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恥ずべき人 [独り言]
人生、必ずしも 勝つ事のみに意義があるわけではない。
のんびり生きたいから それ相応の結果でかまわない というのも、立派な選択肢の一つである。
それは、決して 恥ずべきではない。
しかし、まれに 努力はしたくないが 他人より秀でた結果は得なければ納得がいかない という人がいる。
そういう人は、他人から与えられた正当な評価の方が間違っている というような事を 更に高みに立っているらしい位置から発する。
要するに、いい大人になっても 「己れ」というものが見えていないのである。
恥ずべきなのは そういう人間である。


のんびり生きたいから それ相応の結果でかまわない というのも、立派な選択肢の一つである。
それは、決して 恥ずべきではない。
しかし、まれに 努力はしたくないが 他人より秀でた結果は得なければ納得がいかない という人がいる。
そういう人は、他人から与えられた正当な評価の方が間違っている というような事を 更に高みに立っているらしい位置から発する。
要するに、いい大人になっても 「己れ」というものが見えていないのである。
恥ずべきなのは そういう人間である。
タグ:恥
桃 [独り言]
桃ならば、小さくて青いのを 皮を剥かずに みっしりと生えた産毛に歯をあて カリカリと味わいたい。
自分にとっての桃というものは そういうものである。
だから、自分は未だ 桃らしい桃を享楽したことがない。
しかし いつか 何十年か先、こんな五月終わりの午下りに 駅前のフルーツショップの棚隅に 控え目な面持ちで座る青いまん丸に ふいに めぐり逢えないともかぎらない。
自分は、今までも すべてそういう形で 己れにとって価値あるものに出逢ってきたのだ。
タグ:桃
大洗にも星はふるなり☆らいとなり [感想文]
重く奥行きのあるワインが好きだ。
全神経を集中させて その奥深さを舌の上にトロリと享楽するのは 至福である。
しかし 時として、何の気がまえもなく 好き勝手な流儀で飲れる軽いビールが むしょうに欲しい日がある。
それでなければ駄目な気分の日がある。
だから、自分の部屋の棚には 黒々としたフルボトルの間に 控え目に輝く流星のように コロナビールがひかえている。

映画とて同じである。
自分は、昨年秋 「大洗にも星はふるなり」(監督・福田雄一氏 主演・山田孝之氏) を観に行った。
七人の若者が、自分こそが 仲間内のマドンナに相応しい男だと 恋愛モノローグを疾走させる 真冬の海の家を舞台にした 密室劇風の ナンセンス・コメディーである。
マドンナは、それぞれの男達の観念の中に 都合よく微笑み 手を伸べ、そして他の男達によって壊される。
そんな 幻想と破壊のバトルの末、すべては 男の内の一人の切ない嘘に翻弄されていたのだと あっけなく判明し、その上 切ない嘘を吐かざるを得ない感情に突き動かした理由自体も、彼のちょっとした勘違いだったと明らかになる。
つまり、「何も起こらない劇映画」なのである。
のみならず、技法的にも 別段 特別な事や革新的な事をやっている訳ではない。
観客は、何の緊張感も強いられないまま 淡々と季節外れの海の家を覗き、男達の馬鹿馬鹿しい観念世界を披露させられるだけである。
しかし、これが意外にも面白い。
さして展開のないと十二分に見すかせる会話に いつしか ゆるゆるずるずると引き込まれてゆき、あくまで日常の域から越境しない 些細な感情の起伏を覗き見する行為が こんなにも飽きないものかと発見させられる。
ゆるやかな自由な空気の中に すべての役者を生き生きと動かし 程よい緩急をつけてバランスを取ってゆく この監督の手腕には、静かな凄みを感じずにはおれなかった。
ゆるやかさ 自由さは、あらゆる意味で そこここに見られた。
タイトルバックは、そうある必然はどこにもないのに 明らかに チェコのアニメーション作家 ヤン・シュヴァンクマイエルに 強くリスペクトされているに違いない アーティスティックなもので、この部分を担当した映像作家は 自分の好きなことをやらせてもらえたのだろうな と推測できる。
また、チラシのデザインは、ザ・フーのアルバムを元に創られたモッズ映画「さらば青春の光」のそれを模したもので、これも ストーリー テーマに どこにも通底するところがなく、デザイナーの個人的趣味以外にはなかろうと思われる。
しかしながら、それらは 鼻につくことなく、ゆるりと 強烈な個性を持たない作品の一部として 溶けあっている。
この映画、五月二十八日に DVDになって登場するという。
何も考えずに 壁にもたれて コロナビールをラッパ飲みする日に観たい ルーズィーでライトな一本である。
自分の部屋の棚にある「ドグラマグラ」と「鉄男Ⅱ」の間に、是非とも 控え目に輝く星のように ひかえさせておきたい。


全神経を集中させて その奥深さを舌の上にトロリと享楽するのは 至福である。
しかし 時として、何の気がまえもなく 好き勝手な流儀で飲れる軽いビールが むしょうに欲しい日がある。
それでなければ駄目な気分の日がある。
だから、自分の部屋の棚には 黒々としたフルボトルの間に 控え目に輝く流星のように コロナビールがひかえている。
映画とて同じである。
自分は、昨年秋 「大洗にも星はふるなり」(監督・福田雄一氏 主演・山田孝之氏) を観に行った。
七人の若者が、自分こそが 仲間内のマドンナに相応しい男だと 恋愛モノローグを疾走させる 真冬の海の家を舞台にした 密室劇風の ナンセンス・コメディーである。
マドンナは、それぞれの男達の観念の中に 都合よく微笑み 手を伸べ、そして他の男達によって壊される。
そんな 幻想と破壊のバトルの末、すべては 男の内の一人の切ない嘘に翻弄されていたのだと あっけなく判明し、その上 切ない嘘を吐かざるを得ない感情に突き動かした理由自体も、彼のちょっとした勘違いだったと明らかになる。
のみならず、技法的にも 別段 特別な事や革新的な事をやっている訳ではない。
観客は、何の緊張感も強いられないまま 淡々と季節外れの海の家を覗き、男達の馬鹿馬鹿しい観念世界を披露させられるだけである。
しかし、これが意外にも面白い。
さして展開のないと十二分に見すかせる会話に いつしか ゆるゆるずるずると引き込まれてゆき、あくまで日常の域から越境しない 些細な感情の起伏を覗き見する行為が こんなにも飽きないものかと発見させられる。
ゆるやかな自由な空気の中に すべての役者を生き生きと動かし 程よい緩急をつけてバランスを取ってゆく この監督の手腕には、静かな凄みを感じずにはおれなかった。
ゆるやかさ 自由さは、あらゆる意味で そこここに見られた。
タイトルバックは、そうある必然はどこにもないのに 明らかに チェコのアニメーション作家 ヤン・シュヴァンクマイエルに 強くリスペクトされているに違いない アーティスティックなもので、この部分を担当した映像作家は 自分の好きなことをやらせてもらえたのだろうな と推測できる。
また、チラシのデザインは、ザ・フーのアルバムを元に創られたモッズ映画「さらば青春の光」のそれを模したもので、これも ストーリー テーマに どこにも通底するところがなく、デザイナーの個人的趣味以外にはなかろうと思われる。
しかしながら、それらは 鼻につくことなく、ゆるりと 強烈な個性を持たない作品の一部として 溶けあっている。
この映画、五月二十八日に DVDになって登場するという。
何も考えずに 壁にもたれて コロナビールをラッパ飲みする日に観たい ルーズィーでライトな一本である。
自分の部屋の棚にある「ドグラマグラ」と「鉄男Ⅱ」の間に、是非とも 控え目に輝く星のように ひかえさせておきたい。
タグ:大洗にも星はふるなり
理論派・感覚派 [感想文]
数年前に聴講した 日本・近代演劇史のシンポジウムにて、ビデオの中の唐十郎氏は こう話していた。
「自らアングラ演劇を演ろうと意識したことはありません。 私自身は無自覚に自然に創ってきたものを 周りが それはアングラだ と位置づけたのです。 そうやって 他者に位置づけられることによって 自分が演っているのは アングラである と自覚したのです」
この理屈は、あらゆる物事にあてはまるであろう。
つまり、それが何であるかは 相対的に 他との比較により浮かび上がり、第三者の目によって 決定される。
当人は、自身を そういう俯瞰的な目で見ることが出来た時に 初めて「自分は何であるか」の一般論的説明が可能と成るのである。
そして、それは言わずもがな 容姿や表層の性格に匹敵する解りやすい部分は 年若い時点で自覚し、「アングラ」の様な専門的分野の方向性は、その仕事を始めてしばらく経ってから 知ることと成る。
ましてや、作品を創る過程が 理論的なのか 感覚的なのかとなると、「私は こうこう こういう手順を追って表現に至っています」と発し その反応を確認した後でないと、本人が一番 理論派か感覚派か 解らないでいたりする。
何故なら、人間は誰れでも 根源的に「自分の考え方が当たり前」と思っているので、理論的表現者が理論的構築の元に作品を完成させても 当人にとっては極めて自然ななりゆきなので、余程 冷めた第三者の目を持っていない限り 「私は感覚で創っています」と言ったりする。
また、第三者の言葉を知っている表現者であっても あくまで自分が基準だったり 自身よりも より理論的な表現者しか比較としていない場合は、やはり がんと「感覚だ」と主張する。
自分は、演劇や映像に関しては まるで一観客という立場の素人であるが、かつて 別の分野で 稚拙ながらも 表現のはしくれのような仕事をしていた。
そんな己れを振り返っても それは立証出来る。
自分も 自身が理論派だと認識したのは 仕事を始めてから可成りの年数を経た頃で、それに気付かされた時には 少々驚いた。
「よく皆、大して考えないで進められるものだなぁ」と。
すべての表現分野に於いて 表現のキッカケは、先ず ソーダの泡の如く浮かんでくる感覚である。
そして、それを泡のまま作品にぶつけるか、泡を あれこれ 結合させ 組み立て あるいは壊して構築してゆくかで 理論派か感覚派に分かれる。
-----これが、俯瞰的一般論的分類 と言っていいであろう。
無論、どちらの手法で創ろうが また どう自覚していようが、優れた作品が生み出せれば良いのであるが、自称感覚派の理論派がいるのと同様に「自分は理論派だ」と 何の疑問も抱かずに発する感覚派が存在するのも また 事実である。
そういう表現者についての第三者の評論は 留まる所なく 宇宙の如く 拡張し続ける。
本来 どこにもある筈のない理論を 探し求めることとなるのだから。


「自らアングラ演劇を演ろうと意識したことはありません。 私自身は無自覚に自然に創ってきたものを 周りが それはアングラだ と位置づけたのです。 そうやって 他者に位置づけられることによって 自分が演っているのは アングラである と自覚したのです」
つまり、それが何であるかは 相対的に 他との比較により浮かび上がり、第三者の目によって 決定される。
当人は、自身を そういう俯瞰的な目で見ることが出来た時に 初めて「自分は何であるか」の一般論的説明が可能と成るのである。
そして、それは言わずもがな 容姿や表層の性格に匹敵する解りやすい部分は 年若い時点で自覚し、「アングラ」の様な専門的分野の方向性は、その仕事を始めてしばらく経ってから 知ることと成る。
ましてや、作品を創る過程が 理論的なのか 感覚的なのかとなると、「私は こうこう こういう手順を追って表現に至っています」と発し その反応を確認した後でないと、本人が一番 理論派か感覚派か 解らないでいたりする。
何故なら、人間は誰れでも 根源的に「自分の考え方が当たり前」と思っているので、理論的表現者が理論的構築の元に作品を完成させても 当人にとっては極めて自然ななりゆきなので、余程 冷めた第三者の目を持っていない限り 「私は感覚で創っています」と言ったりする。
また、第三者の言葉を知っている表現者であっても あくまで自分が基準だったり 自身よりも より理論的な表現者しか比較としていない場合は、やはり がんと「感覚だ」と主張する。
自分は、演劇や映像に関しては まるで一観客という立場の素人であるが、かつて 別の分野で 稚拙ながらも 表現のはしくれのような仕事をしていた。
自分も 自身が理論派だと認識したのは 仕事を始めてから可成りの年数を経た頃で、それに気付かされた時には 少々驚いた。
「よく皆、大して考えないで進められるものだなぁ」と。
すべての表現分野に於いて 表現のキッカケは、先ず ソーダの泡の如く浮かんでくる感覚である。
そして、それを泡のまま作品にぶつけるか、泡を あれこれ 結合させ 組み立て あるいは壊して構築してゆくかで 理論派か感覚派に分かれる。
-----これが、俯瞰的一般論的分類 と言っていいであろう。
無論、どちらの手法で創ろうが また どう自覚していようが、優れた作品が生み出せれば良いのであるが、自称感覚派の理論派がいるのと同様に「自分は理論派だ」と 何の疑問も抱かずに発する感覚派が存在するのも また 事実である。
そういう表現者についての第三者の評論は 留まる所なく 宇宙の如く 拡張し続ける。
本来 どこにもある筈のない理論を 探し求めることとなるのだから。
生まれ直しの儀式・塚本晋也 作品群 [感想文]
「観念のセルフポートレート」というものを持っている人は どれくらいいるだろうか?
持っているとしたら、そこに写っている自身の輪郭は 現実の自身とぴったり同一であろうか?
自分は 持つ人間である。
そして、その中の己れの背後には、必ず 新宿の高層ビル群がそびえ立っている。
否、脊髄から生えている といったほうが相応しいかも知れない。
そこから己れの輪郭を切り取れ と言われたら、自分は迷うことなく ビルごと切り取る。
もし 間違って ビルと自分の身体の間にハサミを入れようものなら、ビルと身体をつなぐ大動脈ほどの血管は 破れ、血潮は 天高く吹きあがり、自分は バッタリと倒れ 息絶えてしまうこと必至である。
自分は、自身にもよく解らない中に 己れの精神を生きるには この観念のポートレートを かた時も手放すことが出来ないのであった。
この感覚は、誰れに話したところで およそ理解してもらえる筈もなく、どころか 言わんとしているあらましからして 掴みかねられ ただただ奇妙な顔をされるのが常だった。
と、三十歳を過ぎたある時、別段 何の期待もなく 気まぐれに 一本のビデオを借りた。
-----塚本晋也監督「鉄男Ⅱ」。
自身の表層の意思とは関わりなく 肉体が鉄へと化す男の物語が、そこここに挿入されたアニメーション技術により 死力の疾走の如きテンポで迫ってきた。
みるみる 自分のビルを背負った輪郭に、塚本晋也という影が駆け寄った。
自分は身動きが出来なかった。
同時に 己れの内部が洗い流されるのを はっきり認識した。
胎内回帰 意識下への下降・・・・・
そして、肉体のすべてが鉄と成った男は、東京の街を破壊する。
-----生まれ直しの儀式である。
それは、塚本晋也氏自身の ひりつく 痛みをともなう切望に他ならないのだった。
自分の輪郭に塚本氏がピタリと重なった瞬間だった。
自分は、この「鉄男Ⅱ」により、何故 自分の観念のセルフポートレートがビルを生やしているのかを解き明かされた。
観念のセルフポートレートの輪郭は、未来に生まれ直しを切望する己れなのだった。
そして、氏は、自分が止まっていた位置から フイルムをまわし 鮮やかに 自分の夢を代弁してくれたのだった。
その後、自分は 氏の作品を観あさった。
中でも、「鉄男」「東京フィスト」「バレットバレエ」「双生児」、この四作品には やはり 非常に 己れに近い輪郭を見、自分は より深い塚本世界へと下降していった。
調べると、氏は 高度成長期に東京に育った人で ある種の強いコンプレックスを抱えていたという。
それを知った時、自分は「やっぱり・・・」と 深く頷かざるをえなかった。
自分はそれまでの人生で、寺山修司氏 松本俊夫氏と 二人の 「どうにもならなさ」を源とした表現者に 精神の飢餓から救われてきた。
塚本氏は その三人目の人である。
先の二人に比べて 二つの物理的背景の共通項がある分だけ より ひりつく痛さとカタルシスを強く感じずにはおれない 我が人生で出逢うべくして出逢った表現者である。
5月22日 氏の新作「TETSUО・THE BULLET МAN」が公開になる。
久々に スクリーンいっぱいの塚本世界に飲みこまれてゆきたい。


持っているとしたら、そこに写っている自身の輪郭は 現実の自身とぴったり同一であろうか?
自分は 持つ人間である。
そして、その中の己れの背後には、必ず 新宿の高層ビル群がそびえ立っている。
否、脊髄から生えている といったほうが相応しいかも知れない。
そこから己れの輪郭を切り取れ と言われたら、自分は迷うことなく ビルごと切り取る。
もし 間違って ビルと自分の身体の間にハサミを入れようものなら、ビルと身体をつなぐ大動脈ほどの血管は 破れ、血潮は 天高く吹きあがり、自分は バッタリと倒れ 息絶えてしまうこと必至である。
自分は、自身にもよく解らない中に 己れの精神を生きるには この観念のポートレートを かた時も手放すことが出来ないのであった。
この感覚は、誰れに話したところで およそ理解してもらえる筈もなく、どころか 言わんとしているあらましからして 掴みかねられ ただただ奇妙な顔をされるのが常だった。
と、三十歳を過ぎたある時、別段 何の期待もなく 気まぐれに 一本のビデオを借りた。
-----塚本晋也監督「鉄男Ⅱ」。
自身の表層の意思とは関わりなく 肉体が鉄へと化す男の物語が、そこここに挿入されたアニメーション技術により 死力の疾走の如きテンポで迫ってきた。
みるみる 自分のビルを背負った輪郭に、塚本晋也という影が駆け寄った。
自分は身動きが出来なかった。
同時に 己れの内部が洗い流されるのを はっきり認識した。
胎内回帰 意識下への下降・・・・・
そして、肉体のすべてが鉄と成った男は、東京の街を破壊する。
-----生まれ直しの儀式である。
それは、塚本晋也氏自身の ひりつく 痛みをともなう切望に他ならないのだった。
自分の輪郭に塚本氏がピタリと重なった瞬間だった。
観念のセルフポートレートの輪郭は、未来に生まれ直しを切望する己れなのだった。
そして、氏は、自分が止まっていた位置から フイルムをまわし 鮮やかに 自分の夢を代弁してくれたのだった。
その後、自分は 氏の作品を観あさった。
中でも、「鉄男」「東京フィスト」「バレットバレエ」「双生児」、この四作品には やはり 非常に 己れに近い輪郭を見、自分は より深い塚本世界へと下降していった。
調べると、氏は 高度成長期に東京に育った人で ある種の強いコンプレックスを抱えていたという。
それを知った時、自分は「やっぱり・・・」と 深く頷かざるをえなかった。
自分はそれまでの人生で、寺山修司氏 松本俊夫氏と 二人の 「どうにもならなさ」を源とした表現者に 精神の飢餓から救われてきた。
塚本氏は その三人目の人である。
先の二人に比べて 二つの物理的背景の共通項がある分だけ より ひりつく痛さとカタルシスを強く感じずにはおれない 我が人生で出逢うべくして出逢った表現者である。
5月22日 氏の新作「TETSUО・THE BULLET МAN」が公開になる。
久々に スクリーンいっぱいの塚本世界に飲みこまれてゆきたい。
タグ:塚本晋也