ウェブCM赤いきつね「おうちドラマ編」は〝性的〟か 「猥褻」と「性的モノ化」は別問題だ
ここに一本のCMがあるとする。内容は何でも構わない。任意の一本を思い浮かべたら、次の問いに答えてみてほしい。そのCMは性的だろうか? あなたが思い浮かべたCMの内容にかかわらず、答えは一つに決まっている。 先ごろ公開されたマルちゃん(東洋水産)のウェブCMが人々の耳目を集めている。とりわけ、赤いきつねにフォーカスした「おうちドラマ編」の(例によって)女性表象が物議を醸しているようだ。なるほど、いかにも女性らしさに満ちた湿潤なつくりのCMではある。涙は古式ゆかしい「女の武器」に違いない。それが本人の意志では押しとどめられない体液の流出であるという点で、ホラー(スプラッター)やポルノグラフィーと同型の運動を描いている(メロドラマ、ホラー、ポルノを「身体ジャンル=ボディー・ジャンル」としてくくるのは映画論の常識である)。
論点は「問題視するほどかどうか」
さて、あるCMの表現が性的かどうかを問われれば「性的でもありうる」としか答えようがない。そもそも男性や女性、あるいは中性や両性や無性という言葉にさえすでに「性」は入り込んでいるのだから、男や女をうんぬんしている時点で十分に性的な話をしていることになる。性とはつまるところ文化が作り出す幻想である(性的唯幻論)。岸田秀の指摘をまつまでもなく「人間の性本能は無茶苦茶に壊れてしまっている」(注1)のだから、その気になれば動物や植物、無機物のいかんを問わず、およそあらゆる対象に性的なまなざしを向け、欲情することができる。 もちろん、大方の読者はそんなへ理屈じみた話が聞きたいわけではないだろうが、いずれにしても「性的かどうか」は最初から問いとして成立していない(すべては性的に決まっているのだから)。多くの人がじっさいに問おうとしているのは「問題視するほど性的かどうか」である。まずはこの点を峻別(しゅんべつ)しておきたい。
意見の一致はあり得ない
性的な状態にはほとんど無限の幅がある。人間はみな(男性であれ女性であれ中性、両性、無性であれそれ以外であれ)性的な存在なのだから、性的であることそれ自体に良いも悪いもない。とはいえ、すべてが無際限に許されているわけではない。時と場合に応じて何を許容し、何を拒絶するかは、究極的には社会や文化(法や慣習)が決める。しかし、人間の性が多形倒錯的である以上、社会構成員の意見が完全に一致することはどう転んでもありえない。性は人間にとって実存に関わる一大問題である。意見がぶつかったときに、お互いに譲り合うことは難しい。対立を繰り返すなかで、緩やかに傾向を変化させていくしかないだろう(それがどこを向くかは誰にもコントロールできない)。 「問題視するほど性的かどうか」にも大きく二つの水準がある。たとえば「問題視せざるをえないほど猥褻(わいせつ)である」と「問題視せざるをえないほど(性の描き方が)不適切である」とでは事情が異なる。じっさい、この水準のズレのために議論が平行線をたどっているように見受けられるケースが多々ある。