一聞百見

「クマの手カフェ」誕生秘話 仕掛け人の栄光と挫折

バブル崩壊を機にメンタルの世界に飛び込んだ平村雄一郎さん=大阪市中央区(須谷友郁撮影)
バブル崩壊を機にメンタルの世界に飛び込んだ平村雄一郎さん=大阪市中央区(須谷友郁撮影)

鬱病や適応障害など心に傷を負った人たちが働く「クマの手カフェ」(大阪市中央区)が今月、開店から1周年を迎えた。海外の事例を参考に、精神的に繊細な人が安心して働けるようカウンセラーも常駐。最大の特徴は、店の壁に開いている穴から「クマの手」で商品を提供する手法だ。仕掛け人でメンタルサポート総合学園(大阪府八尾市)の平村雄一郎学園長(62)には、長らくファッションディレクターとして国内外で活躍していた過去がある。華やかな舞台から一転、メンタルの世界に飛び込んだ理由とは。

幾度も赴いたパリコレ

大阪府高槻市で少年時代を過ごした平村さん。昔から目立ちたがり屋で小学校では学級代表を務めた。中学生になると関心はおしゃれに移った。

参考にしたのは、姉が購入していた女性ファッション誌。当時流行していたアメカジ(アメリカン・カジュアル)ファッションを意識し、学ランの下には赤や黄のカラーシャツを着て登校していたという。私服通学が許される高校に進み、休日は大阪・ミナミのアメリカ村で古着を買いあさる日々。「自分を表現でき、時代を背負って注目されることが楽しかった」と振り返る。

甲南大在学中、何度も「おしゃれ甲南ボーイ」としてファッション誌に取り上げられた。方向性を決定づけたのは大学3年時の体験だ。スタイリストのアシスタントとして、大阪城ホールで開催された世界的なファッションイベントに携わった。三宅一生さんや山本寛斎さんら、名だたるデザイナーによるショーを目の当たりにし「ショーをプロデュースする仕事に就きたい」と心に決めた。

大阪のショー制作会社でファッションディレクターとして活躍し始めたころの平村雄一郎さん(平村さん提供)
大阪のショー制作会社でファッションディレクターとして活躍し始めたころの平村雄一郎さん(平村さん提供)

大学卒業後、モデル事務所に入社。ディレクターとしてイベントを企画したり、モデルのキャスティングを担当したりした。その後、大阪のファッションイベント製作会社に移り、幾度もパリコレの舞台に赴いた。舞台演出やモデルの衣装合わせなどで15年以上、第一線で活躍した。

仕事は10分の1、年収は8割減

華やかな世界で順風満帆に生きてきた平村さんだが、平成初期のバブル崩壊が人生を一変させる。

高級服が売れなくなり、モデルを使ったファッションショーやイベントは軒並み中止に。仕事の数は10分の1となり、年収は8割も減った。

「この先どうしていけばいいのか」。夕暮れの公園のベンチに腰を下ろし、自分の人生を振り返っていた。そのとき、脳裏を駆け巡ったのは、華やかな世界の裏側でスポットを浴びることなく消えていったモデルたちの姿だった。

努力が報われなかった人、深く傷ついて逃げるようにいなくなった人。これまで「勝ち組」と言われてきた人生がバブル崩壊で一転したとき、初めてそんな人たちの気持ちに思いをはせる自分がいた。

「どうしてあの人たちの気持ちに寄り添ってあげられなかったのか」。こんな自問自答と後悔が、心理学の世界の門をたたくきっかけになった。

バブル崩壊で痛感したのが、人に寄り添う大切さだった。それは華やかなファッションの世界では気づくことができなかった境地。平村さんは文字通り「第二の人生」を、心理学の分野で生き直そうと決めた。

フリーの立場でファッションディレクターを続けながら、学校に通って心理学を学んだ。民間の心理カウンセラーの資格を取得し、卒業した学校で心理学の講師として数年勤務。平成29年にカウンセリング養成学校のメンタルサポート総合学園(大阪府八尾市)を設立した。

アドラー心理学やマインドフルネスなど多岐にわたる講座を開設し、これまで200人以上のプロのカウンセラーを輩出。順調なスタートを切っていた。

しかし今度は新型コロナウイルス禍が直撃。感染拡大の影響で、講座の受講者も激減した。バブル崩壊の光景と似ているとも思えたが、心理学とともに第二の人生を歩む平村さんは強かった。

コロナで心がすさむ今こそ

「学園を卒業したプロのカウンセラーが活躍する場と、精神的に繊細な人が安心して働ける場を作れないか」。海外の事例を参考に昨年9月、大阪市中央区に「クマの手カフェ」をオープンさせた。コロナ禍で多くの人の心がすさむ今だからこそ、救いの場が必要だと考えたからだ。

「クマの手カフェ」は、外から見えるのは壁の穴のみで、そこからクマの手が飲み物をお客さんに渡すスタイルが話題を呼んでいる=大阪市中央区(須谷友郁撮影)
「クマの手カフェ」は、外から見えるのは壁の穴のみで、そこからクマの手が飲み物をお客さんに渡すスタイルが話題を呼んでいる=大阪市中央区(須谷友郁撮影)

店のシステムはユニークそのもの。客の注文を受けると、店の壁に開けられた穴から毛むくじゃらの「クマの手」が商品を提供する。クマとして働くのは鬱病やひきこもり、適応障害など心に傷を負った人たちだ。学園を卒業したプロのカウンセラーのサポートを受けながら、いずれも社会復帰を目指している。穴から商品を提供するという非対面・非接触での接客は、ストレスに敏感なクマ役の人たちへの配慮にもなっている。

不思議かつ奥の深いクマの手カフェはSNS(共有サイト)で話題となり、全国から若者が足を運ぶ人気店となっている。

当初はテークアウト専門店だったが、今年2月にはイートインコーナーを開設。店内には優雅な音楽が流れ、内装はパリの地下倉庫をイメージしてデザインした。ファッションプロデューサーとして、パリコレなどに何度も携わった平村さんならではのアイデアだった。

店には全国各地から途切れることのない手紙が届いている。「クマくん頑張って」という応援メッセージのほか、自身の悩みや相談内容がつづられたものも少なくない。

そこで平村さんは今年6月、店内に「クマくん相談室」を開設した。学園を卒業したプロのカウンセラーが、事前に申し込んだ人を対象に開店前の45分間、カウンセリングを実施するというものだ。平村さんは「大きな挫折や失敗経験も自信を持ってほしいし、嫌な自分を捨てて人は新たに変わることができるんだよって知ってほしい」とエールを送る。

「クマの手カフェ」でオーナーを務める平村雄一郎さん=大阪市中央区(須谷友郁撮影)
「クマの手カフェ」でオーナーを務める平村雄一郎さん=大阪市中央区(須谷友郁撮影)

20年近くファッション業界を駆け抜けてきた。その分、華やかな表舞台の裏側にある複雑な人間模様や激しい競争といった影の部分もたくさん見てきた。そしてバブル崩壊でつまずき、自分の足元をじっくり見つめるようになった。

だからこそ伝えたいことがある。「数字や利益、効率を重視し、人格否定されてしまうような世の中に対し、人の感情ってどれだけ複雑で繊細で、そして豊かなものなのかを知らせる存在になりたい」。平村さんは今、熱い思いを抱いている。(聞き手 木下未希)

ひらむら・ゆういちろう 昭和35年生まれ、大阪府高槻市育ち。甲南大を卒業後、ファッションディレクターとして活躍。モデルを使ったPRイベントや、パリコレ、東京・大阪コレクションなどのファッションショーの製作に約20年間携わった。平成29年に一般社団法人「メンタルサポート総合学園」を設立。昨年9月に繊細な人が働く「クマの手カフェ」をオープンさせた。

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