「変人」に、私はなりたい。
「よく人から「変わってるね」って言われるんですー」
とか言ってる人は、だいたい変わり者でもなんでもない素朴で平凡な小市民だったりしますよね。
そういえば、新しいバイト先の初日とか、新人教育係のスタッフが必ずと言っていいほど「うちのバイト、みんな変わってるからさあ」とか聞いてもいないのに申告してくるパターン多くないですか?
みんな「変わった人」になりたいんですよね。
特別な存在でありたいんですよね。
個性的な人は魅力があるし、独特な思考や行動が他人からの注目を浴びることにも繋がるし、一種の承認欲求なので人間として普通の感覚だとは思います。
「天才」=「変人」っていうイメージありますから、それで手っ取り早く「変人」っぽさをアピールしたりするのは王道ですよね。
かくいう私も、子どもの頃からずっと「変人」という存在に憧れておりました。
小学生までは地味でおとなしいチャーミングな坊やだったのですが、あるとき、というか完全にドリフの影響なんですが、変顔とかしたら周囲が笑ってくれることに気が付きまして。
アイーン! ですよね。例のアゴをしゃくらせるやつ。
これを多用して笑いを取っているうちに、「ぼくはおもしろいひとなんだ!」と勘違いしだすという、まあ誰でも通る道だと思います。
でも、ある日お母さんに「変な顔ばっかりしてたら、本当にそんな顔になっちゃうよ」って言われて、急に怖くなって変顔は一切しなくなりました。
「変な人」には憧れるけど、「変な顔の人」はカンベン! っていうところが、分別ある思考で非常に微笑ましいですよね。
そんな「変な人」への憧れは、年を重ねるたびにどんどん大きくなり、いまだにその気持ちは膨らみ続けています。
「変」だと思われたい一心で、ひたすら変なモノを見聞きし、変な人を追いかけ、変なコトにチャレンジしていく日々。
「変」になりたい・・・。
本物の「変人」が羨ましいです。
だって努力せずとも「変人」なんですから。
私みたいに「なんだコレ、変だなあ」とか思いながら、ムリヤリ変なモノを摂取しなくてもいいし、頑張って変なコトしてるわけじゃなくて、普通にしてるだけで変なんですもんね。
だから、地道な努力の甲斐あって、たまに「変わってるね」とか「変態だね」とか「アタマオカシイ」とか言われたりすると、もう歓喜に打ち震えて身もだえしてしまいます。
もっと、もっと言ってくれ・・・。
いやそこまでして「変人」になることなくない? って思う人もいるかもしれませんが、私のように何の取柄もない人間が “個性” を打ち出すには、もはやそれしか方法がなかったのです。
アタマ良くない、背も低い、顔も地味、話すのが苦手、人よりも秀でた部分がひとつも無い人間にとって、「変人」であることは他者とのコミュニケーションの部分で非常に効果的なのです。
「変人」を装っていることで、周囲の人間にミステリアスな存在として認識され、それが興味の対象へと繋がりやすい。
つまり、モテやすくなる。ということが実証済みであります。
私が「疑似変人」をはじめた10代から現在にかけて、交際したほとんどの女性が、私の第一印象を「変な人」「不思議な人」「面白い人」、中には「天才」などと評価していた方もおりました。
もはや一種の詐欺罪なのではないか? と思えるほど、「疑似変人」はモテの効果がバツグン!
しかし、デメリットとして、1年以内に彼女たちの私への評価が「真面目」「普通」「飽きた」などと大暴落してしまいます(ダメじゃん)
「疑似変人」は、あくまで「変人」に憧れた私の “なりすまし” に過ぎないわけで、つまりはすぐに化けの皮ははがれてしまうのです。
それでも私は、「変人」への憧れを捨てることができない。
いつか私も、本物の変人になれるのではないか?
本物のサイコパスになって、嬉々として連続殺人鬼を満喫できるような人間になれるのではないか?
そんな願望を胸に、今日も必死で「変な人」を演じ続けているのです。
とはいえ「普通であること」は決して悪い事ではないし、「個性が無い」と自分を卑下することもないとも思います。
世の中のほとんどの人が、私の「疑似変人」のように “他人に見せたい自分” を演じて生きているわけだし。
社会生活において、目に見える “個性” など何のあてにもならないでしょう。
演じることよりも、「自分らしくいること」のほうが、ずっとずっと難しいですからね。
コメント
1私に「変わってるね」と言わないでください。誰のことも騙していません。