(前提)
一応言っておくと、
この記事は、結構前に書いてた文章です。
つまり自分が
「牙を捨てなければならない」ということについて考える以前に
書き殴ってた文章の残りだったりするのです。
でもまぁ、まぁ、書いといてもいいか、という感じなので、おいておきます。
こんなんでも書かないと、 話が前に進めないのだ、
(前提前提)
もちろん、きっかけはあのお題箱だ。
だが結局、キリスト自体の話には突撃できない気がするのだ。
何故か、外堀の話を延々とやってる気がする。
ちょっと、前回の記事の続きも書けるんですが
例えば
科学と宗教の関係性について。自分は
こういうことをちょろっと書いたりもした。
人間はわからない事があるから信仰を始めるのだと
まさにこういう文章に対して、
面白がってくれる人もいれば、
なんか、怒るというか、
皮肉を言っていく人もいる。
自分はそこについて、「考え込んで」しまう。
この、
一行皮肉っぽいことを残して去っていく人は、 実際問題これ、 何がいいたかったのか?
どういう意味の皮肉なんだろうか、これは?
大体残るのは「隙間の神」に対する批判かと思う。
宗教と科学は、対立しているのか?
どちらがどちらを含んでいるのか?
「神のことを分かった気になってる人間の愚かさよ」みたいなこと。
こういう言葉の意味は、どういうことだろう?
でも、宗教系の人の捨て台詞は、いつもこんな感じの気がする。
じゃあ、その部分について考えていこう。
例えば、
【輪廻転生】という現在よく分かっていない、
いまだ科学的には確認されてない「システム」があるとする。
うん、あるとする。
(この【】の中には何を入れても良い、
「神」を入れてもいいし、
「幽霊」を入れてもいいし、
「あの世」を入れても良いです)
それが、
「確かにある」ということが、 ちゃんと
確認、証明されたとする。 いつか。
・・・
それは、どうだというのだろう?
・・・
いや、
別にどうということもないと思うのですよ。
「そういう法則があったんだなぁ」、というまでのこと。
それが、あるんなら、あることがわかったんなら、
「科学側」の立場からしたら、 確認できたなら、それを法則のうちに考えるだけなので、特に問題はないのです。
つまり、輪廻転生だって「科学のうち」に取り込んで、
この仕組みをどうすっかなー
この仕組みを利用して、なにかできねっかなー
それが本当だとしたら、これをこうしてこうやってこうすれば、もっと凄いじゃん、もっと面白いことできるじゃん、
もっと、色々役立てることができるじゃん!(だったら、これこれこういうことをしたら前世との紐づけもできるんじゃない?)
(だったら、これこれこういう風にしたら解脱だって加速できるんじゃない?)
(だったら、こうしたほうがもっといいのに・・・)
・・・
ということを更に更に考えていくのが、
「科学側のスタンス」だと思うのです。
・・・
つまりこれは、
今現在 科学的に証明されていない輪廻転生が「本当にあった」からといって、断じてそれは
「科学の敗北」ではないし、
それを先に言い当てていた
「宗教の勝利」ではない 、ということなのです。
このこと、
このことさえちゃんと わかっていれば、 あんな、皮肉みたいなこと言ってくる人だって、
言う必要ないってことが、分かるはずです。
ここんところを言っておきたい。
はい。この記事は、これだけでもう要点OKですね。ここで終わってもいいです。
言ってることが分かってもらえるなら。
だから、
「今は 神は、科学的に説明できてないだけだ。
それなのに、「隙間の神」とか言ってまるで神を逃げ隠れしてるような存在みたいにバカにしてくるの、
宗教をバカにしてくるの、許せねえ」みたいなのは、違うと思うのです。
「科学脳の人間は、神も証明出来ないくせに、否定すんな、何も分かってないくせに・・・」みたいな態度の人いますが、
冷静に考えて、それは、何を主張しているのか? その態度こそが、なんなのでしょうか?
冷静に考えると、なにかが、変・・・
「何も分かってないくせに」とは?
「分かっている」とは?
・・・
将来的に、
神すら、科学的に説明できるようになるはず。 もしいるのなら。ということについて。
『科学』というのをどのように捉えるか?
ある人は、「科学」と「宗教」というのを対立軸のように捉えるかもしれない。
または自分がどっかで書いたことを勘違いしてるかもしれない。
もっというと「科学的にあること」というのは、
法則性というか
再現性のように考えても良い。
「良い行いをすると良い生物に輪廻転生しますよ」
「悪い行いをすると悪い生物に輪廻転生しますよ」 という法則が、この世にあるとする。
あるんなら、それがなんらかの仕組みや裁定によってなされている、と
そういう背景があり、それもまた分析・解明できてくるはず。
「再現性のある現象」だと「確認」することができ
これこれこういう風になっていますよ~~~、と 最終的に論文に書いたり 理論体系を作ることができるはずだ、
・・・
そう考えるのが、「科学側のスタンス」だと思うのです。
そういう風にして
宇宙の起源、
生命の起源、
太陽系の仕組み、
物質の仕組み、
エネルギーの仕組み、
重力の仕組み、・・・いろんなことが解明されてきたのです。
そしてその度、
「宗教側」は毎回、 デタラメを「まず」信じ、教え、間違え続けてきたということも、歴史に学べばわかるはずです。
宇宙は神が作ったし、
生物は全部神が用意したし、
りんごが落下するのは神の愛のためだし、・・・
いつも宗教側の「説明」というのはその次元の説明しかできなかったし、
故に間違い続けていたし、 故に、
大した「利用」も出来なかった。
いくら宗教側が
宇宙の成り立ちを天地創造で「説明」しようが、
神がすべての生物を作ったと「説明」しようが、
神がりんごを落下させていると「説明」しようが、
それは、そのような説明と理解では 何も役立てることが出来ないし、 それは「理解した」ともいい難い。
この辺の
「歴史」のことを 真剣に真剣に考えてほしい。
常に同じことの繰り返しだから。
それなのに 常に、 「宗教側の人」というのは 二言目には
「科学的にはまだ分かってないことはたくさんあるから~」といって、
今、科学的に確認されてないことを「すでに」信じていることを
なんだかそれ自体を
エライことのように 素晴らしいことのように 押し付けてくるわけです
(それは、自分の母だってそう。 水素水だって水の伝言だって波動水だって なんだって、「先に」信じてきたから)
重力のことも惑星のことも
生命のことも光のことも熱エネルギーのことも
医療のことも
・・・
科学と宗教の関係というのを
実際に人類が繰り返しやってきたことを、
「歴史的に把握」していけば、
なんか いい加減 みえてくることがあると思うんですよ。
・・・
まず、人類が「その段階で分かってないこと」を宗教側は
「先に」説明しようとしており
それを科学側が後に正しく訂正していった、ということの繰り返しなわけです。
もちろん
普通に普段生きていて 素粒子のこともビッグバンのことも「実感」はない。
宇宙背景放射が確認されて ビッグバンの~って言われたって 知らない人からしたら「なにそれ?」ってなもんだろう。
でも、すべて体系づけて、
「確からしいこと」から一歩一歩確実に、間違えないように積み重ねてきたのが
『科学的である』ということです。
宗教はこれをすっ飛ばしてテキトーを「まず信じる」というのが土台にあるわけです。
だから、結果的にというか必然的にというか
宗教サイドの人が信じたり語ったりする領域というのはいつもいつも
「科学的にまだ分かってないところ」に 逃げるように逃げるようになり、
証明されておらず完全に否定もされてないところの話をしつづけるしかない・・・
だから常に、「疑似科学」と「宗教」というのは、密接に結びついている。
これはもう、必然的な結びつき・・・
・・・
だからなんというか
「輪廻転生というシステムを使った」 更に壮大な仕組みを考えて、それで
なんかやる小説があったなら、
それは一周して、ファンタジーとかオカルトではなくてこれまた
「SF」だと思うのですよ。
(表の世界で死んだら裏の世界で蘇る、
裏の世界で死んだら更に表の世界で蘇る、みたいな、そんな漫画も手塚治虫にあったし)
「マニ車を使って徳で発電する」とかも、そういう発想ですよね。
「マニ車を回せば徳が得られる」ということが「宗教的事実」としてあるのなら、
逆に、「徳」を流せばマニ車が逆に回るようにもなっているはずです。 (電磁気とコイルのような仕組みと同様であれば)
だから、
マニ車と徳で発電だって出来るはずだ、という考えです。
これが、ファンタジー(神話)と科学の融合です。
科学的に宗教的現象を解明したときに利用できるようになる事柄です。
つまり、
「マニ車を回せば徳が得られる」ということについて「再現性」があるのなら、それは科学的に分析できるし利用できる、ということです。
「良い行いをすれば良い生物になる」ということについて再現性があれば
「死後生まれ変わる」ということについて再現性があれば
「神が地球を作った」ということについて再現性があれば
「神の愛がモノを落下させている」ということについて再現性があれば
・・・
再現性があるなら、理解 分解 説明 再現 利用 発展 ができるはず、ということ。
「今、わかってないから科学の敗北」とかじゃない。
「今、先に分かってるから宗教はエライ」
「今、科学的に分かってないことを言っていてるから〇〇教の教祖様は偉い!」とかじゃないんです。
つねに、科学は負けるということがない「いつか分かることは必ず分かるだろう」とでも言えるような、そういう無敵性をもっていると思うのです。
じゃあ一方 宗教とはなんなのかというと、
やはり何度も何度も言うようだけど
「説明を放棄して一足飛びに結論を信じる」 これが宗教の本質だと思います。
間違ってるかどうかはしらん。
だが多分正解だろう。 なんとなく。
最終的な根拠は、
「教祖様がそう言ってたから」
「経典に書いてるから」そこでストップ。 そこを盲信するしかない。 そこから先を疑えなくしてる。
それ以上の説明が常に出来ないのが、宗教です。
科学には「公理」というものがありますが、
宗教には公理が無いのです。
・・・
だから、普通に「間違える」場合がある。
進化論とか
万有引力とか
天地創造とか
天動説とか
宗教裁判
輸血とか
脳死とか
臓器移植とか
ジハードとか
・・・
色んなことで、宗教はこれからも間違えるでしょう。
(で、これも注釈がいるんだけど)
こういうことをいうと
「科学が間違えてきた歴史だっていっぱいあるじゃん!!」という反論があるかもしれないけど
ここもまさに、科学と宗教で全く違う点がある。
科学は「訂正できる」けど
宗教は「訂正が出来ない」という点です。
そこが一番の違い。
ここでちょっと前回の「天啓の話」とも結びついてくるけど、
なんとなく 突然 一人の素人の人間が
「天啓を受けた」といって、
その当時の科学では説明がつけられず解明できていなかった領域のことに対して
「解」を導出してしまってそれで、
「その解を大勢で共有しはじめる」のが、宗教の本質だと思うのです。
そういう意味では、「宗教のグル」というのと、
「現代のインフルエンサー」というのは非常に構造的に同じです。
(疑似科学商品を売りつけるインフルエンサーとそのフォロワー、という関係と、宗教はとてもにている というか、同じか)
間違ってても突き進む、レミングスみたいなものです。
レミングス・・・
間違ってるときは大変なことになる。
そんな感じかと思います。
・・・
ということで、なんというか
「科学」と「宗教」
「科学」と「神」というものの関係性というのは自分はこういう風に考えています。
科学というのは法則に対する理解・分解ということなので、
別に普通に神や仏だって 「含む」ことが出来ます。 あるんなら
一方
宗教は?
宗教は
「まだ人間がよくわからないものを先取りして、分かったと信じる」ことだと考えています。
冷静に考えればこの時点で一行で矛盾しています。
「その時点ではまだ人類が理解できないことを理解してしまっている」「万有引力」が分かってない時代に「万有引力」の解を先に得る
「相対性理論」が分かってない時代に「相対性理論」の解を先に得る
「多元宇宙論」が分かってない時代に「多元宇宙論」の解を先に得る
わからないが、先に分かったふりをするのが、宗教的モノの考え方の根本かと思います。
・・・
・・・
だから、
人間が良くわからない領域にとどまります。
死後どうなるかとか
この世界の上位はどうなってるとか
この世界は本当は誰が作ったかとか
そういう、言っておいても否定も肯定もしづらい領域のことについて「解」を出し、それを信じること。
それが宗教の本質かなと思っています。
科学と宗教は、
「対立」しているようでもあり
つねに宗教側が間違え 科学側が訂正、という関係にもあります。
宗教側の人は、なぜかそこんところを
「宗教は科学の先を行っている」
「宗教は科学ではまだわからないことを先に理解している」と考えてしまうのですが、
本質としては
「先に言い当てようとして間違えている」 というのが宗教の常です。
故に、 つねに のろまな科学のほうが、正しく安全なのです。
だから
相容れないというより
科学は宗教を常に、
「含む」ことが出来る。
神の奇跡に再現性があるならそれを説明することが出来る。
でも、宗教は科学を嫌い 説明を嫌い、 逃げ、隠れる。
逆恨みで軽蔑したり、
また、ちょっとなんか言われるとブチブチ言ってくる。
そんなところがあるのかなと思ってたりします。
「まだ科学的に解明されていないことだから!」でなんとか逃げようとする。
まだ分かってないことを先取りで 解を共有して信じているだけなのに、なぜか、科学を見下してくる。
それは、普通に危険だということ。
そういうことだと思っています。
もうちょっと書ける気がする。
例えば奇跡の科学的説明。
これなんかは魔法というか、だんだんゲームみたいになってくるはずです。
最終的には能力バトルです。
神の奇跡や
キリストの奇跡が
「あった」とします。
キリストは、
「やろうと思えば水をワインに変えられる能力」を持っているとします。
それを
信じるとしましょう。
やろうと思えば石をパンに変えられる能力を持っています。
それを
信じるとしましょう。
でも「本当にある」んなら
科学的にも理解分解できるはずです
で、それはどれくらいできるのか?
毎日どれくらいやれるのか?
どれくらい気力を使い果たすのか?
やれないときはあるのか? 疲れてたらできないのか?
できないときはなんなのか? 神の機嫌によるのか?
それはどういうことなのか? 「神を試してはいけない」とはどういうことなのか?
できなくなるのか?それはなんなのか やはり機嫌なのか?
どういう仕組でなにがどうなっているのか?
一体どういう仕組で元素転換しとるのか
移動能力か 交換能力か
未だ解明されぬエネルギーがあり、それを利用してなにかをやってるとします・・・
別の次元の宇宙のエネルギーを借りてきてるとします (ハガレン)・・・
対価をどこかに払っているとします・・・
あーだこーだ・・・
・・・
つまりまぁ、
「奇跡」って
能力バトルになるか、説明を放棄して 曖昧なままにして逃げるかしかないわけです。
だから、「ファンタジー」というのは理屈をどんどんこねていくと最終的に ただのSFになってきて
なにも幻想的ではなくなってくる。
魔法の仕組みといのは全部 ゲームのMPがどうしたこうしたみたいな
能力バトルの「対価がどうしたこうした」 みたいな話になってしまいます。
すると奇跡が奇跡にみえなくなってきて、 だんだん説明したくなくなってくる?
奇跡が科学的に説明できる
再現性のあることであるのなら 法則性のあることであるのなら、
キリストなんて
水をワインに変えたり
石をパンに変えたりする
「1能力者」の一人です。
そして、能力としてかなりしょぼいです。
まぁヒーラーはいいけど、それ以外は、その能力 バトルでどうつかうんだ、になってくる。
・・・
だから、
「解明できない」ということに、する?
奇跡には法則性とか関係ない、ってことに、する?
だが「それ」って、どういうこと?
「なんの法則性も導け出せない現象」ってのは、どういう状態でしょうか?キリストが奇跡を使う・使わないは
キリストの気力 体力
MP HP
やる気 時間 天気
または 精霊の機嫌 神の機嫌にすら、
・・・
この世の ありとあらゆることに対して 「一切関係がない」。一切、やる・やらないを分析することが出来ない現象。
一切、法則性 再現性 を考えることが 何もできそうにない現象。
絶対に解くことが出来ない謎。
それが奇跡なのでしょうか?
・・・
そんなことが、あるのでしょうか?
宗教の科学的理解とか
対立とかを考える人は、この辺について考えてみてほしい。
「今」、科学的に分かってないことが
将来においても 未来永劫においても 永久に科学的に
「わからない 分かってはならない」そんな領域が、
「ある」と、
それ自体を
信じているのですか?それってなんですか。 なんでそんなことがあることをそんな風に「信じたがる」?
そんなものがあっていい?
そんなものがある世界は、なんだろう。
そんな世界に生きたいと思うのは、なんでだろう。
この世界に「そんなものがある」と信じている 「信じたい」根拠は・・・?
どうして、科学の光でちょっとでも照らされることをそんなに嫌がるのか、
どうして、宗教は科学の先を行っているということにしたいのか、
どうして、・・・
そういうことが見えてくると思うのです。
それって、実は、
反知性と結びついてないですか?
「神は永久に科学的に解明されない、されてはならない」と信じたいあなたの気持ちは、
どこから来てるんですか? という話
とかなんとか、そんな感じで
こんなことを未だに自分は ガーッと書くことが出来るんだなぁって思ってしまうけど、
割とこんなん書きながら、心の奥底では「どうでもいい」という風に思ってたりもするんです。
てか、この感覚は大前提も大前提なんです。
当たり前すぎて、普通。
自分で書いてて今更すぎる。
すべての人が、
宗教をやる人もやらない人も、
皆が「この感覚」を一度は持ったうえで、 この前提を持ったうえで そのうえで信じたり疑ったり
好きに生きてたら、だいぶいいように思ったりはするんです。
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