創造的になるのに、知識は必要不可欠
「知識偏重の教育は終わりにしよう」
みたいな言説をたまに・・・いや、よく見かけます。
学校で暗記をしたら点数が取れるテストをして、その結果で、優秀さ(らしきもの)が決められてしまうことに対するアンチテーゼであることがほとんどです。知識だけなら、AIに勝てないのでそりゃ言われるでしょう。知識だけなら。
奇しくも『chatGPT』が出てきたことで、AIが知識さえもまともに取り出せていないことが明らかになりつつありますが。
「知識偏重」つまり、知識だけの詰め込みはよろしくないと言っているのに、それを聞いた人の意見が、「知識はいらない」みたいになってしまうのも恐ろしいことです。
はっきりさせておきたいのは、知識は必要だということです。多いに越したことはない。その縮図が、ロボットプログラミング教室で見られます。
知識がないとどうなるか
ロボットプログラミングは、基本的にはやっていて楽しいことが多いです。だけど、ある程度、知識が増えてくると、さらに楽しくなります。その「ある程度の知識」を習得するには、多少めんどうなこともしないといけません。
ここをサボった子がどうなるかというと、自分の知っていることの範囲でしか課題に向かわないので、思考が進化しなくなります。新しい発想ができなくなるのです。進化しないと、面白さが低下します。
「最初の壁」です。
少し忍耐力が必要で、そこを超えられると、できることが増え、自分で発想を広げられるようになります。すると楽しさは、無限になります。
けれど、「最初の壁」を越えられない子がいます。楽しさの前に地味な知識習得の過程を我慢できるか、むしろ楽しめるか、という性質が求められます。
この壁を越えられない子に共通しているのは、自制心と忍耐力の欠如で、やはり学力も低い傾向にあります。
知識を身につけるプロセスを大切にする
「もっと勉強しなさい」とは言っても、「少ない時間で点数を取るために工夫しよう」とはあまり言いません。
「勉強量を評価」=「長時間労働が優秀さの証」という社会的風潮につながっている気がします。残業時間が多いほど偉い、みたいな空気は、年配の会社員を筆頭にまだ残っています。
逆に、短時間で同じ成果を出しても、「もっと勉強したらよかったのに」と評価されないのも不思議です。
本来、勉強をする意味は、その知識を身につける過程で、記憶力を養ったり、最小努力で最大効果を発揮するための戦略を練る練習です。
漢字とか社会とか理科とかの知識を覚えることを通じて、自制心や忍耐力も磨いていけます。非認知能力です。
だから、「勉強すること」は社会に出て直接役立つ力に繋がります。「自分の頭で考えて勉強することが大切」なのであって、「テストでよい点をとったことが大切」ではありません。
「創造力」にも勉強が寄与する
「創造力」を伸ばすのにも、勉強が役立ちます。
「創造」とはいえ、ゼロから何かを作ることはほとんどありません。今までにある知識を「変換」させたり、知識同士を「融合」させたり、「修正」したりすることがほとんどの現代です。
知識、それも自由自在に使える知識が多い方が、明らかに有利です。
ただ聞いたことがあるだけではなく、知識をアウトプットできるレベルまで深く理解していたり、知識同士を組み合わせられるような柔軟さが必要です。
そういう思考力を身につけるには、ロボットプログラミングは絶好のトレーニングになります。
どのパーツとどのパーツを繋いだら、どんな構造ができるのか? どのプログラムをどんな順番で並べると、どんな動きをするのか? という知識を知り、自分なりにつなげていくことを考えるからです。
見た目がクリエイティブなロボットプログラミングだけではなく、算数や国語などでも同じです。
誰かが用意してくれた学習プログラムをスケジュール通り解けば、解けるようになるかもしれません。でも、社会に出てから、新しい課題を解決するための手段を、主体的に考えられるようにはならないでしょう。
ただし、自分で勉強法を発想できるようになるには、ある程度の知識が必要です。世の中にはどんな勉強法があるのか、自分はどうしたら記憶しやすいのか、テストではどんな問題が出る傾向があるのか、などの知識です。
そういう知識を、頭の中にストックしておいて、自由に取り出して使える「記憶力」は、何かを創造するのに必須の基礎能力です。
「記憶力」は、英単語を記憶したり、漢字を記憶することから始まり、理科の実験の手順を記憶したり、数学の解法を記憶する過程で、鍛えられていきます。
そんなわけで、「知識」と「知識を習得する過程で身につけた能力」が、「創造性」を養うには必要だと考えています。



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