女による女のためのR-18文学賞

新潮社

海を蹴る

深山(みやま)夏楠(かなん)

 水泳部のない放課後は退屈でしかなかった。いつもなら家からほんの一分で着く海岸も足を引きずってではのろのろとしか進まず、もう何もかもうまく進まない気がした。
 泳いでいての怪我ならまだしも体育で捻挫なんてまぬけすぎる。あさぎに話して笑い話にしようと思った。あいつなら笑って、わざとらしく憐んでみせて、あとは平然と泳ぎに誘ってくる。泳げないか僕も病院で聞いてみたものの、水中でキックすれば足首に負担がかかるから一週間は安静に、と言われてすごすご帰ってきた。
 岩場がこんなに安定が悪いなんて考えたこともなかった。捻った右の足首をかばってそろりそろりと進む。いつもの場所まで来て、いつもより慎重に腰を下ろす。満ち潮だから波の飛沫がすぐそこまで来る。首に下げたホイッスルをワイシャツの襟元から引き出して、思いっきり吹くといつもの音がして僕を少し安心させた。
 波と風の音と、後ろの道路で軽トラが一台通る音がした。もう一度吹いたところであさぎが顔を出した。子供の頃に両親にもらった銀色の小指くらいのサイズのホイッスルの音が、僕があさぎに会いに来た合図。あさぎの方が僕に会いたい時は通学路の海岸に面したところで待ち伏せして石とか投げてくる。
「海向(かなた)」
 波間からあさぎが僕を呼ぶ。水に濡れた白い頬につややかな赤みがさしている。
「部活じゃなかったの?」
 あさぎが岩に上がってきて聞いた。髪や背中に滴る水をまったく気にしない様子はまるでたった今海水から生まれてきたようだ。
「捻挫して一週間安静って言われた」
 包帯で固定された右の足首を見せる。
「えー。水泳で?」
「体育のハードル走で着地に失敗した」
「あはは、なあんだ。バカ」
 あさぎが可笑しそうに尾びれで岩を叩いた。あさぎは僕の従姉妹で、小さい頃から一緒に泳いできたライバルで、それから人魚だ。

 午後の海は静かだ。漁師の仕事は早朝だから。僕の家は漁師をやっている。父さんも、じいちゃんも、ひいじいちゃんも、叔父さん一家も、先祖代々ってやつ。
 僕の家系には代々、数世代に一度人魚が生まれてきた。ひいじいちゃんは子供の頃に会っていたらしい。じいちゃんや父さんたちは聞かせてもらった昔話を覚えていて、大人たちの話題には今でものぼる。ちょっと遠くに住んでいた変わり者の親戚って感じの話だ。漁に出た先の沖で会い、海の話や陸の話をする。たまに陸の甘味なんかを持っていくと喜ぶけど、好みを外すと漁に影響が出るから困った。そんな話。昔から人魚に助けられて漁師をやってきたのだ。
 実は僕が生まれるときにそろそろなんじゃないかって大人たちは思っていたらしい。けれども僕は立派な両脚を持って生まれてきて、今日めでたくその右足を捻挫している。そして僕の二歳下で生まれた従姉妹のあさぎが人魚だった。
 小さな町だ。人魚に生まれたあさぎのことを町の人たちはひっそりと知っている。学校でも、海向くんの家にはあさぎちゃんがいるからね、って特別なことみたいにみんな知ってた。
「水に入れないの?」
 退屈そうなあさぎが予想通りのことを聞いてくる。
「足首に負担かかるからしばらくだめって」
「ふーん。かわいそ」
 あさぎはそう言って、見せつけるようにするりと水に潜っていく。銀色の尾びれが飛沫とともに午後の日の光を反射させる。この岩の先はすぐに深くなっているから、うっかり岩でお腹をすりおろすこともなく水に入るとすぐに泳げる。あさぎが泳いで僕が座って話すにもちょうどいい。水に入れない今の僕は、岩にしばりつけられている気分だった。
 僕とあさぎはほとんど同時に海で泳ぎを覚え、潮の流れや風向きや波の高さを覚えた。僕に脚があるみたいにあさぎにはたまたま尾びれがあるんだっていう、僕にはそれだけのことだった。
 海の中のあさぎは、泳いでるというより無重力空間に浮いている。海の中にあさぎの動きを妨げるものはない。水の流れや波はすべてあさぎと一体化している。腕を広げてたゆたい、尾びれをめんどうくさそうに揺らす。けれどその気になれば身をひるがえし、空間を切り裂くような動きであっという間に遠くまで行ってしまう。それが泳ぐってことなんだと僕は思う。
 あさぎから見れば水泳部の活動なんてお遊びだ。僕が自己ベストタイムを出したときも喜んですらくれなかった。できるならあさぎのタイムも計ってみたいけど、たぶん真面目に泳いでなんかくれない。そういう気まぐれで自分勝手なところが話に聞いていた人魚そのものだ、と父さんたちは呆れたように言うけどそれを聞くたびに、あさぎは人魚だからそんな性格なんじゃなくてあさぎだからそうなんだろって僕は思っている。あいつに足があって陸を歩いてたとしても今の性格しか想像できない。
 僕は海もプールもどっちも好きだ。海は実践でプールは理論。プールで覚えた泳ぎ方を海で試してみたり、海で思うようにいかなかったことをプールでやり直したり。あさぎはいつも相棒で遊び相手だった。あさぎとならいくら泳いでも退屈しなかった。
 正直言って、町の子の中では僕が一番泳ぎは上手いと思う。歩く、走る、泳ぐ、が僕には全部一続きで、海の町で育った子はみんなある程度そうだけど、その中でも誰にも負けないつもり。人魚の家系だもんな、スタートが違う、と嫌味を言われることもあるけど、結局海の町では泳ぎが上手い奴が一番尊敬されるんだよ。まあ、捻挫なんかしてたら尊敬も何もないけど。
 岩の上に右足を投げ出して、水面の浅いところをあさぎが遊び泳ぐのを見る。長い髪が水に沿って流れ、銀色の尾びれが気まぐれに水面を叩く。
 泳げって言われたことはないけど、泳ぐなって言われたこともないから(「いつまで泳いでんの! 夕飯無しよ!」って母さんに言われたりはしてたけど)、とにかく自分が泳げないことなんて考えたことがなかった。ねえ、あさぎが泳げなくなったらどうする? って聞こうとしたけどやめる。あさぎが泳げなかったら生きていけないことくらいわかる。でも僕だって泳がずに生きてくなんてできないと思ってるのに。何が違うんだろ。
「いい機会だから、自分にとって泳ぐとはなんなのか考えてみな」
 一週間も泳がなかったら干からびる。病院から帰ってきて不満をこぼしていたら、水泳部のコーチにそう言われた。
「今まで海向くんはひたすら前に進むだけで良かった。でもそうじゃない時もあるんだよ。何のために泳ぐのか、自分のやりたいことを考えるいい機会だよ」
 わかるけどわからない。あさぎはそんなこと考えたことないだろう。何のために泳ぐのかなんて考えるまでもないだろう。やりたいこと? 泳ぎたいだけ。高校進学のときにみんなが悩んでる進路のことも他人事だった。泳ぎがめちゃくちゃ上手くなる。将来漁師になる。僕はそれだけだったから。あさぎだってそうでしょ。
「いいなー」
 岩場から、小石を放って投げるみたいに声をかける。
「泳いでたら悩みなんてないよな。進路もないし。やりたいこととか考えなくていいし」
 あさぎが水面から僕を見る。仰向けに浮かんで手を投げ出して、尾びれで上手く流れを制しているからどんなに水流に押されてもただ水面に寝転んでるみたいに見える。あさぎからしたら本当に寝転んでるのと変わらないんだろうけど。
「泳いじゃえばいいのに」
「ダメって言われてる」
「言われてるだけでしょ」
 つーっとあさぎが岩場に近づき、その勢いのままふわりと僕の目の前まで上がってきた。両手をついて僕とまっすぐに目を合わす。夏服の制服のズボンに海水がかかりそうだったけど僕は動かなかった。
「泳げるでしょ。海向いないとつまんない。海向くらい泳げる子なんていないんだもん」
 膝の上に置いた僕の手をあさぎの白く細い手がつかむ。僕と目を合わせたまま戯れるように指を絡ませ引き寄せる。手首から滴る海水がズボンを濡らすのを足に感じた。
 そりゃもちろん人魚だから、人じゃないから、学校には行かない。家には帰らない。小さい頃にはあさぎも「パパ、ママ」って駄々こねて泣いてたし、今は友達と喋ったりはするけど、やっぱり半分は人じゃないから夜になればすうっと夜の海に帰っていく。
 一瞬だけ躊躇したけどあとはいつも通りだった。どうにでもなるか、と思って手を引かれるがまま、ざぶりと飛び込んだ。ぬるい水温、落ち着く水の感触。自分の居場所だと思う。包帯をしているために足元はサンダルだったから飛び込む前に脱いだものの、あとは着てる服そのままだった。服のまま海に入っちゃうとか、小学校の頃には何回かやった(そして母さんにめちゃくちゃ怒られた)。でもまったく何年振りだろう。制服ってクリーニングに出せばまた着れるだろうか、まあ着れなきゃ冬服着ればいいか。体に服が絡む水中で考える。それより今ここで泳いでいることの方がずっと重要で本質的なことに思えた。服は重たく絡みつき、包帯を巻いた右足をかばって泳ぐのはちょっと難しかった。
 あさぎが水中で僕の手を引く。その楽しそうな顔を見て、こっちの気持ちも知らないで、と僕は思う。こっちの身にもなれよ、ワイシャツ着たまま泳いでみろよ。あさぎはいつも人用の水着とか着てるけど、たまに可愛いから欲しいみたいな理由で普通の服も着てて、でもやっぱり何を着てもすいすい泳ぐから人魚にとっては関係ないんだろう。
 水を吸った布はひどく嫌な感触でギシギシする。水中でワイシャツのボタンを外しているとあさぎが手伝ってくれた。それすら悪ふざけみたいだった。まとわりつくシャツを体から無理矢理引きはがして岩の上に放った。上半身は首に下げた銀色のホイッスルだけになる。重たいズボンの感覚にも徐々に慣れてくる。右足は無理なキックをしなければ大丈夫そうだった。海に差し込んだ青白い日の光に浮かぶあさぎが、僕の方へゆらりと体をくねらせて笑った。

 ◇

 見て、海! と声がして、そりゃ海に向かってるんだから海があるよ、と眠い頭で思う。後部座席の僕の隣に座った美里(みさと)は朝からずっとそんな調子ではしゃいでいる。窓の外ではひたすら続いた山道がようやく終わりかけ、木々の隙間から海面が見えていた。運転中の裕樹(ひろき)が右ひじを窓枠に乗せ、「波穏やかだね」と応じた。僕の前に座る洸太郎(こうたろう)も助手席から身を乗り出す。右側に座った方が海見えやすいと思う、という僕の言葉で後部座席右側の席を死守した美里は窓に貼りついている。
 お前の地元行くんだからお前が助手席で案内しろよ、と裕樹には言われたが、「ナビあるし、一本道だから」と言って僕は後ろに座っていた。寝たかったから。洸太郎と美里が前と横でよく喋るから結局そんなに寝られなかった。
 もう実家まで目と鼻の先なのでこれ以上寝るのは諦め、僕も景色を眺める。大学の同じ学科で一年と数ヶ月、講義やゼミを一緒に受けてきたこの三人が自分の町にいることは、頭ではわかってもやっぱり変なものだった。僕が下宿して通う大学と生まれ育ったここが一続きにあるのだとようやく納得した気分だった。
 ドライブの目的はこうだ。レンタカーを借り、裕樹の実家と僕の実家へ帰省ついでに遊びに行く。洸太郎と美里はおもしろそうだからとついてきた。美里って二人のどっちかと付き合ってるんだっけ? と顔ぶれを見て一瞬思ったけど、本当にただおもしろそうだから来たようだった。野菜農家をやっている裕樹の実家と漁師の僕の実家は、市内に育った洸太郎と美里からすればレジャーみたいなものらしい。洸太郎は去年の夏にも裕樹の実家に遊びに行っていて「合宿できるくらい広い」と言っていたが、確かに昨日泊まらせてもらった裕樹の実家はバカ広かった。部屋は広くて多くて、トイレと台所は二つあった。人を呼び慣れているのだろう。夜は庭でバーベキューをさせてもらい、花火までやった。
「民宿でもやれば?」
 と感心して言ったら
「やろっかなー。新鮮自家製野菜のバーベキュー付き。完全紹介性」
 なんて答えて裕樹は笑った。こっちはそんな家じゃないと念を押したけど、海まで徒歩一分という部分に三人とも目を輝かせ、早朝から車を走らせてきたのだった。
「あさぎちゃんに会えるかな?」
 外を一心に見ていた美里がふと振り向く。
「海着いたら呼んでみる。来るかはわからんけど」
 木々の先で日の光を反射してちらちらする海面を見つめながら言う。あさぎに会うのは長期休みに帰った時くらいになっていた。
「えー、人魚って俺マジ初めて会うんだけど。普通に日本語通じるよね?」
 洸太郎は好奇心半分緊張半分といった様子で昨日からそんなことばかり聞いてくる。
「通じるよ。半分は人だから」
「その、半分はっていうのがよくわかんないんだよな」
 目的地周辺です、とナビの音声がして半端なところで案内を終了した。実家までもう歩いた方が早い距離だけどそうもいかないので、運転席と助手席の間から顔を出して道案内をする。田舎道の凸凹と急な曲がり道に美里が騒ぎつつ、裕樹の運転する車は僕の実家の敷地に入り家の前に停まった。玄関から母親が待ちかねたように顔を見せた。
 車を出ると冷房にあたっていた体が一気に茹で上がる。あつーい! と美里が言う。海を見て海だとか、暑いから暑いとか、当たり前のことばっかり言うなと思う。学校で喋っているのは僕が大して聞いていないだけかもしれない。開け放った玄関からお昼のワイドショーの音声が漏れ聞こえた。大学が夏休みであることを除けば今は夏の平日の昼なのだった。今日の漁を終えた父親も奥から顔を出し、お邪魔しますとかお世話になりますとか言う三人へ無言で頷いて引っ込んでいった。
 下宿先のアパートは海から遠い。市営のプールが近くにあり大学のプールも使えたから泳ぐには困らなかったが、海には自ら行くしかなかった。
 荷ほどきをしてまずは休憩したいと言う三人を「車乗ってただけだろ」と急かし、「お客さんに無理させないの」と言う母親も無視して海へ向かった。
 歩いていくとすぐに湿った潮の匂いが鼻につく。匂いがして初めて、それまで潮の匂いがしていなかったことに気づく。毎回、帰ってくるたびにそう思う。
「プライベートビーチじゃん!」
 浜辺を見た美里が驚きを通り越して感動という声で言った。別にそういうのじゃないけど、と前を歩きながら答える。人がいないだけだ。景色も砂利の空き地が岩場と港の間にカーブを描いているという程度。それでも波打ち際というものがあり、寄せては返す波が人を安心させる規則的な音を立てている。
 さっさとひと泳ぎしたかったけど、三人がレジャーシートを広げて荷物を並べるのを待った。僕は手ぶらで暇だった。実家で水着になって向かおうとしたら、「家からそれで行くの?」と裕樹に驚かれた。
「泳ぐだけだし」
「タオルとか携帯は?」
「いるときに家に戻りゃいい」
 裕樹も水着姿にはなったものの、旅行用カバンから出した普段用のショルダーバッグを右手に、左手にはタオルやらゴーグルを抱えている。他の二人も似たようなものだった。
 流れ着いた海藻と流木を避けた位置でレジャーシートは広げられる。風で飛ばないように四隅に荷物が置かれた。三人分なのに荷物は四つ以上あって不思議だった。横で裕樹が準備体操をし、洸太郎は写真だか動画だかを撮り、美里はさっきまで日焼け止めを塗り直したり髪をヘアクリップでとめたりしていて、今は浮き輪を膨らませている。
「は、浮き輪?」
「そりゃ海と言えば浮き輪でしょー」
 トロピカルな色合いが田舎の海で明らかに浮いているが(浮き輪だけに、じゃなくて。アホか)、美里は満足気だ。子供の頃にもし地元の誰かがそんなもの持っていたら、あさぎとふざけて奪ってめちゃくちゃ沖まで流してやったと思う。
 そういうことを考えていたら海が遊び場だった感覚がよみがえってきた。海に帰ってきた。泳げばいいだけだ。そういう気分になって、首に下げたホイッスルを沖に向かって思いっきり吹いた。横にいた三人が驚いてこちらを見た。
「あさぎと会う合図」
 沖から目を離さず言う。
「でもこのへんにいないかも。そしたらあそこの岩まで行って呼んでみるけど」
 海岸からひと泳ぎしたくらいの距離にある岩を指さして言った。三人がそっちを見る。あんなとこまで泳げるの? と美里が甲高い声を出す。岩はよじ登ってもろくな居場所にもならない小ささだが、泳ぎ回る途中で一休みするのに位置は良かった。昔はあさぎと一緒に海岸から泳いでいく目印でもあった。最近のあさぎはもう少し沖にいることが多くて、その岩が待ち合わせ場所になっていた。
「あ、いた」
 波間で跳ねるあさぎの尾びれが見えた。
「うそ、どこ?」
 にわかに三人の声が興奮しだす。伸びあがってきょろきょろする三人の横で、ちょっと迎え行ってくる、とビーサンをその場に脱ぎ捨てて波に向かった。
 ざばざば波をかき分けて歩く。股下くらいの深さになったところで腕を伸ばして水に入り、思いっきり砂を蹴った。水流を受けた全身に血が巡った気がした。一気に感覚が鋭くなる。波に前から押され、ぎゅんと引かれ、上下に揉まれるその中を進む。水圧に押された体は水の中を進むのに最も効率的な形に変化している気がする。全身の力が放出され、それ以上にまた内側から力がわいた。しばらく進んだところで前を横切るあさぎの姿が見えたのでそこでUターンした。僕の周りをあさぎがじぐざぐに進んだりくるくる回ったりしながら近づいてくるのが見えた。何度目かの息継ぎの後に潜水するとあさぎがすうっと来て僕の手をつかんだ。尾びれが大きく動くと、おもしろいくらい加速する。昔から二人でよくやる遊び。チャリンコに乗ってバイクや軽トラにつかまるとすごいスピードで走れるのと似たようなものだ。大人に見つかると危ないって怒られるのも同じ。
 そのまま砂浜に向かって進み、また腰くらいの深さまで来たところで立ち上がった。まだレジャーシートに座る三人が「おかえり」なんて言って手を振る。あさぎはさらに浅いところまで泳いでいってから顔を出した。三人までまだ少し距離があったので抱きかかえて連れていき、干からびないでいられそうな波打ち際ぎりぎりでおろす。水から現れたあさぎの全身を三人は圧倒されたように見ていたが無視した。あさぎは肩にフリルのついた紺色の水着姿で、こういう洒落っ気はそのへんの女の子と変わらない。
「見たことない顔」
 あさぎが先に口をひらいた。
「大学の友達。裕樹と、洸太郎と、美里」
 一人ずつ説明すると三人がぎこちなく会釈した。僕はあさぎと三人の間、波は来ないけど濡れてはいる砂の上に腰を下ろす。濡れた体に砂が熱い。
「本当に半分魚だ……なんですね」
「俺、人魚に会うの初めて」
「海向以外は全員初めてだよ」
 まじまじ見るのも失礼だと思ったのか、裕樹と洸太郎はまだ泳いでいないくせに目を泳がせている。美里の方は、来たばかりの転校生を後ろの席から見守るみたいに笑顔でじっと見つめていた。
「海向、いつ帰ってきたの?」
 あさぎはなんてことない顔だ。
「ついさっき」
「いつまでいる?」
「みんなは一泊。俺は一週間くらいいる」
「みんな泳がないの?」
 あさぎが首を傾げて三人を見た。濡れた黒い髪が水の流れに沿って顔や首をつたう。そういうことを気にしないのは水の中で生きているからだと思う。僕は顔に濡れた髪がかかるとついかき上げてしまう。三人の方は波のすぐそばで水着を着ているのに髪も体も乾いていて変だと思った。
「今の海向の泳ぎっぷり見たら、泳げるって言うの恥ずかしくなっちゃうな」
 洸太郎が肩をすくめてそんなことを言う。
「溺れたら助けるよ」
 と返すと、横であさぎが微笑んで頷く。
「ほんと? 足攣ったりしてマジで溺れる可能性あるから助けてね」
「あさぎがね」
「海向がね」
 僕とあさぎがほとんど同時に言うから裕樹が笑う。できるだろ、そっちの役目でしょ、と僕とあさぎが言い合うのを見てあとの二人も笑った。
「海向くん本当に泳ぎ上手いね。溺れたこととかある?」
 美里が訊ねる。
「子供の頃とか、悪ふざけして多少は」
「あさぎちゃんはそういうとき助けてあげるの?」
「むしろこいつに足つかまれて溺れかけたことある。人魚って人より何倍も息続くから」
 ひえーと美里は大げさに驚いてみせる。そうだっけ? やっただろ、と僕とあさぎでまた言い合う。足のつかない深さで僕の足首をつかんでこちらを見上げるあさぎの不敵な笑みを思い出す。陸で腹の立つ相手がいると僕もあれをやってやりたくなるが、僕はあさぎほど息が続かない。確かあの時はあさぎの顔面を蹴って逃げた。だからその後また喧嘩になった。くだらない昔話に笑って三人も多少緊張が解けた顔になった。
「泳いで競争したらどっちが速い?」
 緊張を興味が上回ったらしい洸太郎が、いつもの調子を取り戻して聞いてくる。
「無理。勝てない。チャリと原付で競争するようなもん」
「フィンつけても?」
「あんなもん使ったことない」
 フィンって何? とあさぎが僕に聞くので、足ヒレ、と教える。あさぎは洸太郎の顔を見てにっこり笑い、
「いいよ。競争する?」
 と言った。こういう時の笑い方が何よりあさぎらしいと僕は思う。静かな細い声だが自信に満ちている。誇り高く負けず嫌いな、人魚の性格でありあさぎの性格だ。女子との会話に僕より全然慣れているはずの洸太郎が男子中学生みたいなたどたどしい反応をしたのでおもしろかった。
「海に一人で寂しくない?」
 今度は美里が口をひらいた。
「全然。海って賑やかだもん」
「赤ちゃんの頃とかどうしてたの?」
「どうだっけ?」
 説明がめんどうになったらしいあさぎが僕に聞く。
「赤ん坊の時は家のたらいでぷかぷかしてたよ。それから叔父さん叔母さんに連れられて庭の池と海行き来するようになって、今はもう海メイン」
 半分は家にある写真の記憶だけど、海へ行くようになってからは僕と一緒だ。そこから競って泳ぎを覚えた。
 それなりに話は盛り上がったが、あさぎが尾びれを動かすたび、三人は未知のものが突如動いたような顔をする。もう喋るのいいから泳ごうぜ、と急かして立ち上がった。

 日が高いうちにひとしきり泳いだ。裕樹も洸太郎も泳がせればまあまあ泳げる方だった。岩場へ行って飛び込みもやったし、男二人で抱えてあとの一人を海へ放り込む遊びもやった。裕樹が「俺もう二十歳なのになんでこんなこと」と悲痛な叫びとともに落ちていったのが一番笑った。
 美里は水に顔をつけることすらためらいがちだったがちゃんと楽しんでいた。男三人で騒いでいる間にあさぎと二人でぷかぷかしながら喋っていて、泳ぐのとは別のやり方で通じ合ったりするんだなと思った。浮き輪に乗って漂うあさぎを「映える」って言っていたのだけはよくわからなかったけど。
 騒いで、疲れたらシートに寝転がったり浅いところを背浮きで漂って、それからまた潜った。飽きるまでそれを繰り返した。

「海向ってなんで大学来たの?」
 あさぎが帰った後の砂浜で、裕樹がシートをたたみながら急に聞いた。
「漁師になるなら、高校出てすぐにでもなれたでしょ? 今日の泳ぎっぷり見てますますそう思った」
「俺はそのつもりだった」
 海岸の風に当たりながら答えた。体の表面が乾いてぱりぱりした。
「でも親が行けって」
「ああ、将来のこと考えて」
「いや、大学じゃなくても良かったんだけど、海から離れた生活を経験しろって」
「へえ」
 洸太郎も興味を引かれたのか顔を向けた。
「どっかの山で住み込みで働くとか、海のない国で放浪の旅するとか、なんでもいいって言われて一番無難な大学にした」
「無難に大学選んだのは俺も同じなんだけど選択肢が違いすぎる」
 洸太郎が笑う。
「海向は海から離れて生きてはいけなさそうだけどな」
 裕樹は僕の顔を見て言った。僕は頷く。
「自分でもそう思ってる」
「それに海向くんいないとあさぎちゃんが寂しいんじゃない?」
 美里も口を挟んだ。
「海もそうなんだけど、むしろあさぎとつるむのやめろってこと」
「え、あさぎちゃんと?」
 三人全員が、特にいつも好き勝手に喋る洸太郎と美里までがめずらしく揃って僕の話に注目していた。なんとなく片付けの終わった砂浜に座り込んだ。
「高二の夏前くらいに、俺が怪我して泳げない日があったんだけど」
 思い出しながら話す。岩場に右足を投げ出して座った日のこと。三人も黙って座った。
「泳ぐの禁止されたことなんて初めてだったよ。そんで我慢できなくて、制服のまま海入っちゃったんだよね」
 その日は結局満足するまで泳いだ。といってもさすがに遠くまでは行かなかったし、いつもより余計に疲れたからほとほどにしたくらいだった。
「あ、怪我はただの捻挫だから大丈夫。ただ包帯して制服のまま入ったのはバカだったね。帰ってから説教されて、お前はまず陸で生活する経験を積めって話になった」
「そんなに夢中になれることがあるなんて、いいことだと思うけどねえ」
 たたんだタオルの上にちょこんとお尻を乗せた美里が言う。裕樹と僕は砂の上にあぐらをかいて、洸太郎は体育座りの姿勢だった。
「それに、人魚とか関係なくあさぎちゃんみたいに仲良い相手がいるのっていいことじゃんね」
 洸太郎が続けた。黙って頷いた。いいことじゃんね、と彼の言葉をなぞって思う。あさぎみたいに悪ノリも本気の泳ぎもできる相手はそういない。
 砂浜は日が傾き始めていた。腹減ったなあと思う。帰ってシャワーを浴びたら飯だ。人が来ているから叔父さん叔母さんもうちに来て一緒に食べるだろう。その前に車を出して酒買いに行った方がいいかもしれない。洸太郎は酔うと騒ぐから無理に飲ませるなと叔父さんに言っておこうかと考える。

 田舎だから、大したものお出しできなくてごめんなさいねえ。母が言うと、テーブルの前で三人が口々にお礼の言葉を言う。
「普段一人暮らしだと刺身なんて食べてないんで。本当嬉しいです」
 大皿に盛られた鮪と鯛と鯵、タコ、甘エビの刺身を前に裕樹が言えば
「やっぱ鮮度が違いますよね」
 とわかってるんだかどうだかわからないことを洸太郎が言う。
 食卓には刺身、父の好きな酢の物、できたてのいい匂いを放つ唐揚げ、叔母さんがよく作る春巻きとかちくわの和え物。それに焼酎とビール。いつもの食卓。客が来たからって見栄を張らないのはいいことだ、と僕は思う。たぶん父もそういう意見だからこうなのだろう。叔父さん叔母さんも来たから半分は叔母さんが持ち寄った料理だ。近くに住んでいるとこういう行き来はよくある。テーブルはそもそも四人掛けのものを拡張して六人掛けにし、さらにお誕生日席みたいに側面に二人詰め込んで八人座った。
「せま」
 と座った僕はまず正直に言ったが、充分広いよと市街地育ちの洸太郎はお誕生日席に座って言う。お誕生日席はテーブルの中心からちょっと遠いので大皿のものを取るのにいちいち苦労している。反対側に座った父はたまに母に取るように頼んでいるけど、お喋りが盛り上がっている時などたぶん食べられないで諦めている。
「農家の家って友達にも何人かいるんですけど、漁師の家って私初めてです」
 母の隣に座った美里が話す。
「海以外に見るものないでしょ」
「そんなことないですよー」
 母、美里、裕樹の並び、その向かいが、叔父さん、叔母さん、僕という席になったので美里は隣が母で向かいが叔母さんという並びなのだがちっとも窮屈そうではなく、むしろ女性同士で打ち解けてしまったようだ。
「海向くんのこと、無口だなーって思ってたんですけど今日わかりました。これが海の男なんですよね」
「そう。海の男は余計なこと言わなくていいのよ」
「でもたまに言わなさすぎるのよねえ」
 母が同意し、叔母さんが頷く。横でそれぞれの亭主が苦笑いをし、あとは黙々と食事をして酒を飲んでいる。

 美里が母と叔母さんと盛り上がって近くの温泉へ出ていったところで、僕も席を立った。叔父さんは先に帰り、父ももう床に就く。明日も仕事は朝早い。ついでに仕事でもない洸太郎もよく飲んで就寝した。
 外に出るとチャンネルを変えたかのように急に静かになる。まだ蒸し暑い中をサンダルをつっかけて歩いていく。家の敷地の砂を踏むサンダルがざりざりと音を立て、アスファルトのかすれた音に変わり、海に近づいてまた雑草混じりの砂の音になる。砂浜ではなく岩場の方へ向かった。
 岩に登り日暮れの海を見ていると、後ろで足音が近づいてくるのが聞こえた。
「海向」
 裕樹が僕を呼んだ。ビーサンで歩きにくそうに岩場をあがりながら
「まだ泳ぎ足りないの?」
 と聞いてくる。答えないで待っていると、よっこらと僕の隣までやってきた。農家の生まれのくせに、彼はたまに都会育ちのシティボーイみたいな軟弱な仕草をする。将来は新しい世代の農家なんて呼ばれてインテリ農業とかやったりして。コンタクトを外してメガネ姿になった裕樹は、開襟シャツの胸ポケットから出した煙草に火をつける。
「海に吸い殻捨てたらぶん殴る?」
「突き落として拾えって言う」
「じゃ、やめとく」
 深く煙を吐いて笑った裕樹は手の中の携帯灰皿に行儀よく灰を落とした。
「まあ、海向の庭に捨てるみたいなことだもんな」
「家の庭なら父親がポイ捨てしてるけど」
「捨ててんのかい」
 裕樹が声を上げて笑った。
「海は庭じゃないけど、今から寝ようとしてる布団にポイ捨てされたみたいな気分になるかも」
 僕の言葉に裕樹がこちらを見る。一度顔をそむけて煙を吐いてからまたこちらを向いて
「海が近いよな」
 と曖昧なことを言った。呆れたような感心したような恐れるような声だった。
「海向の場合、好きとか嫌いとかのレベルじゃない」
 裕樹はそこで言葉を一度切ってから
「なんか本能的に?」と続けた。
「海を離れるのが想像できん」
「それがちょっと度を越してる感じ」
 いいことなのか悪いことなのか、図りかねた口調だった。
「生まれ育ったんだからそうだよ。裕樹も急にタワマンで生活とかできないだろ」
「そうだけど、俺は地元出たし。家の畑とか土はたまに帰ってきて触れるくらいでいいと思ってるから」
 僕が黙っていると裕樹が続ける。
「お前のこと無口だなと思ってて、海の人間ってこうなんだなって俺も思ってたよ。でもそれだけじゃない。お前の親父さんも寡黙な人だけど、周りとか俺らのことはよく見てる。海向はどこにいても半分は海の方見てる感じがする」
 僕はサンダルを脱ぎ足の裏でまだ昼の熱を帯びた岩の感触を確かめる。それから岩に腰を下ろす。引き潮で海面は遠い。裕樹も僕に続いて横にこわごわ腰を下ろした。別に海のこと以外も考えてるよ、ちゃんと卒業したいし、バイトもあるし。と言いたいけどそうじゃないと言われそうなのでやめる。僕はただ口下手なだけだと思う。
 大学に来て裕樹たちと知り合って最初に思ったのは、大勢の人間と言葉で渡り合ってきた人だな、ということだった。大学の人の多さには圧倒された。世間一般の大学の中では標準的なのだろうが、日常的にこんなに人を集める必要があるんだろうかと思った。そしてこんな大勢の人の間でやっていく処世術がそんなにも必要なのだろうかと。周りに人がいればいるほど自分が小さくなる気がした。何をやっても手応えがなかった。顔を合わせれば話をする。話せば返事が返ってくる。そういう時、そこには僕の顔や話す声しか存在しない気がした。
 でも、ここも海と変わらないな。何度目かに来た大講堂で、学生で埋まった座席を見渡してふと気づいた。膨大な海があるか人がいるかの違いだ。どんなに賑やかでも最終的には自分一人だ。海に対して自分がやれることがあるように、大勢の人間に対して一人の自分がやれることがある。その結果がどうなるかは誰かが決めることじゃない。
「海で死にたいとか思ってない?」
 急に裕樹は物騒なことを聞く。
「なんだよ」
「思ってそうなんだもん。布団の上では死ねない、みたいな」
「可能性としては」
「やめろよ」
「いや、毎日船乗ってたら海で死ぬ可能性は絶対あるって話」
「そうかもしれないけどさあ。でもちゃんと生きて帰るつもりでいてくれよ」
 なんか大げさな話になっちゃったな、と裕樹は取り繕うように付け足して、携帯灰皿に吸い殻を押し込む。僕はまた思い返していた。制服で海に入った時のことを。
 あの日は夕方まで泳いだ。戻ってくると岩場に所在無げに立つ母がいて、僕が水から上がった瞬間に「海向!」と声をあげた。
「戻ってきた!」
 近くにいた父親が僕を見るなり叫んだ。それに呼ばれてさらに人が来て、見ると叔父さんと叔母さんだった。海からあがった僕は急に両親と叔父叔母の四人に囲まれるかたちになった。
「あさぎは」
 父が聞いた。口数が少なく怒っていなくても荒っぽいいかにも海の男という父親だから、その時も怒られているのではないとは思った。単に遊んで帰るのが遅くなって頭をはたかれるのとは違っていた。
「途中でわかれてきちゃったけど」
 さっきまで一緒に泳いでいたあさぎは日暮れの海に帰っていった。なぜ叔父さん叔母さんまでいるのかわからないままそう答える。
「あさぎに誘われて海入ったのか」
 今度は叔父さんが聞く。あ、やっぱ制服のままでしかも怪我してんのに泳いだから怒られるのか、と思う。
「何考えて入った」
 父がまた聞く。問いただすというより状況確認みたいな口調が逆にこわかった。父には学校のこととか、ゲームのしすぎとか宿題をしないとかで怒られたことはあまりなかった。ただし海で危ないことをすれば誰よりも早く問答無用で手が飛んだ。気を抜いたら死ぬ可能性のある海で、悠長に言葉でわからせる暇なんてない。その父に静かに訊ねられてわけがわからなかった。怒るならさっさと一発ぶん殴って終わらせてほしかった。
「えっ、と、泳ぎたくて我慢できなくて。別にいいかって思って」
 何か答えないといけない空気だったので必死に絞り出す。
「ただ泳ぎたかっただけか」
「はい」
「せめて一回家に帰るとか考えなかったか」
「足捻ってて歩くの時間かかるし」
「歩けないのに泳げると思ったのか」
 もっともなことを言われ、すんません、と素直にうなだれる。どんな説教も聞くしかないという気持ちになったが返されたのは呆れのため息だけだった。
 こいつはほっときゃいくらでも泳いでるから、と僕を見据えるのをやめた父は叔父さんと叔母さんに言う。ごめんねえ、と叔母さんは父と母にしきりに謝っていて、それを母がなだめていた。

「あの時は心配されてた」
 思い出話に聞こえるように言った。
「海に入ってあんな顔されたの初めてだった」
「海から離れて生きてみろって親御さんが言ったの、俺なんとなくわかるよ」
「ちゃんと反省してる。親父だって怪我したときは漁休んでたし」
「違うよ」
 裕樹が首を振る。
「怪我は関係ない。つーか悪いことだって責めてるわけじゃない」
 言葉を探して裕樹は詰まる。つべこべ言うより泳いだ方が全部わかるのに。僕はそういう気持ちになる。それがいけないから海から離れろと言われたんだろうか。
「怪我して部活休んだはずのお前がいつの間にかサンダルとワイシャツだけ海岸に残していなくなったらやばいって考えるよ。人魚のいる海でさ」
 裕樹が途中で口をつぐむと、聞こえるのは波の音だけになる。
「一度もっと本気で海のないところで生きることも考えろよ」
「は?」
 僕が海を離れて何をするんだ。山でも登るか?
「泳ぐのが本当に好きなのはわかる。あさぎちゃんが大事なのもわかる。でも泳がなくても海向は海向なんだよ」
「じゃ、泳がなくてもあさぎはあさぎだって言うか?」
「あさぎちゃんはお前とは違う」
「ああ、俺と裕樹が違うように違う」
 岩の上で隣に座った裕樹の顔を見る。裕樹は何か言いたそうな顔だけをして黙った。あたりは薄暗くなってきたが互いの表情はまだ見えた。
「海向はさ、ほっとくと海に帰っちゃいそうなんだよ」
 僕が海に視線を戻すと裕樹が言った。空気を変えるような冗談めいた口調はわざとだと思った。
「さすがに海の中には住めないよ」
「そりゃそうだけど」
 首にさげたホイッスルを指先でもてあそぶのを裕樹が見ていた。
「なんであさぎの方が上手く泳げるんだって、昔からよく思うんだよな」
 僕が言うと裕樹が答えに困ったのがわかった。そんなの当たり前だって頭ではわかってんだけどね、と今度はこっちが空気を変えるように軽く言った。
「あさぎちゃんは、家に帰りたいって言うこととかないの?」
 同級生の話でも出すように裕樹が言う。
「あさぎの帰る家はもう海だけだよ」
「でも両親に育てられたんだろ」
「裕樹が実家出たのと変わんないよ。親は親。特に俺の父親と叔父さんは漁でほとんど毎日会ってる」
「ふうん」
 裕樹はそこで一呼吸置くと、
「海向、これは俺が勝手に思ったことだから気を悪くしないでほしいんだけど」
 そう慎重に前置きをした。
「そのホイッスル、泳ぎすぎて沖まで流された時のために持たされたって言ってたろ。でもそれだけじゃなくて、あさぎちゃんに沖まで連れてかれた時のために、って心配もあるんじゃないか」
 遠くの方で波が光って、一瞬あさぎかと思ったけど違った。
「俺の地元にも人魚の言い伝えがあるんだよ。山の方だからこっちと違うと思うけど」
「いや、たぶん同じだよ。海に引き込まれるって話だろ」
 遮って答えた。人魚は人を海に引き込むと言われている。しかし漁では役に立つ。要は付き合い方に気をつけろと。でも、あさぎを見てるとわかるけどあれは悪意があるんじゃなくて、本当にただ海に入ればいいと思って誘ってるだけなのだ。
「あさぎが本気で俺を引き込むつもりならとっくに引き込まれてる」
「そう。引き込まれてるんだと思う」
 それは、思う、という言い方にしては断定口調だった。
「あさぎちゃんが違う生き物なんだって、お前近すぎて忘れてるよ」
「忘れてない。そもそも人魚は種じゃないんだよね。長く海で生きてる人間の突然変異みたいなもんって言われてる」
 もしくは、海と人の間に生まれた存在とも言われている。
「だからあさぎちゃんは海が生きる場所だし、海向は陸が生きる場所だよ」
「俺は漁師だよ。海が生きる場所だよ」
「言ってる意味わかるだろ」
 裕樹の口調は次第に説得じみたものになっていた。だよな、と思う。海って怖いから。怖いものって惹かれるから。でも惹かれることも怖いことだから。そんな海と人の間に生まれたのがあさぎだったらいいなと思う。
「海向は陸にいてくれよ」
 答える代わりにホイッスルを吹いた。隣で裕樹がびくっと反応して、それから「やめろ」と僕の左手を押さえた。無視してもう一度吹く。思ったよりすぐあさぎは現れた。顔を出しはしなかったが波の隙間に背中から尾びれまでを何度か見せた。僕は着ていたTシャツを脱いで「持ってて」と裕樹に渡した。
「それか一緒に泳ぐ?」
 渡されたTシャツを手に、裕樹はじっと僕を見据える。
「わかれよ。引き込まれてるんだよ」
「泳ぎ足りなくない?」
 それ以上何も聞かずに飛び込んだ。
 体に水面の衝撃を受ける。そして一瞬、時が止まったように周りの音が消える。海では一人だといつもそこで実感する。でも、同時にそこでは自分が存在している手応えがあった。僕はどこよりも海にいる時に自分がはっきり存在していると思えた。僕にとっては泳ぐより確かなことも、海より確実な存在もなかった。
 あさぎの姿が青白く霞む水中の先に見えた。近づいて彼女の腕をつかみ、力いっぱい水を蹴った。思いっきり遠くまで泳ごうぜ、の合図だ。変な時間だったからあさぎは一瞬ためらう様子を見せたが、すぐに僕を追い越して泳ぎ始めた。ぐんぐん前を進んでからふわっと止まって、遅いよとでも言うようにこちらを振り返る。
 追いついたところであさぎの腰のあたりを両腕で抱えて捕まえた。体が人から魚に変わるあたり。こうして捕まえるとさすがのあさぎも泳ぎにくいらしくて、逃れようと身をよじる。水中ではどうしたって勝ち目のない僕があさぎを邪魔できる唯一の方法だ。細い上半身をあさぎがくねらせる。紺色の水着の下には肋骨があり背骨があり引き締まったウエストがある。そこから続く魚の体を抱きすくめると、人の体とは違うぱんと内に水を張ったような感触を両腕に感じる。水の中では僕が勝てない体。陸にあがれば乾いてしまう体。あさぎがもがく。実際人魚の尾びれの向きは魚ではなくイルカやクジラと同じ横向きで、それをばたつかせるから僕は上下に揺さぶられる。細い上半身からは想像できないほど力強い。足まで使って押さえ込むといよいよ動きは激しくなる。
 しかしそのうちに僕の息が続かなくなり、あさぎはするりと逃げ出す。勝ち誇った笑みのあさぎから手を放して水面へ顔を出した。
 だいぶ遠くなった岩場に立つ裕樹の姿が見えた。軽く手を振る。帰ってこい、と裕樹が叫ぶのが聞こえる。美里たちも帰ってくるよ、洸太郎起こして飲み直そう。そう叫んでいる。すぐ戻るよ、わかってる。
 わかってる。大人になるにつれて人魚は海へ還っていく。帰省のたびに、あさぎが顔を出す位置が沖になっているのは感じていた。僕が漁師になる頃には会うのは船の上だろう。僕は漁をする。海の話をする。陸の話も少しはする。たまにはこっちにも顔を見せろよと言う。引き止めたくないわけじゃない。でも引き止められて聞くあさぎであってほしくない。ずっと遠くの海まで行ってほしい。でもどこまでも追いついて泳ぎたい。僕はどこまで追いつけるだろうか。それとも本当は泳がなくても生きていけるんだろうか。
 泳げるでしょ、とあさぎに言われたのを思い出す。海向いないとつまんない、と言われたっけ。そうだよな。あさぎも同じなのだ。引き止めて、どこまでも追いついてきてほしいのだ。あさぎにとって、僕といることも海に還ることもどちらも自然なことだ。それは僕にとってもそうだ。
 僕はずっと泳ぐ。それしかできない。そのあとは海が決める。
 あさぎがふっと僕の手をつかんで引いた。わかってる、と思う。まだ全然泳げるよ。競ってぐっと水を蹴った。

〈了〉