数秘33...
マスターナンバーで訳わからん、愛に溢れた宇宙人だとかなんとか。
なにを隠そう私もその数秘33!( ´艸`)
確かに変人ですけども笑!
よく人と会話噛み合わなくなってたけど、
宇宙人だったからか!*☆ ((@ノ∀`*笑))
…実におもしろくない。
(注/これは全て私の主観です。別に楽しませるために書いてない、気軽にふわっとブログしてるとしたら、余計なお世話ですよね。最初に謝っときます。これから色々言うからごめんなさい。黙れ!と思う人はそっと閉じてね。)
まず、実際私は数秘術では33になるけれども、検索したらこういうページたくさん出てくる。なんだコレって思う。
私はある時、ひょんなことから偶然自分が数秘術で33になることを知った。
ネットサーフィンが好きで波乗りしまくってるから、もうどこで読んだかも思い出せないけど、数秘33の内面(葛藤・孤独感)?が書かれているのを読んだ時、自分が感じていた違和感が説明されたような気がして、正直泣いた。
確かに占いで良いことを言われたら、良い気分になる。
そりゃあ、あなたは特別!なんて言われたら気分いいだろう。
でも数秘33で感動したのは、マスターナンバーで特別だとかじゃなくて、自分の中にいた謎の孤独感の正体のヒントを得られた気がしたからだ。人はみんな何かしら孤独のようなものを内在させていると思うけど、でも感動した気持ちは今も大切にしている。
(というか私は、そもそも特別って何?とか考えだす。だからマスナンは特別♡という意見に興醒めする。全ては特別でだから全ては特別じゃないんじゃない?!?!とグルグルしだす。)
自分とは何者か?多くの人が抱く興味だと思う。
数秘術に感動した私は、自分のことを掘り下げるひとつの視点として、数秘33を調べるようになった。
最初は哲学的だったり、数秘術という分野を追求してたり、楽しい記事も多かった。
でも気がついたら、「ハッピー!愛を発信♡我ら宇宙人☆」という記事が増えた。
これは個人の感想ですがほとんどは、内容は、無い。
そしてそんな記事はめっちゃ検索に引っかかる。更新頻度も高い。強い...。
変人 宇宙人 愛 これでいいのだ♡ と、キャッキャウフフしている。
キャッキャウフフの反面、ビジネス的要素を強く感じる。
(アメーバは特にビジネス要素大きいのかな?だからここを選んだ)
いや、すみません。どんなブログだろうが自分の勝手ですよね。
ビジネスだとしても、どう書こうがもちろん自由ですよね。
ビジネス的な雰囲気に引っかかりはありません。(詐欺は嫌ですが)
引っかかるのは、変人だとか、愛ある人だとかそういうとこです。
そんなものは他者が決めることであって、人は人の好きなこと、
信じることをしているだけで自分基準で言うと結局普通だから、
そう変人アピールしてくれるな、と思うのです。
少なくとも私は33だから変人、という評価はしません。。
(22のお茶会がほぼ無いの、好感持てる。)
もし、ウチら変人!wと内輪で遊んでるだけでしたら、
いちいちこんなこと言って申し訳ない。
でも時代を変えよう!常識を変えよう!と
割とスケールの大きい感じもあるじゃないですか。
そこが33ぽさになるのでしょうか?
(33は特別・変人なんだよ〜、と言って他人(自分)の自尊心を簡単に満たすインスタントカウンセリング、疑問に思う。)
(あと、ビジネスなブログなら、改行やフォントサイズなど見た目だけでなくもっと研究して内容充実して欲しい。それっぽいことばかり言うのではなく。これはニーズの違いですか?)
確かに社会的暗黙の「普通」はあると思う。
けどそれは曖昧で絶対的なものではない。
「普通」とか「変」なんて、社会が作っていると思い込んでいるだけで、
本当はどこにもない。
ある人から見れば変、ある人から見れば変じゃない。
環境が変われば普通の基準も簡単に変わる。
愛だって、ずっと哲学のテーマになっている。人生観によって変わるものだと思う。
正しい答えも決める必要はない。
各自、自分の信念を人生において構築していくだけだと思う。
それゆえに起こる争いも、人間を知ることによって人類が進化していくための手段のひとつかもしれない。
(こんなこと言ってるし、こんな風にしか疑問を呈せないけど、
私は平和主義...のはずです。)
気がつけばなかなか長文になりました。
いつもならこんな批判するような行為をいちいち公でしませんが、
今回アメブロに投稿したのは、私の信念が刺激されたからでしょう。
キャッキャウフフの方は、本来は別にとやかく言われる筋合いもないはずです。
好みでないというのなら私が避ければいいだけだし、水を差すような言葉を投げてしまい申し訳ない気持ちもあります。
でもキャッキャウフフしながら、「いつまで地球の常識(?)に縛られてるの?」といって他者の価値観へのリスペクトがない方々がいて、数秘術をいいように使っているのは私は好きじゃありません。
(彼らの哲学的にはそれが正しいのかもしれませんが...。)
そうですね、今回最も書きたいのはこの気持ちでした。
倫理的な問題はきっと平行線ですし、人によりけりなので言及しませんが、ただクズ・ゲスい=変人、と捉えていて、数秘術や宇宙人やらでまとめているのはナンセンスとしか思えません。
はたから見ていたら、おでんツンツン男と変わりありません。
いや、おでんツンツン男の方が、ゲスいですがまだ笑えた気さえします。
(くだらなさと、あのリズムに)
彼らは自分の感情に素直に従って、世界を楽しくアップデートしようとしているらしいですが、全然おもしろくないのでアップデートできないと思います。
彼らは「普通」の人を見下しているような気配すらありますが、一応私も彼らと同じマスターナンバーですから、聞いてもらえますかね?それとも覚醒(?)してない、とか言われちゃうんですかね。
クズなのは構いません。でもクズを自覚して、さらにクズになろう!と数秘を使って啓蒙するのはますますセンスを感じません。表現能力の問題でしょうか?他に表現なかったんでしょうか?
うーん、何をこんなに憤ったのかというと、やはり数秘術をネタに自分の行動を正当化していることでしょうか。
今後は自分の好きに生きたいこと、行動の理由を、
宇宙とか、数秘術とか、その他占いなど、
一応全人類をカテゴライズできるような分野で表現しないで欲しい。
君たちが自分の感情至上主義で、曇りなく好きに生きたいのなら、
君個人という唯一無二のカテゴリーで発信、表現してくれ。
それなら私はまだリスペクトできるところを探すのに。
まずはハッシュタグの数秘33を外して欲しいな。
聞いてくれないだろうなとは思うけど、
でもまぁひとつの意見として受け取って欲しいな。
同じ数秘33からのお願いだよ。
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余談だけど、スピリチュアル難民がいるとか何とかで思うこと。
何を信じ誰を信じようが、信じるに足るものを延々探そうが、間違いなく自由なんだけど、もしスピリチュアルに生きがいを見つけたいとあなたが言うのなら、それこそ一度窓を開けるか、ベランダに出て深呼吸をし、空を見上げて、これまでの人生で自分を苦しめてきたものや、少しでも綺麗だと思えたものを振り返ってみて欲しい。
きっとやるせないような不思議な切ない気持ちが湧いてくるだろう。
その気持ちを真に理解し、寄り添ってくれるのは自分自身しかいないと私は思う。
生きてることがもう嫌だな、不安だな、ウンザリだな、と思うだろう。
そう思えるのは、自分の命に誠実に向き合おうとしているからだと私は信じたい。
あなたが今スピリチュアルだと思ってお金や時間をかけている・かけようとしているものを、植物や猫、犬、魚、あるいはルンバやぬいぐるみなど、新しい命・他者をあなたの世界に迎えることに変えてみて欲しい。
迎えるには準備や、その後の手間もかかるだろう。
でも愛やスピリチュアルはそこにある。私はそう思う。
スピリチュアルをやめろなんて言わない。
あなたの追い求めるものを別の角度から探してみてもいいでしょう?と提案したい。
一見何の関連もなさそうな小説、映画、音楽、漫画からも見つけ出すことはできる。
悲劇、喜劇、作者の数秘や出演者の星座、その他諸々なんて関係ない。
何かを生み出した人の物理世界では見えないエネルギーに作品を通して触れればいい。そして自分にも例外なくあるエネルギーを感じ取れればいい。
私たちは他者の幸せや不幸に触れこそすれど、自分のものにはできない。
そしてあなたの見つけた綺麗なものや悲しいものは、あなたを通して世界に伝わる。
それを世界に伝えるために無理に起業や商売をすることもない。
日々の所作や言葉使いで、それは十分表現できる。
泣きながら笑ってコツコツ生きる。
社会的に成功している人も、成功しているとは言えないかもしれない人も、コツコツ生きてる人は小さな綺麗なもの、悲しいものを丁寧に拾って、世界を美しくしていく礎を築いている。
だからあなたの審美眼を乱すようなものには捕まって欲しくないな。
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自分の好みでない記事が多いからってこんな風にいって申し訳無い気持ちも出てくるし、誰にも読まれないかもしれない。
でも、そう思ったことを、スピリチュアルや数秘33への疑問をネットに残したかった。
私はカウンセラーでも数秘術研究者でもなく、ただ宇宙やらオカルトやら哲学が好きな人間だから更新することはもうない。
(結局個人の好みだけど、面白い観点、考察の数秘術のブログ、もちろんあります。)
最初で最後のアメーバブログ おしまい。
同意見の人、反対意見の人、最後まで読んでくれてありがとう。
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最後にカリスマを求める心理の説明として、私の好きなwikipediaの項を紹介する。
カリスマ - Wikipedia
人は繰り返す日常に退屈しやすく、絶えず非日常へと誘われる性質を持っている。そしてカリスマは非日常への誘いとなる。故にカリスマ的人物(新たな「恋愛」対象者)は、非日常的である方が好都合である。非日常世界を求める者にとっては、珍奇で周囲から変わり者と思われる人物の方が魅力的に映り、端正な人物の言葉は「正しい」だけで魅力を感じない。そしてカリスマに引き寄せられた者は、自己と向き合うことを避け、検証能力を持たなくなる(カリスマに自己を委ねる)。カリスマが批判された場合は、それをカリスマの聖性の証明と受け取る。この時点で日常的判断は手放され、カリスマ的人物の意向のまま徹底して信者は追従していくこととなる。
だが日常を退屈に思う心理機構は、過敏な感性を持つ反面、怠惰な性質の者に多く発生する。実際には同じ出来事が同じ状況で繰り返されることも、昨日と同じ今日という時間も在り得ない。退屈な“終わりなき日常”を変革し得るのは、自己の意識のみである。過敏な感性は先天的だが、豊かな感性は学習によってしか生み出されず、また豊穣な個人的体験は、その個人の社会への参加水準に比例しているという[15]。
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代弁ありがとうございます。
M
2018-02-25 01:18:25
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