新海誠の痛さ(1)懐かしがっているのは誰か?

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『雲のむこう、約束の場所』がDVDになり、ツタヤで借りて、よ
うやく見ることができた。自分ひとりでアニメを一本全部作ってし
まう驚異のアニメオタク(笑)新海誠の新作である。コレ、オタク
の究極の夢と言っても過言ではないかもしれぬ。

その感想を書き始めたら、やや長くなった。ま、さしたる内容でも
ないんだが、読みやすさを考え、分割する。

この作品、アニメとしての全体の完成度はきわめて高い。雲の向こ
うにある謎の塔というメタファーなど、なかなか巧妙な設定だし、
閉塞した現代へのメッセージにもなっている。にもかかわらず、や
たら白々しく感じるのはなぜだろう。最後まで見続けるのがかなり
苦痛だった。

量子状態の多元性を脳の来歴の多元性に結びつけるアイデアとかは
けっこう面白いんだが、どうやらSFにタネ本がありそう。という
のも、この基本的な設定が全体のストーリーと有機的に接合されて
おらず、なんだかさっぱりわけが分からないのである。いちばん肝
心な部分なのに。おそらく自分で考えて出てきたアイデアではない。

ツッコミどころは多々ある。たとえば、地平線の彼方の塔になんで
平行宇宙を出現させる力があるわけ? そんなことしていったい何に
なるわけ?

この塔の力で、平行宇宙が今にも解放されそうになるンだが、どう
してそのせいでエゾの大地が割れ、吹き飛びそうになるわけ? 平
行宇宙と今この宇宙はどうつながってるの?

もし今この宇宙がもともと平行宇宙であるとするなら、そこにわざ
わざ平行宇宙を出現させてもカタストロフは生じないはずだ。よう
するに主人公たちが生きている空間と平行宇宙は隔絶している。隔
絶しつつ繋がっている。それを繋げているのは脳である。ところが、
そこらをつなげるロジックがすっ飛んでいる。

主人公の少女は昏睡状態に陥り、その夢の力でカタストロフから日
本を守っているという設定なんだが、どんな仕組みでそんなことが
可能なわけ? そもそも、なんでこのコなの? 父親が物理学者で、
あの塔を作った張本人らしいんだけど、それとこの娘はどう関係し
てるの? 娘だからって、なんでそんな目に遭わなきゃいけないの?

……こう書き連ねて行くと、つじつまの合わないことだらけなのだ。
ウソでもいい、でたらめでもいいから、最低限つじつまを合わせる
のがSFの務めだと私は信じる。そこらの苦しまぎれのでっちあげ
に作家個々の想像力の飛躍というものが生まれ、そこに物語として
の魅力が生まれるのだが、そうした魅力がさっぱりない。

それでも人間ドラマのほうが充実していれば、それはそれでゴマカ
シが効くはずなのだが。てか、アニメだからまあそれでいいのだが。

で、このいちばん肝心の人間ドラマが希薄すぎるのだ。中学校の同
級生どうしの3角関係……ってほどでもない淡い初恋から話がはじ
まり、最後は地球全体の危機が迫っているというのに、あいかわら
ず淡い恋模様に終始している。その落差がはなはだしい。外の世界
と内なる世界がまるで隔絶している。

ちなみに副題が英語で、The place promised in our early days
となってて、まさにそのまんま。この作品の主題は過去であり、作
家の長野における思春期なのだ。

全体を支配しているのは恋愛感情というより懐かしさであり、過去
への自己愛の投影である。あまりに個人的な感情と、世界の危機と
いうものがあくまで「並行的」に展開し、いっこうに深い交わりを
見せない。先ほどの平行宇宙と脳との関係にどこか似ている。

というか、まさにそこにこの作家が紡ぎ出す物語の構造的な問題が
ある。自分の内と外が最後まで平行線で、いつまで経っても繋がら
ない。むしろそれを逆手に取り、ドラマをでっちあげている。こい
つ、まさしく筋金入りのオタクだよ、と妙なところで感心せざるを
得なかった。

で、どうやらこの自己愛を懐かしさという装置により増幅させる語
りかたを新海誠は村上春樹から学んだものらしい。ほとんどパクリ
のような個所がしばしば見受けられる。このひとの処女作?である
『彼と彼女の猫』なんて、まさに村上春樹の世界をアニメ化したよ
うな感じ。いや、それはそれでおもしろいんだけど。てか、いちば
ん面白かった。ただそれだけじゃ、あまりにパクリそのものなんで、
無理してSFアニメに合体させようとしてるんじゃないのかね、こ
のひと?



ところで、この「懐かしさ」という気分こそが今の日本の大衆文化
を支配している。それはたんなる茫漠とした時代の気分というより、
むしろ気分を偽装したイデオロギー装置になっている、ということ
に最近気づいたのである。

というのも先日、電車のなかで「アエラ」をぱらぱらめくっていた
ら、斎藤孝がなかなか鋭い指摘をしている。過去を懐かしがる力が
存在するのはせいぜい35歳ぐらい迄で、以降はこの力は枯渇し、
私たちは今のことや、未来のことしか考えなくなる。むしろそれは
健全なことで、今の日本の若者文化がやたら「懐かしがり」になっ
ているところに逆に彼は病理を嗅ぎつけている。なるほど、仰ると
おり。このひと、ここらの微妙な嗅覚がひどく鋭い。

私の場合、この懐古力?がいちばん盛んだったのは20代の頃だっ
たような気がする。逆に、年を取れば取るほど昔のことなんかどう
でも良くなってきた。今この時を充実させることがすべてだ。考え
たいことや、読みたい本がいくらでも出てくる。人生の時間が足り
るか不安になってくる。しんねりむっつりと昔のことを考えてるヒ
マなんかない。そんな余裕がない。体力もない。人間、悩み抜いた
り、苦しみ抜いたりするのにも体力が必要だ。

で、コレ、考えてみると、おかしな話だ。年を取れば取るほど懐か
しがりになるのなら何も不思議じゃないが、実際にはそうじゃない。
むしろ逆だ。若ければ若いほど、思春期の表象に固着する根強い傾
向が今の日本の大衆文化にはある。もっと言えば、サブカルチャー
には一般的にそういう傾向がある。その理由はいろいろ挙げられる
が、日本にかぎって言えば、以下のようになろう。

いまの日本の学校は年齢ごとに細かく輪切りにされた小集団への帰
属意識をやたら作り出している。低能な若いやつほど「世代」とい
うことを言いたがる。「学校」に洗脳されているからだ。

この連中が「世代」という言葉で考えているのは、せいぜいのとこ
ろ自分の「学級」でしかない。生きている世界が異常に狭い。視野
が途方もなく狭い。アリンコのようなものである。その閉じた存在
様態は自分らのオヤジ世代となんら変わるところがない。で、その
閉じた自己愛をかつての学級に投影するところに集団病理としての
懐かしがりが出現する。――こんなところだろう。

たとえばSMAPは ♪あれから僕たちは何かを信じて来れたかな〜
(『夜空ノムコウ』)と懐かしそうに歌うが、ならばそのとき「僕
たち」とは誰かと言えば、たんに「学級」でしかない。そこにはア
メリカ人もフランス人も中国人も韓国人もいない。自分より年下も
年上もいない。ヤクザもホームレスもいない。たんに自分ら同年代
だけの閉じた世界にすぎず、「世代」と言えるほどの社会的広がり
などそこには全然ない。

あの頃の未来に僕らは立っているのかな
すべてが思うほど、うまくはいかないみたいだ

このままどこまでも日々は続いていくのかな
雲のない星空が窓の向こうに続いている


このグローバル化する一方の世界で、自分らだけの狭い、閉じた利
権集団の中に閉じこもってばかりいたんじゃ、そりゃ「すべてが思
うほど」うまく行くわきゃない。それどころか何ひとつうまく行か
ない。眼前に破局が迫っている。

ま、そんな連中にしても「窓の向こう」には星空という広い空間が
広がっていることは漠然と解っているのだが、なんせ「歩き出すこ
とさえいちいちためらう」やつらなので、一歩も外に踏み出せない。
「このままどこまでも日々は続いていくのかなあ」と、家でひとり
金玉を握ってシコシコしてる。

「夜空の向こうにはもう明日が待っている」と歌いあげるのはけっ
こうだけど、たぶん「夜空ノムコウ」で待っているのは明るい未来
などでは全然なく、端的にリストラであり、カタストロフであり、
野垂れ死にである。

やたら「僕ら」「僕ら」と1人称複数形を連呼することで世代意識
を喚起しようとしてるわけだけど、少なくともこれ、オレのことじ
ゃない。いったいこの「僕ら」とは誰のことか? 「あの頃の未来」
を懐かしがってるようなやつらとは誰か? やつらは懐かしさとい
うシャブを大衆にバラまくことで何を狙っているのか? 大衆は懐
かしさを服用することで、なにから逃れようとしているのか?

懐かしさとは端的に言ってヴァーチャルなものである。現実には
「僕ら」と呼びかけることができるような世代は、そして共同体は
もはやどこにも存在しない。

日本では誰にも救いを求めることができず、年に3万人以上の人た
ちが自殺している。それがもう7年も続いている。この間に単純計
算で20万人以上の人間が自殺したわけだ。それでもこの国の支配
層は平気のへいざである。カエルのツラに小便というやつだ。口に
こそ出さないものの、この連中は心のなかで「死にたいやつは死ね
ば?」と思っている。オレとは関係ないしぃ。

これがまぎれもない日本の現実というものだ。今の日本の大衆文化
における懐かしさの表象はその悲惨な現実を隠蔽し、狂った自己愛
を生き延びさせるイデオロギー装置の役目を果たしている。
(つづく)
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