「世界を変えたかったが、シッターが…」 社会への関わり、阻むのは
Re:Ron連載「あちらこちらに社会運動」第9回【おもし論文編】
社会運動参加者の方々に取材をしていると、彼らの「家族」に話が及ぶことはたびたびある。若いアクティビストの方であれば、家族や親族の関心にどのように影響されたか、身の回りの人は運動参加に協力的か非協力的かといった話が多いが、年長のアクティビストであれば、パートナーとの政治関心の相違に悩んだり、どう擦り合わせればいいか迷ったりする、といった内容が多い。
実はこうした「家族関係」の研究も、社会運動研究には多い。親世代の社会運動参加が子の政治的関心にどのように影響するかという教育学・教育社会学の研究が古典として有名だが、近年ではフェミニズム運動の発展も手伝って、社会運動におけるパートナーシップについての問題関心が見られてきている。
特にエマ・クラドックによる、家庭内の性別役割分業やケア負担といった現実と、社会運動の中で主張される平等や公正という建前の関連性を論じた研究は、これまで語られてきた社会運動のあり方をパートナーシップや性別役割分業から改めて問い直すもので、社会運動研究に大きなインパクトをもたらしている。
【今回の論文】エマ・クラドックによる「緊縮財政と反緊縮活動のジェンダー的側面に関する事例研究」
Emma Craddock, 2017, “Caring About and For the Cuts: a Case Study of the Gendered Dimension of Austerity and Anti-austerity Activism”, Gender, Work & Organization 24 (1)
過小評価された女性の運動貢献
クラドックは、社会運動から女性が「消されてきた」事例として、一つの例を出す。
アメリカ・スリーマイル島の原発事故に対する社会運動を担った環境保護団体は、2人の男性の会合から生まれたことで知られるが、実は彼らの妻(パートナー)によって発案されたというものだ。このほかにも、社会運動の中で女性が「裏方」的な仕事を多く割り当てられる実態を検証した研究は数多くあり、社会運動の中で男性が目立ち高い評価を得ること、女性の貢献が過小評価されていることは近年明らかになっている。
こうした「社会運動の歴史に隠されてきた女性たち」がいる一方で、女性の顕著な役割が見られうるのは「母性」を前面に押し出した運動だ。平和運動や環境運動でも、「母親役割」や「母性」に着目した運動は数多くあり、日本でも「安保関連法に反対するママの会」などが見られる。
クラドックは、女性の「思いやり」や「細やかさ」といった要素が社会運動を発展や成功に導いたことを評価する一方で、私的領域におけるケア役割を社会運動において再生産する側面もあるとして疑問を投げかけつつ、社会運動において女性が置かれた立場に鋭く切り込んでいく。
クラドックが研究対象としたのは、イギリス・ノッティンガムの緊縮財政反対運動(反緊縮運動)だ。
2010年ごろに行われたイギリスの緊縮政策により、多くの自治体は公共サービス部門を縮小した。この政策によってダメージを受けたのが公共サービス部門(特に福祉など)で働く女性だ。仕事を失った上に公共サービスも受けられなくなり、家庭内・地域内でのケア負担を一気に引き受けることとなった。クラドックは、その状況を問題視し、反緊縮運動に参加した女性たちを対象に調査を行った。
緊縮財政で影響受けた女性、待ち受けたのは
上述したような問題意識をもとに反緊縮運動に参加した彼女たちを待っていたのは、運動内の男性中心主義と、彼女たちを取り巻く問題が無視されている現状だった。参加者のなかのベスとシャーロットは「彼ら(主に男性参加者たち)は夜に会議を開くから、子どもを寝かしつけなければならない人のことなんか考えもしない」と語り、反緊縮運動団体が会議で託児サービスを提供せず、またその要求も無視したことに憤りを覚える。
20代のエスニック・マイノリティーであるアンナは、「とにかく男性参加者は攻撃的な議論のスタイルを取ることが多い。彼らは自分の意見を押し通そうとして、相手を威圧したり、大声で黙らせたり見下したりする、そういう家父長的な傾向を排除できていないんですよね」と嘆く。シャーロットは、おそらくは女性アクティビストが作成したポストカードにこう書かれているのを見つける。
「私は世界を変えたかったけど、ベビーシッターが見つからなかった」――そして、確かにそんな気分だ、と語る。
彼女たちは元いた反緊縮運動を離脱し、女性だけの反緊縮ネットワークを結成する。このグループは貧困状態にある女性のためのシェルターを設営し、定期的におもちゃ、洋服、本などを交換するイベントを開催した。クラドックは、緊縮財政という問題に対し、女性(あるいは母親)アクティビストの視点があったからこそこのような活動が生まれたとして、社会運動における「女性(あるいは母親)特有の視点」を高く評価した。
近年、日本でも政治家や企業の役員のジェンダー平等を求める施策が数多く推進されている。その代表的なものが、いわゆるクオータ制に見られる、構成人員の比率を均衡化する政策だろう。そしてクラドックの研究の知見は、社会運動においても女性の声が聞かれるべきだ、という示唆を私たちにもたらしてくれる。
例えば、近年明るみに出てきた震災の際の避難所における必要物資の偏りや、性暴力の問題はその一つだろう。「東日本大震災女性支援ネットワーク」の調査結果によると、東日本大震災時に支援を引き換えに性的な行為を要求されるといった被害は多く見られている。避難所や震災支援の段階で女性の声がもっと多く聞かれれば生理用品や基礎化粧品の役割が認識されただろうし、性暴力も見過ごされることはなかったのかもしれない。
一方、これを読んでいる「母親アクティビスト」ならぬ「母親アクティビズム研究者」の私は、クラドックの知見に大きくうなずくとともに、ベスやシャーロットといった、立場を同じくするはずの「母親」たちの語りに、どこかで責められているようにも感じた。
「犠牲」になるパートナー
私自身は社会運動をしているとは言えないが、社会運動の研究者であり母親として、社会運動や企業で働く女性を応援する。具体的には、各地での労働組合や市民団体、企業の講演やレクチャーに飛び回っている。夜遅くに帰ってくることもあれば、遠方での講演の場合泊まりのこともある。
その間、誰が子どもを見ているかといえば、家族、主にパートナーである。クラドックの研究における男女を入れ替えれば、それは私とパートナーの関係に当てはまる。私の時間や場所を気にしない、長時間の、クラドックの表現を使うなら「男らしい」活躍は、パートナーのケア労働に支えられている――彼は間違いなく、私の母親業や社会運動の「犠牲」になっているのだ。男性の育児参加が奨励され拡大する中で、彼のような男性ケア従事者はこれからどんどん増えていくだろうし、彼らの声はケア役割を担う女性たちの声のように聞かれなくなっていく可能性もあるだろう。
性別によらず、というか性別役割によらず、フェアなあり方で社会にコミットするためにはどうすればいいのだろうか。
私領域と公的領域、双方において、誰かが周縁化されない形で社会を良くするあり方を考えなければならない。そして私は、この問いを当事者として、また研究者として探究しなければならない。
この問いをぜひとも一緒に考えたい人物がいた。
都市社会学・歴史社会学の研究者であり、地域社会の「祭り」を研究してきた研究者、武田俊輔さん(法政大学教授)である。武田さんの研究を見ると、地域の祭りが家族代々で行われ、祖父母から親、子どもまで、まさに家族ぐるみの社会参加を必要とするということがわかる。また、祭りの中には確固たる性別分業があったことも明らかになる。祭りという家族ぐるみの社会参加を支える家族たちは、その内部における性別分業をどのように受け取ったのか。また、ケア労働をめぐる負担や不平等感をどのように処理したのだろうか。
そこで次回は、私の社会運動の「犠牲になった」パートナーであり、地域における都市祭礼を研究する武田さんと対談を行いたい。
「あちらこちらに社会運動」第10回=3月末ごろ配信予定
都市社会学・歴史社会学の研究者である武田俊輔さんとの【おしゃべり編】です。
とみなが・きょうこ 1986年生まれ。立命館大学産業社会学部准教授、シノドス国際社会動向研究所理事。専攻は社会運動論。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2015年から現職。著書に『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』『社会運動のサブカルチャー化』『みんなの「わがまま」入門』など。
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