何もないままそこにいて。
生きることと生きたいと思うことは別物だ。生きることは難しくない。選ばなければ仕事はある。家を失っても、友達の家を転々としたり、小さな家を自分で建てたり、車で移動生活もできる。問題は生きたいと思うことだ。生きたいと思えない時に、どれだけ生きることの話をされても、響かない。生きたいと思う力が枯渇した時、再び生きたいと思わせるものは何か。生きたいと思えていない人を、再び生きたいと思わせるものは何か。
大阪在住の女性A様から「大阪でお会いできるのは最後かもしれないので、よかったら泊まりに来てください。お酒も付き合っていただけたら嬉しいです」とご連絡をいただいた。私の正しい使い方である。A様は、来月に仕事を辞めて、自給自足の村に一年くらい技術を学びに行くと言った。コミュニティに興味があると言うよりは、家を自分で建てられるようになりたいのだと言った。引っ越しを控えて、強制断捨離が行われている。これまで八回引っ越しをしたが、引っ越しをするたびにリセットされるからいいと、A様は言った。
A様は「坂爪さんみたいな暮らしも考えました」と言った。最低限の荷物で旅をする吟遊詩人みたいな生き方、それもいいかなって思ったけど、私には無理だと思った。A様は、そのようなことを言った。私は、別に、吟遊詩人になるつもりはなかった。漂泊をするつもりも、文章を書くつもりも、楽器を弾くつもりもなかった。ただ、いつの間にか、こんなことになっていた。自給自足の生活ができる人は立派だなと思う。私は、家も建てられないし、食物を育てることもできない。自給自足の反対、他給他足の人間になってしまった。
A様は「何もしない時間がないと頭がおかしくなる」と言った。私は「何もしていない時間ばかりでも頭はおかしくなる」と言った。不思議だなと思った。金も家も仕事もない私に、金も家も仕事もある人たちが「不安がある」と言って、身の上話を聞かせてくれる。私は、それを聞いて、もう一つの人生に触れることができる。私には何もない。だが、不思議なことに、不安もない。食べるものがない時は「食べるものがないなあ」と思うだけで、不安にはならない。寝る場所がない時は「寝る場所がないなあ」と思うだけで、不安にはならない。ただ、そうした現実があるだけで、その現実は、他者によって形を変え、展開をする。
お会いする人たちの涙を見る機会が多い。何もしないでもそこにいていいという感覚が、稀薄になっているのかもしれない。楽しいことをやりましょう。好きなことをやりましょう。確かにその通りなのだが、その前の段階が埋まっていない。何もしないでもそこにいていいという感覚がないから、しゃべらなくてもいいことをしゃべったり、やらなくてもいいことをやってしまう。私には、何もない。何もないけれど、何もないまま、何者でもないまま、ただともにあることはできる。ただともにあることができないから、何かをさせたり、何かを言わせてしまう。ただともにあることの威力が、身体に蓄積した悲しみを解き放ち、氷が溶け出して流れて、涙になるのかもしれない。
おおまかな予定
2月28日(金)大阪府大阪市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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