森田正馬は「自分は善人だ」と言う人は決して善人では無い、と言っており、加えて何か悪い事をしているのを指摘されると「他の人はもっとひどい事をやっている」等の自分勝手な理屈を付けて手に負えない、と書いている。
 私の経験および他人から聞いた話なんかから考えても、確かにやけに善人ヅラしている人たちは善人とは思えない。例えば、次のような事が見られる。

 やけに善人ヅラする人に反対意見を言ったり、相手を受け入れない態度を取ると、とたんに毒づいてくる。
 本当の善人なら、こういう場合どころか明らかに相手が悪いような場合でも、まず自分に落ち度があったんじゃないかと考える。決して最初から相手の方に問題があるなどと決めつけたりはしない。

 また、前述のとおり、問題点を指摘されると他人はもっと悪い事をしている、と開き直ってくる。という事は少なくとも「自分も少しは悪い事をしている」という自覚がある事になる。悪い事をしているという自覚があるのに通常、やめようとはしない。
 本当の善人ならたとえ自分以外の全ての人が悪い事をしていようと、自分だけは決してほんの少しでも悪い事をしようとは思わない。また、悪い事だと知らずにやっていた場合でも、悪い事だと知ったらすぐに改める。

 善人とはこういうものである。はたしてこの世の中に本当の善人はいったい何人いるだろうか。少なくとも私は自分が善人だとは思えない。

 しかし何故、やけに善人ヅラする人たちはそんな事をするのだろうか。森田もそこまでは書いていない。

 詐欺師のように相手をだまして何か企んでいるわけでは無い。詐欺師なら相手が引っかかったらすぎに姿を消してしまう。しかし善人ヅラの人たちは、むしろ自分を善人だと言ってくれる人のそばを離れようとしない。だから相手をだます事が目的では無い。何が目的なんだろうか。それがずっと分からなかった。
 しかし、心理学や精神医学の文献をいろいろと読んでいるうちに、ようやくそれが分かった。文献には、だいたい次のような記述があった。

ひどい劣等感から自殺を考えていた人たちが死なずにある程度落ち着きを取り戻すと、今度は他人を助けたいと考えるようになる。そうやって優越感を得ようとする。

 そういえば善人ヅラする人たちの事をどうして「やけに善人ヅラする奴だな」と思うのかと言えば、ほとんどの場合、彼らが「自分は他人の事をよく考えている」的な事を聞いてもいないのに吹聴したがるからだ。「人々を元気にしたい」だとか「無償の愛を届けたい」だとか「夢や希望を持たせたい」といった具合に。

 ひどい劣等感に悩まされている人というのは(実際は自発的に悩んでいると言えるのだが)、その劣等感から逃れるために、優越感を得るために、他人を誹謗中傷する手段を選ぶ事がある。それは知っていた。しかしもう一方で、善人ヅラする手段を選ぶ人もいるという事を初めて知った。

 だから反対意見を言われたりすると、彼らは憤慨する。劣等感から逃げたくて、褒めてもらったり感謝される事で優越感を得たくて善人ヅラしているのに、逆に劣等感を惹起させるような事を言われたりされたりするのだから。
 本当の善人じゃ無いから、悪い事も平気でできる。指摘されると、それを受け入れるのは屈辱に感じ、劣等感を呼び覚まされるので、受け入れる事をとにかく拒む。
 そういう事だったわけだ。

「人々を元気にしたい。」
 実際は元気にしてもらいたいだけである。彼らの中に元気は無い。人は持っていない物を他人に与える事はできない。

「無償の愛を届けたい。」
 実際は愛してほしいだけである。彼らの中に愛は無い。人は持っていない物を他人に与える事はできない。

「夢や希望を持たせたい。」
 本当は夢や希望を持たせてほしいだけである。彼らの中に夢や希望は無い。人は持っていない物を他人に与える事はできない。

 案外、誹謗中傷する輩の方がまだマシかもしれない。わざわざアラサガシをしてくれるのだから、上手く使えば自分の向上に役立つ。根も葉も無い事を言ってくるだけなら逆に相手を責めるぐらいは簡単だし。しかし善人ヅラの人は何かを言ったとしても、何に対してもお世辞やお追従ぐらいだから、何にもならない。
 それに誹謗中傷してくる相手なら誰でも警戒するだろうが、お世辞なんかを言ってくる人を「自分をダメにする相手」と考える人は滅多にいないだろう。実際はどちらも害悪になりかねないのだが。

 可能な限り、善人ヅラしたがる人とは付き合いを持たない方がいいだろう。できない場合でもビジネスライクな付き合いに留めた方がいい。
 そういう相手を利用してやろう、と考えるのなら話は別だが・・・。