作中の「私」に弁護させるのではなく 「私は こんな風に自己弁護してしまう人間です」と白状し、エゴイズムを 作中の「私」に 美しい言動として終結させるのではなく 「私はエゴイズムのために こんな言動をとってしまいました」と さらけ出すものだと思う。
別の位置に立っていうと、人の心を打ち震わせる私小説というものは 「私は いつ どこで 何をしました」という物理面に忠実になることなどでは決してなく、-----私小説も 小説という 文学の一ジャンルなのだから 出来事をそのまま綴って「作品」として成立することは 基本的に ない----- いかに 嘘 偽りなく 己れの内面深くに下降しているか だと思う。
車谷氏は 自身の臭い立つ内臓のひだの一枚一枚を たどり めくり 広げ、彩度 明度共に どろりと鈍らせたような 独特の 古めかしい文体で 「ほら、これが私なのです」 と 淡々と 見せつけてくれる。
人を振り向かせ 身動き出来ぬほど魂を奥底から掴み そして救い上げる表現者は、他者に残酷であるだけでなく 何よりも 自己に残酷なものである と 改めて思い知らされる。
「赤目----」を完読した次の日、自分は 氏の作品を 小説 随想 全て買いそろえ、息もつかずに読破していった。
やはり 車谷長吉氏は、「自分にとって 四人目の鍵穴の表現者だ」 と 深いため息とともに 作品を胸にかかえ揃えた。
自分の精神の飢餓が また一つ 大きく救われた。


そんな自分が、救われ 細胞の一つ一つまでもが 得も言われぬ幸福を感ずる時がある。
それは、複製不可能な己れという鍵に探しあぐねていたピッタリの鍵穴を発見した という程に、この人物は自分にとって特別だと思える表現者に遭遇し その作品に浸る時である。
今までの人生の中、自分は 計五人の 特別な鍵穴の表現者に出逢ってきた。
中学の時に、短歌 演劇 映画と 多方面で独自の世界を展開させた 寺山修司氏に。
二十代で、映像界の巨匠 松本俊夫氏に。
三十代で、同じく映像の 塚本晋也氏。
そして、数年前に 作家 車谷長吉氏を知った。
ふとしたきっかけで手に取った 代表作「赤目四十八滝心中未遂」を読み終えた瞬間、本を閉じ 顔をあげると、氏は 自分の四人目の特別な表現者の場所に立っておられた。
私小説というものは、己れの内臓深くに刃をつきたて 生臭い臓物を引きずり出す行為だと 自分は思っている。
時々 自己弁護とエゴイズムで包装に包装を重ねた私小説なるものに遭遇するが、ああいったものは 読んでいて 胸やけがするだけである。
人間には 無論 それらの感情がついてまわる訳だが、そんなことは 飲み屋のホステスや人のいい友人にでも吐くのが相応しい。
趣味の世界にとどまる日曜文士ならまだしも それで金を得ようというプロの物書きなら、作中の「私」に弁護させるのではなく 「私は こんな風に自己弁護してしまう人間です」と白状し、エゴイズムを 作中の「私」に 美しい言動として終結させるのではなく 「私はエゴイズムのために こんな言動をとってしまいました」と さらけ出すものだと思う。
車谷氏は 自身の臭い立つ内臓のひだの一枚一枚を たどり めくり 広げ、彩度 明度共に どろりと鈍らせたような 独特の 古めかしい文体で 「ほら、これが私なのです」 と 淡々と 見せつけてくれる。
人を振り向かせ 身動き出来ぬほど魂を奥底から掴み そして救い上げる表現者は、他者に残酷であるだけでなく 何よりも 自己に残酷なものである と 改めて思い知らされる。
「赤目----」を完読した次の日、自分は 氏の作品を 小説 随想 全て買いそろえ、息もつかずに読破していった。
やはり 車谷長吉氏は、「自分にとって 四人目の鍵穴の表現者だ」 と 深いため息とともに 作品を胸にかかえ揃えた。
自分の精神の飢餓が また一つ 大きく救われた。
タグ:赤目四十八滝心中未遂 車谷長吉