哲学するトナカイ

哲学するということはどのようなことか、ハイデガーやカント、スティーブジョブズ、デカルトの哲学を交えて語ってみたい。ハイデガーは「存在とは何か」というテーマを敷きながら「世界内存在」や「時間性」、「存在者」というワードを踏まえて分著を書いた。哲学するには言語的な概念が必要不可欠である。カントだったら「家庭内存在」、「実在性」、「対象性」という言い方をするのかもしれない。この言葉のズレを「差異性」と称することがある。ドゥルーズの「反復」において取り分け「時間性」と「実在性」という二つの「差異性」について哲学することもひとつの「可能性」のある内容、あるいはことがらである。存在とは何か、と哲学することも険しいがひとつの点であり、スティーブジョブズの言うような点と点が結ばれるという比喩に見られる連関が考慮されるであろう。哲学するということは考察や内省することである。デカルトは観照することが一番大事と説いたほどの有名な思慮深い存在である。デカルトは分著である『方法序説』において、私が疑うことに終えることは疑っていた私がたしかに存在していた、という事実である。この私が存在していた、ということは疑いようのない事実であると考え、近代哲学の祖とされた。『コギト・エルゴ・スム』は有名な風刺であろう。我思うゆえに我あり、という言葉は改定されることもあり、スピノザの 我思惟しつつ我あり が有力候補である。哲学することはデカルトにとっては修行の類であり、天啓を賜った感のある者は他に毎日決まった時間帯に散歩をしていたカントが挙げられる。デカルトとカントは神様を信仰し、信じていたと思われる。デカルトは『省察』にて、神の栄光について語るにしても、神が無限であると考える限り神の存在論的概念について諦めないと云う様に語るにしても、なぜ疑い深いデカルトが神の存在を肯定するのであろう。誰も「神がいる気がする」という気柱を立てたことはないはずである。神を信じたかったから信じる、そして神を信仰したかったから神を信仰する、という考え方をデカルトは辿っていたのであろう。カントも神を信じたい、信仰したい、と心底思っていたと思われる。アンセルムスも神の存在論的証明に傾倒し、主にカントの〔神の〕 自然神学的証明 宇宙論的証明 存在論的証明 道徳的証明が有名な説として広まっている。いずれも確実といえる証明説ではないと個人的には考えている。誰もカントが神の存在を証明したとは口にしないのではないだろうか。奇しくもアンセルムスとデカルトは同じ神の本体論的証明を考案し、同じ内容の文章を書いてしまっていた、という逸話がある。幸運にもアンセルムスは「デカルトと同じことを書いてしまったけど微妙じゃない」、デカルトは「アンセルムスと同じことを書いたけど微妙じゃない」と思っていたらしく、どちらが先に証明したか、という論争には発展しませんでした。ちなみにバードランド・ラッセルも神の存在論的証明も試みられています。ラッセルは94歳で亡くなりました。

デカルトの道徳論には多彩な色合いは見られない。しかしながら、「仮の道徳」というデカルト自身も不明確であった概念は時々見られるようである。

眼の前に倒れている人を助けることを道徳であると思わなくても、その人のために行動すること――これが仮の道徳=信じていない あるいは仮の道徳性

デカルトはまず初めに道徳だと思わなくても行動せよ、と言います。行動してその行動のあとから道徳心というものは養われる、という考え方ですね。
カントは他者を手段として扱わず、他者を目的として扱うべきである、と主張します。あくまでも「目的として扱うべきである」とし、「目的として扱わなければならない」というmustではないと考えています。他者を手段として扱うなら、「あの本、どこにあるか探してくれ」ということも懸念されますね。他者を利用する非道徳的と思わしき行為も手段として利用する範疇に含まれます。「あの本が見つかったから、読んでみないか」と他者にその他者のためになるという目的を考慮して扱う、というやさしさが目的として扱う範疇に含まれます。その人を応援しようとして行動することはその人のプラス作用という目的のために行動することであることが顕著であろう。応援すれば良いとは一概に言えない。美味しい食事を作って応援しようとしても肥満になることもあるし、バレンタインにチョコレートを手渡ししてもむし歯になる場合がある。私たちは逞しくありたいと思い、子どもに柔道を習わせるケースがある。それでも力が付いて強暴者になり、危険になる場合があるであろう。柔道や空手も善意で応援しても微妙である可能性がある。「柔道を習うことは誰かを傷つける」ということはあり得なくもないであろう。応援すれば誰かが嫉まれるということは少なくない。応援者も嫌われ、応援される側も嫉まれる可能性がある。応援すれば誰かのためになるかもしれないが、傍から見ていた者に微妙視されることもある。私たちは応援していいとき、よくないときを見極めるべきである。隠れて生きよ、という思想もあるように、目立って応援しないことが要である。応援するなら隠れて応援するということも考えられる。隠れて応援すれば、見つかって嫉まれることを防ぐことができよう。エピクロス派の哲学徒は"隠れて生きよ"という格言を重んじていた。エピクロスはトナカイの透明人間であり、哲学するトナカイと言っても過言ではない。エピクロスは死について死は存在しないという風刺を残している。ハイデガーは死を追い越し得ない可能性があると述べた。たしかに一度死んで終わった者もいるであろう。しかし、生命的な復活劇が現実に起こり得ることをハイデガー自身が死んでから身を以て体験した。このことは死は一回性とは限らないというかすかな日差しを示している。サルトルは著書『嘔吐』においてロカンタンの自殺というもの書きたかった。ロカンタンは自殺して苦しみ、そして苦しみから解放されるために自殺をしようとして、さらに苦しむことになった。お釈迦様の牛の逸話においては、牛が蹄があり邪魔で苦しいので自殺をしようとした。すると飼い主にもっと厳しくされ、さらに蹄を付けられた……。牛は困惑して自殺したことを後悔した。お釈迦様は自殺をすることは自分を苦しめるからよくない、と言ったとされている。しかし私は終わりの自殺となるなら自殺をしてもよいだろうと考える。一生生き続けること生命の終わりを迎えることとを加味すると終わったっていいじゃないか、と思えるのだ。いつか人生のゲームオーバーが待っていることは誇らしいと思う方も少なくない。永久に生きなくてもいい、かえって永く生きるのは嫌だ、と思う方も少なくない。ショーペンハウアーはゲームオーバーはいいと思っていた。ショーペンハウアーは人間的な欲望は満たされることを知らず、欲望=意志が苦しみの元であると説いた。この意志の否定を私たちは遂行しなければ、苦しみとペシミズムで世界は溢れかえったままであると説いた。
いや、意志の否定さえ盲目的な意志を持つ私たちには難しい、とショーペンハウアーは考えた。まず現代では意志の否定という仏教主義的な禁欲を行う者は少ないと見受けられる。何も欲しくない者なんて存在しないはずである。何も欲しくないという言葉、そしてゲームオーバーはいいという言葉はどちらも「ショーペンハウアーいい」という意味がある。ショーペンハウアーは仏教学を学び、苦しみの起源を探求した。他者との摩擦による苦しみ、すなわち人間関係の悩みが苦しみを齎すとショーペンハウアーは見出した。他者に対する同情により他者に軽蔑されることもあるかもしれないが、同情して欲しい人物も存在するはずである。この同情していいか否かで苦しむとき、誰かと共苦することで気が晴れるという。共苦とは共に苦しむことであり、共苦の同情が人間的な味わい齎すと述べる。この同情が嬉しい、ニーチェ的に言えば喜びの最たるものであるとショーペンハウアーは述べる。いいかえれば共苦感情とも言えるこの共苦の同情は苦しみから乗り越えるためのひとつの道具と言えるかもしれません。
ドストエフスキーはこの共苦の共有を大事であると考え、「ショーペンハウアーの衝動」も両者は大事にした。ドストエフスキーは『罪と罰』という小説にて「目的は手段を正当化するか」という命題で言葉が紡がれ、さらに歴史的に正義とされる「善なる観念」に基づくものであるなら、はたして殺人という手段は許されるのか、という葛藤を考えさせられる。この目的は手段を正当化するか、という命題において、優勝するために大会の試合時刻に遅れさせる、という卑怯なプレイを挙げてみます。優勝するために卑怯なプレイをするのはクズ同然でしょうね。大国を潰すために戦車を使う、というのもマキャベリの考えでありましょう。戦車を断固否定してもいいのですから、手段の戦車を使うというのは許されません。したがって目的は手段を正当化しない。殺人も認めるわけにはいかない。例の戦争中に敵陣の命を滅ぼすことが正義と言って命令してもそれは正義ではない。殺人は正義であると認めてはならない。百人殺せば英雄だ、とチャップリンが言い遺しても英雄じゃない、むしろ悪漢であろう。私たちは鵜呑みにしてよくないことは鵜呑みにしてよくない。サンタクロースを鵜呑みにすることはプレゼントを貰えるからそれはそれでいい。しかし、「私はいい人だ」と相手が言って鵜呑みにするのでは、詐欺に遭いかねない。「あなたの家族ですが」と名乗ってくる詐欺集団も鵜呑みにするのではなく、相手の情報をメモに書いておくことでスムーズにいく可能性がある。大丈夫、詐欺される心配はない。詐欺されないと信じておく手段もある。また、詐欺者と関わらない、すなわち縁を持たないように注意されたい。外出で何気なくコンビニエンスストアに行っても詐欺者や危険者と逢わないように気を付けたい。ちょっとした気のゆるみが犯罪に手を染められうる危険な瞬間である。油断は禁物とは、ヘーゲルが好きな言葉である。ヘーゲルはコンビニエンスストアを「ヘーゲルいい」と見做した。そしてまた、「コンビニ」を「ヘーゲルいい」と見做し「コンビニはいい」と考えた。


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