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「桜の樹の下には」 と 「檸檬」 [感想文]
「桜の樹の下には」と「檸檬」は、言わずと知れた 梶井基次郎の代表作である。
何故、数有る梶井文学の中でも この二作品が 時代を超えて生き続けいてるのか?
作品そのものの完成度の高さは大前提として 特筆すべきは以下にあるであろう。
------我々一同が それらのモチーフに対して 同じように もやもやとした観念を抱き、梶井の提示する答えによって 「そうだ!それだ!!」 と 気付かされる 共感する ということである。
小説のモチーフの中には、当時は身近なもので 多くの人の共感を呼んだが 現代人にはどうもあまりピンと来ない というものが少なくない。
それは、道具や衣服や食べ物などの物質のみならず 身分制度や思想といった観念的なものに於いてもいえる。
あまりピンと来ないモチーフに対しては------何かに置き換えて見事にはまる場合を除いて------共感のしようがない。
けれど、「桜」も「檸檬」も 現代人の誰もにとって 非常に近しい物である。
そして、我々の多くは 作中の「私」と同じことを思う。
檸檬は、「レモンエロウのチューブを絞り出したようだな」 「そこだけ 何か空気が違って感ぜられるな」 と。
桜は、「あんなに美しく咲くなんて 何か信じられない」 「真っ盛りの状態は 神秘を発散する」 と。
しかし 我々は、その先にあるもの そこから下降したところにあるものが何なのかが 釈然とせずに 思い淀むだけである。
檸檬を手にした我々は、重さを確かめたり さまざまな色彩の上に乗せてコントラストを享しんだりするが、最終的に何を成すべきか解らずにいる。
そこに 「爆弾のように仕掛け置く」 と来る。
「ああ!そうだ!! 自分もそれがしたかったのだ!」 「これこそが 檸檬に最も相応しい扱いだったのだ!」 と はっと気付かされる。
「桜の花の生命力の前には 人間の命など かげろうの如くである。 が しかし、そんな言葉ではとうてい納得できぬ 背骨を這うような恐ろしさがある」
梶井は、「それぞれの樹の下には 死体が埋まっているからだ」 と 教えてくれる。
「そうだったのだ!!」 と 溜飲が下がる。
「桜」と「檸檬」は、将来も 我々にとって身近な物であり続けるだろう。
あり続ける限り この 我らが梶井の代表二作品は 熱く 鋭く 命の鼓動を打ち続ける筈である。


何故、数有る梶井文学の中でも この二作品が 時代を超えて生き続けいてるのか?
作品そのものの完成度の高さは大前提として 特筆すべきは以下にあるであろう。
------我々一同が それらのモチーフに対して 同じように もやもやとした観念を抱き、梶井の提示する答えによって 「そうだ!それだ!!」 と 気付かされる 共感する ということである。
小説のモチーフの中には、当時は身近なもので 多くの人の共感を呼んだが 現代人にはどうもあまりピンと来ない というものが少なくない。
それは、道具や衣服や食べ物などの物質のみならず 身分制度や思想といった観念的なものに於いてもいえる。
けれど、「桜」も「檸檬」も 現代人の誰もにとって 非常に近しい物である。
そして、我々の多くは 作中の「私」と同じことを思う。
檸檬は、「レモンエロウのチューブを絞り出したようだな」 「そこだけ 何か空気が違って感ぜられるな」 と。
桜は、「あんなに美しく咲くなんて 何か信じられない」 「真っ盛りの状態は 神秘を発散する」 と。
しかし 我々は、その先にあるもの そこから下降したところにあるものが何なのかが 釈然とせずに 思い淀むだけである。
檸檬を手にした我々は、重さを確かめたり さまざまな色彩の上に乗せてコントラストを享しんだりするが、最終的に何を成すべきか解らずにいる。
そこに 「爆弾のように仕掛け置く」 と来る。
「ああ!そうだ!! 自分もそれがしたかったのだ!」 「これこそが 檸檬に最も相応しい扱いだったのだ!」 と はっと気付かされる。
「桜の花の生命力の前には 人間の命など かげろうの如くである。 が しかし、そんな言葉ではとうてい納得できぬ 背骨を這うような恐ろしさがある」
梶井は、「それぞれの樹の下には 死体が埋まっているからだ」 と 教えてくれる。
「そうだったのだ!!」 と 溜飲が下がる。
「桜」と「檸檬」は、将来も 我々にとって身近な物であり続けるだろう。
あり続ける限り この 我らが梶井の代表二作品は 熱く 鋭く 命の鼓動を打ち続ける筈である。
「これから・予告」 [独り言]
皆さん こんにちはでやす、ぼんぼちぼちぼちでやす。
先程 目を覚ましたあっしは、ちょっとしたアクシデントに見舞われてしまいやした。
いえ、アクシデントに見舞われたのは、正確にいうと昨夜なんでやすが
どんくさいあっしが そんな己れに気がついたのが ほんの少ぅし前なんでやす。
どんなアクシデントだったか、そして、今日これからの一日をどう過ごすか
4月5日公開「これから・上」 4月11日「これから・中」 4月17日「これから・下」にて
皆さんにだけ そっと 打ち明けようと思いやす。
では、あっしは そろそろ この擦り切れた畳の四畳半のアパートを出やすんで・・・・・
空気清浄機・その絶大なる威力! [喫茶店・レストラン・カフェ]
ある日の午後、充二分に暖かさを感じたので バスで S線O駅まで ふらりと揺られてみた。
駅前の、カフェ・ラ・ミル的な方向性と思われる つまり 極めて高級そうな洒落た外観の喫茶店に入ってみる。
が、内部は 何処もかしこも 埃をかぶった 緊張感のない空間であった。
薄汚れた白壁に 「空気清浄機○○(商品名)作動中」 と書かれたポスターばかりが目を引く。
客の一人 初老の婦人が
「空気清浄機って これね」
と、カウンターの真ん中に置かれた 大きさも 上部がカマボコ型の形状も 小型犬や猫を運ぶバスケットそっくりの箱を指した。
すると、六十歳くらいの これもまた 緊張感のない雰囲気のマスターが、間髪おかず
「この空気清浄機は 他所のとは違うんですよ。 電磁波を吸い取るんです。 今、これだけ 犯罪やうつ病が蔓延しているのは パソコンやケータイ電話の電磁波のせいなんです。 で、ある人が 不良で手のつけられない息子の部屋に こっそり 気づかれないようにこれを置いたら、一年で ピタッと不良がおさまって 真っ当な別人に変わったんです。 それで、医者と学者の間で大騒ぎになりましてね。 でも、私は 大々的に発表する気はないんですよ。 何故なら、世の中 インチキが多いでしょ、これもインチキと思われちゃ たまりませんからね三万八千円です」
と、句読点の間を空けずに答えた。
自分は、壁上方に据え付けられた照明器具の笠に揺れる 蜘蛛の巣を見上げた。
木蓮 [独り言]
家から駅へゆく路に 木蓮の木がある。
二階屋の屋根を越えるほどの 白木蓮である。
毎年 この時節になると、白群の空に やや暖色寄りの白い花を 枝という枝につけ、感慨深く見惚れるというよりは その生命力の果てしのない底力に 打ちのめされるような目眩を覚えてしまう。
「桜の花の下には 死体が埋まっている」 と同義の 人間界の理屈ではとても言い尽くせない 空恐ろしさである。
「木蓮」という名の由来は、花の形が蓮に似ているからだという。
しかし、咲いている様は どう見ても そうは見えない。
が、清浄無垢の花の短い盛りが過ぎ 花弁が地面に撒き散らかった景は、あたかも 寺で 僧侶が撒く紙の蓮華、散華(さんげ)そのものである。
駅路への仏華は、庭から半身 道路にはみ出し 枝を伸ばしている。
その散華は、しっとりと 白いそのままに在るのであれば 落椿のように美しい。
が、落ちるや みるみる汚らしい茶色に変化してゆく。
その家の人は、毎年 路と庭との散華を掃き取り、指定のゴミ置き場には 四十五リットルの袋 五つ六つと 無垢の果てが 腐りながら並ぶ。
「諸行無常」を 身を以って現しているような花である。
-----なお、木蓮の花の写真については、これから続々と公開される写真ブログのかたがたの素晴らしい作品を ご鑑賞くださいでやす-----


二階屋の屋根を越えるほどの 白木蓮である。
毎年 この時節になると、白群の空に やや暖色寄りの白い花を 枝という枝につけ、感慨深く見惚れるというよりは その生命力の果てしのない底力に 打ちのめされるような目眩を覚えてしまう。
「桜の花の下には 死体が埋まっている」 と同義の 人間界の理屈ではとても言い尽くせない 空恐ろしさである。
「木蓮」という名の由来は、花の形が蓮に似ているからだという。
しかし、咲いている様は どう見ても そうは見えない。
が、清浄無垢の花の短い盛りが過ぎ 花弁が地面に撒き散らかった景は、あたかも 寺で 僧侶が撒く紙の蓮華、散華(さんげ)そのものである。
駅路への仏華は、庭から半身 道路にはみ出し 枝を伸ばしている。
その散華は、しっとりと 白いそのままに在るのであれば 落椿のように美しい。
が、落ちるや みるみる汚らしい茶色に変化してゆく。
その家の人は、毎年 路と庭との散華を掃き取り、指定のゴミ置き場には 四十五リットルの袋 五つ六つと 無垢の果てが 腐りながら並ぶ。
「諸行無常」を 身を以って現しているような花である。
-----なお、木蓮の花の写真については、これから続々と公開される写真ブログのかたがたの素晴らしい作品を ご鑑賞くださいでやす-----
タグ:木蓮
嗚呼!素晴らしきカラオケ映像の世界 [音楽雑記]
多くの芸術に於いて 「直接的過ぎない」 「当たり前過ぎない」 ということは 大事な要素である。
如何に 巧妙に 計算高く 「ズラシ」 「ハズシ」 をやれるか否かで その作品の 粋か野暮かが決定される と言っても過言ではない。
そして その 「ズラシ」 「ハズシ」 が、どれ程 その世界の力点であるかを逆説的に証明するには、カラオケで流れる映像を例に挙げるのが最適であろう。
あれら、特に 演歌のものが、つい吹き出してしまうくらいの 安っぽく チンケな印象を観る者に与える要因は、稽古らしい稽古も無しに臨む演技や、手軽な場所での数少ないテイクもあるだろうが、それ以上に 「ズラシ」「ハズシ」の振幅の少なさが大きいと思う。
哀しい女歌では、矢張り 画面の中でも 着物姿の女が 哀しみを前面に出した面持ちで 一人 徳利を傾けていたりする。
威勢のいい男歌では、祭り姿に角刈りの男が 山に向かって仁王立ちになっていたりする。
同じ予算でも もう少し象徴的なシナリオを創れば もっと粋に仕上がるのに と思う。
が しかし、チンケな安っぽさには 計算され尽くした粋には 絶対に出せない 妙な味わいがある。
商店街を飾るセルロイド調の造花や 屋台の べったりとしたソース焼きそばのように。
そして、それらは 我々に ある種の安らぎを与えてくれる。
「心も 体も 脳細胞の一つ一つも、思い切り弛緩していいんだよ」と。
だから、あれはあれで 一つの確立した世界として 伝承してゆく価値があるかも知れない。
芸術から 遠くかけ離れたものも 存在していて良いのである。
否、存在していたほうが 人間 豊かになれる。
タグ:カラオケ
接続詞 [感想文]
散文を書く中で、自分は 接続詞に弱いな という自覚がかなりある。
仕事がそう忙しくはなくなり、さて 念願の趣味という大海に いざ 泳ぎ出さむ!と 最初に学び始めたのがシナリオだった という理由も ひとつにはあると思う。
だから そう考えてしまうのかも知れないが、ここで接続詞を入れなくても充分解かる、解かるのに ありきたりのそれを入れたところで 文章が水っぽくなるだけではないか、入れるなら もっと 気の利いた キラリと光る接続詞を入れようじゃないか、と。
けれど、いつも思い浮かばず、結局 無くてもおかしくない場合は 入れずに終えることが殆んどなのである。
そんな思いの末、パソコンで「接続詞」を検索してみた。
自分が今まで気づかなかった 魅力溢れる接続の言葉の数々を発掘できる と考えたのだ。
しかし、十二分に知っている平凡なそれらばかりで ちょっと拍子抜けしてしまった。
そもそも 接続詞というものは、文章の潤滑油であるから それらに魅力を求めたこと自体が間違いだったのかも知れない。
朗読でも、接続詞は 重要な意味を持っていないので 通常 強くは読まない。
幾つめかの頁に 「接続詞占い」 というのがあった。
接続詞でどう占うのか 開けてみようとも思わなかったが、自分はこれを見た時、馬鹿馬鹿しさや他愛無さを通り越して、何か あわれな 或いは 恐ろしいものを感じた。
血液型や星座占いは 初対面の人間と早く親しくなろうという手段であり、動物占いやラッキーカラーに拘るのは 「私って 女のコらしいよね♪」という自意識の確認作業として 微笑ましさを感じる。
しかし、言葉の中でも 名詞や動詞ならまだしも 「接続詞」で占うとは・・・・
パソコンを前に一人 接続詞占いに興じる人間というのは、一体 どんな者達なのだろう?
やはり、集団の中で、いつも 居ても居なくても誰の記憶にも残らない類の人間なのだろうか?


仕事がそう忙しくはなくなり、さて 念願の趣味という大海に いざ 泳ぎ出さむ!と 最初に学び始めたのがシナリオだった という理由も ひとつにはあると思う。
だから そう考えてしまうのかも知れないが、ここで接続詞を入れなくても充分解かる、解かるのに ありきたりのそれを入れたところで 文章が水っぽくなるだけではないか、入れるなら もっと 気の利いた キラリと光る接続詞を入れようじゃないか、と。
けれど、いつも思い浮かばず、結局 無くてもおかしくない場合は 入れずに終えることが殆んどなのである。
そんな思いの末、パソコンで「接続詞」を検索してみた。
自分が今まで気づかなかった 魅力溢れる接続の言葉の数々を発掘できる と考えたのだ。
しかし、十二分に知っている平凡なそれらばかりで ちょっと拍子抜けしてしまった。
そもそも 接続詞というものは、文章の潤滑油であるから それらに魅力を求めたこと自体が間違いだったのかも知れない。
朗読でも、接続詞は 重要な意味を持っていないので 通常 強くは読まない。
幾つめかの頁に 「接続詞占い」 というのがあった。
接続詞でどう占うのか 開けてみようとも思わなかったが、自分はこれを見た時、馬鹿馬鹿しさや他愛無さを通り越して、何か あわれな 或いは 恐ろしいものを感じた。
血液型や星座占いは 初対面の人間と早く親しくなろうという手段であり、動物占いやラッキーカラーに拘るのは 「私って 女のコらしいよね♪」という自意識の確認作業として 微笑ましさを感じる。
しかし、言葉の中でも 名詞や動詞ならまだしも 「接続詞」で占うとは・・・・
パソコンを前に一人 接続詞占いに興じる人間というのは、一体 どんな者達なのだろう?
やはり、集団の中で、いつも 居ても居なくても誰の記憶にも残らない類の人間なのだろうか?
タグ:接続詞