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- 黒木英充「シリア・アサド政権の崩壊と今後」
黒木英充「シリア・アサド政権の崩壊と今後」
東京外国語大学 教授 黒木 英充
昨年12月8日にシリアのバッシャール・アサド大統領がモスクワに亡命しました。父親のハーフェズ・アサド大統領の代から半世紀続いた独裁体制が終焉しました。今日は、この歴史的な事件の背景や意味、今後について考えます。
11月27日にシリア北西部のイドリブ地方から「シリア解放機構」を中心とした反体制派が政府軍に攻撃を開始し、あっという間にアレッポなど主要都市を陥れ、ダマスクスに向かいました。また南部や東部からも別の反体制派が呼応して進撃し、わずか11日間で首都が陥落しました。
これには世界中の人々が驚きました。
アサド政権はロシアの支援を得て13年間の内戦を持ちこたえ、反体制派をイドリブ地方に押し込んでいました。一昨年には、サウジアラビアなど湾岸産油国と和解してアラブ連盟に復帰。昨年7月にはトルコのエルドアン大統領からも関係改善が呼びかけられました。国土は依然として四分五裂の状態で、あちこちをイスラエル、トルコ、アメリカに占領され、反体制派やクルド人勢力が大きな地域を支配していましたが、徐々に政権が盛り返すと見られていました。
しかし、アサド体制打倒の準備が着々と進んでいました。イスラエルによるガザのパレスチナ人虐殺が注目された頃から、イドリブ地方では多くの反体制派組織をシリア解放機構中心にまとめるような軍事訓練が始まりました。高性能なドローンなどの兵器も用意されました。これらはトルコの関与なしにはありえません。
昨年7月がターニングポイントでした。上旬のトルコからの関係改善の呼びかけをアサド大統領は受けませんでした。下旬にはイスラエルのネタニヤフ首相がアメリカ議会に招かれて、ガザ大虐殺の正当性を訴え、イランへの宣戦布告のような演説をして、大喝采を受けました。そしてイスラエルに戻ってすぐに、テヘランを訪問中だったハマースの指導者ハニーヤを暗殺します。続いてレバノンのヒズボラに対する攻撃を準備し、9月に入ってヒズボラ関係者が持つポケベルを一斉に爆発させ、猛爆撃を開始しました。9月末には指導者のナスラッラーを爆殺します。
この急速な展開に世界中が衝撃を受けている間に、南東のヨルダン・イラク国境地域を占領していた米軍は、給料を払って訓練している地元の反体制派に対し、「近いうちに一大決戦がある。いつでも動けるように」と伝えていました。そしてイスラエル・ヒズボラの停戦が発効したその日に、戦闘が始まったのでした。
さらに、反体制派がダマスクスを陥落させたとたんに、イスラエルはシリア国軍の基地、武器弾薬庫、戦闘機から戦艦、防空ミサイル施設など、ありとあらゆる軍事施設を数日のうちに何百という猛爆撃によって破壊しつくしました。
この一連の動きの背後には、アメリカとトルコ、イスラエルの緊密な連携があったと考えられます。この結果、イランはレバノンへの補給路を断たれ、ヒズボラは軍事力を盛り返すのが不可能になりました。
ここでトルコの立ち位置が注目されます。トルコはNATOの一員ですが、ロシア、イランと3者でシリア内戦の終結を目指す、アスタナ会合を7年間にわたり続けてきました。しかし今回、この枠組みを無視して、アメリカと連携して一気にアサド政権を倒す方向に動いたのです。
アサド体制の崩壊を長い目で見ると、次のようになります。
イスラエルの建国以来、4度にわたる中東戦争の時代にはシリアを中心にイスラエル周辺国の固い包囲網がありました。
しかしエジプトとヨルダンがイスラエルと国交を結び、それは破れます。それでも、1990年代に父アサド大統領がすぐれた外交を展開し、友好国はイランとリビアだけだったのが、すべての国々と良好な関係をもつようになりました。2000年に息子のバッシャールが大統領に就任したとき、イスラエルに対する柔らかい包囲網が出来上がっていたのです。それが2003年のイラク戦争から20年余りを経て完全に崩壊しました。今回イスラエルはゴラン高原からヘルモン山、さらにシリアにとって重要な水源のある地域にまで占領地を広げました。今やイスラエルにとって、軍事的な脅威を感じる隣国は存在しません。
今後のシリアを考えるために、シリア解放機構の指導者アハマド・シャラアについて見ておきましょう。
彼の父親フサイン・シャラアはゴラン高原の大地主の一族でした。1967年の第3次中東戦争でイスラエルがそこを占領したため、ダマスクス移住を余儀なくされますが、自由主義的政治活動により逮捕投獄されたため、イラクに逃れ、バグダードの大学で経済学博士号を取得します。その後石油問題専門家としてサウジアラビア政府に10年間勤務し、89年に帰国してシリア首相の顧問となります。
アハマド・シャラアは、小学生から大学生までの時期をダマスクスで過ごしました。大学では内気で目立たない青年だったそうです。しかし、2000年のパレスチナ第二次インティファーダと翌年のアメリカ9/11事件に強い影響を受け、イラク戦争の際には米軍と戦う義勇兵となるべく、バグダードに向かいました。その後イラクのアルカーイダに所属して活動し、米軍に捕まって2006年から5年間、刑務所に収監され、そこで後の過激派組織IS=イスラミックステートの指導者バグダーディーと出会います。
こうして20代の大半をイラクの内戦と刑務所でジハード主義者らと共に過ごしたアハマド・シャラアは、アブー・ムハンマド・ジューラーニーという戦闘員名――ジューラーニーとは、ゴラン高原出身者のことです――を名乗り、バグダーディーから数千万円相当の活動資金を渡され、内戦が始まったシリアに戻りました。彼の過激なジハード主義組織「ヌスラ戦線」は急成長し、独立志向の強いジューラーニーはバグダーディーのISとは袂を分かち、最終的な組織名をシリア解放機構としました。
シリア解放機構は、ISに比べれば無差別虐殺は少なかったようですが、それでもキリスト教徒や少数派に対する拉致や殺害、敵とみなした者への拷問や処刑は多々ありました。現在、暫定政府の法務大臣の人物が2015年に2人の女性を姦通の罪で公開処刑したことも知られています。イドリブ地方の住民の不満は大きく、昨年の春にはシリア解放機構に対する抗議デモが繰り返されました。
アサド政権を倒してダマスクスの大統領宮殿に入ったジューラーニーは、スーツに着替えてアハマド・シャラアという本名に戻り、ヌスラ戦線時代とは打って変わって、少数派の保護など耳に心地よい言葉を語り始めました。内戦でズタズタになった社会を立て直すのが第一で、イスラエルを含めた周辺国との争いは望まないと表明しています。
ところで、シャラアと聞いてすぐに思い浮かぶのがファールーク・シャラアという人物です。父アサドの時代から外務大臣を22年間つとめ、対イスラエルの柔らかい包囲網を築いた立役者です。内戦が始まったときは副大統領でしたが、対話による解決を主張した後、表舞台から姿を消していました。彼がアハマド・シャラアの父フサインの従兄だとの説がありますが、未確認です。アハマドは彼を国民対話会議に招待したと報道されています。
こうしてみると、アハマド・シャラアは過激なジハード主義者から柔軟で穏健な政治家に豹変したかのようです。しかし、暫定政府の任期は今年の3月までだったはずが、選挙を行うまで4年はかかる、と語り始めました。学校教育に関しても、当初はアサド大統領礼賛の部分だけ削除するはずが、イスラームの宗教色の極めて強いものになりそうで、早くも強い抗議の声が上がっています。
シリアの国土は依然として分裂したままで、石油収入も得られません。イスラエルが占領地を拡大し始めたら防ぐ力もありません。クルド人勢力をめぐってトルコから圧力がかかったときに跳ね返せるのか。
パレスチナ・イスラエルも含め、この地域にはあまりにも大きな問題が山積しています。その解決のために私たちには何ができるのか。問題の根っこを正確に把握する努力が欠かせません。